少し早めに湖に着いたルミエールは、水面に映る自分を見つめ溜息をついた。
「酷い顔……これではノワール様にご心配をおかけしてしまうわ」
しかしどれだけ笑顔を作っても、どれもぎこちなく不自然で、ルミエールの表情はますます暗くなる。
だけどこうして会うのは今日が最後、ソレイユにそう約束したのだから。
『俺が王位に付くまで我慢してくださればいいのです』
ソレイユの言葉を思い出して小さい溜め息を付く。
自分の恐ろしい一面を見つけたような気がしてルミエールは唇を噛む。その日を待ち望む事は、父の死を望む事に等しい。何て酷い娘なのか、そう考えずにはいられない。
「むす……め?」
ルミエールはふと宙を見上げる。唐突に答えのでない疑問を突きつけられた気がした。むしろこれは疑問なのか、彼女にはわからない。
「何かしら……」
部屋に用意されていたウェディングドレスといい、どうしてこうも不安になる事ばかり続くのだろう。
「ノワール様がいてくださったら、このような想いを抱えずに済むのかしら……」
ルミエールは今にも泣き出しそうな自分の顔に触れた。そしてまだ来ないノワールに想いを馳せる。
すると想いが通じたのか、ガサガサと草木を掻き分ける音と共に彼は姿を現した。
「え……っ」
ノワールは彼女を見初めるなり、引きつった声をあげた。
「女性をお待たせしてしまうとは……っ、申し訳ありません!」
すぐルミエールの元まで駆け寄ると、彼は深々と頭を下げた。
「お気になさらないでください、……いつもこんなに早くいらしていたのですね」
ルミエールは月を見上げると、微笑みを浮かべた。
「いえ、その、貴女をお待たせしたくなくて……」
ノワールは苦笑すると、「今日はお待たせしてしまいましたが……」と沈んだ声で続けた。
ルミエールは少し慌てた様子のノワールが珍しくて、思わずクスクスと笑った。そんな自分に彼女は少し驚く。
「不思議、ノワール様に元気を分けてもらえたのかしら」
胸に手を当てると、彼女はとても温かい気持ちになる。あれほど沈んでいた気分が今は高揚している事に、ルミエールは苦笑した。
「ノワール様はご存知? 光の花は、昔はどこにでも降ったのだそうです」
ルミエールは湖に手を伸ばし光に触れながら言った。
ノワールはルミエールを見つめながら、その話を聞く。
「昔は争いなどない、平和な世の中だったという事でしょうか」
同じように光に触れると、手に落ちてきたその光を握る。その様子はどこか辛さを隠しているように悔しげだった。
「いつか、そんな世界に戻せたらいいですね……」
ルミエールは月を見上げ光が消えてゆくのを見つめる。そして完全に光が消えるとノワールに微笑んだ。
「……そう、ですね」
ノワールはぎこちなく微笑んだ。
彼女は子供の頃の約束を信じているのだと、そう思うとノワールは心が痛んだ。
あれから十年が経ち、両国の確執は簡単に拭えるものではないと、彼は嫌という程実感していた。
だけど守られて育ってきたルミエールは違った。王になる事もないただのお姫様は、いつまでも子供の頃の夢を見続けている。
ノワールはそれに若干苛立ちさえ感じたが、あの頃のまま変わらずにいてくれる彼女に安心もしていた。このまま変わらないで欲しい、そのままでいて欲しい、恐らく赤の王子もそう考えているから、彼女を自由にさせているのだろうと思った。
「そういえば……ソレイユ様は、お元気にしておられますか?」
ノワールは唐突に聞いた。
ルミエールと出会ったあの日以来ほとんど会っていない。他国で偶然鉢合わせる事はあるが赤の王に付き添っているだけの彼は会話どころではないのが常だ。
理由は赤の王の威圧的で傲慢な物言い。それが場の空気を悪くし、彼はいつもその後始末に走り回っていた。
そのお陰なのか他国でソレイユの評判が悪くないのは知っている。何でもそつなくこなし、剣も青の国主催の大会で優勝するほどの腕を持っている。何より青の王子ベルナーはそれを剣舞と呼んで大変気に入っていたとか。
しかしどれも他人の印象だった。彼自身がどういう人で、どう国の事を考えていて、黒の国をどう思っているのか、そういう事がノワールにはわからなかった。
唐突なノワールの問いにルミエールは首を傾げる。
「ソレイユですか? 元気ですよ、昔は父と折り合いが悪くて大変でしたが……」
ルミエールは少し言葉を濁す。
父はいつからソレイユに手をあげなくなったのだろう。いや、ソレイユはいつから、進んで父に付いて歩くようになったのだろう。彼が、「ルミエール」と呼ばなくなったのは一体いつから……。
「ルミエール様?」
ノワールは質問が悪かったのだろうかと少し表情を曇らせる。
「あ、ごめんなさい。最近は勉学に励んでいますわ」
ルミエールは少し慌てた様子で微笑んだ。
「その所為か昔ほど構ってくれなくなりました」
少し寂しげに微笑むと、今度はルミエールが沈んだような複雑な表情を浮かべた。
「そう、なんですか?」
ノワールは、あのソレイユが? という驚きこそあったが、少し安堵した。同時に、彼は弟君なのに、何故彼女の傍にいる事を好ましく思えないのか気にかかった。
「でも今日は、ここに来る直前まで一緒でした」
彼の気持ちなど露知らず、ルミエールは笑顔で言う。
それを聞いたノワールは頭を抱えると、「ソレイユ様は弟君」と、まるで呪詛のようにブツブツと唱えた。
「どうかなさいました?」
ルミエールはノワールの顔を覗きこむ。
ノワールはそれに困惑しながら、「いえ、こちらの話です」と言ってはぐらかした。
ルミエールは不思議そうに彼を見ていたが、ソレイユの話をしている今しか話す機会はないと、覚悟を決めた。
「あの、ノワール様……」
彼女が名前を呼ぶと、ノワールは「はい?」と微笑んだ。
ルミエールは一瞬躊躇しそうになりながら、話を続ける。
「ソレイユは、いつも私を心配してくれていて……」
ノワールは「彼はそうでしょうね」と返すと、ソレイユの話題を振った事を少し後悔した。それは彼の話ばかりになってしまったからではない。彼女の言わんとしている事の見当が付いてしまったからだ。
「もう十八になるのだから、父にばれたら大変だから、と……」
語尾が濁り、喉の奥で言葉がつかえる。
ルミエールは「もうここには来る事はできない」と、続ける事ができなかった。
「仕方ないですよ、俺達はもう大人だ……」
ノワールは彼女を困らせまいと、ぎこちなく笑った。
両国共に十八歳を成人と定めていた。彼女が十八歳になった今日、そう切り出されるのは仕方ない事だと彼は思った。
ノワールは彼女に手を差し伸べた。
ルミエールは少し躊躇いながら、その手に自分の手を添える。
ノワールはその手を愛おしそうに見つめ、甲に軽く口付けをした。
「何も永遠の別れではありません……」
「ソレイユも同じ事を言っていました」
ルミエールは赤らめた頬を隠さず、ノワールを真っ直ぐに見つめ微笑む。
ノワールは「また弟君ですか」と苦笑する。
「『大人になったら、国同士も仲良しにしよう』……これを実現できれば、また会える」
両国の確執は簡単に拭いされるものではない。ノワールはそう実感していたはずなのに、気付けばまたその夢物語を口にしていた。
...2012.05.22