ご主人様は猫

 ルゥと由良の奇妙ながらも新しい生活が始まって、気付けば一月が経っていた。
 あんなに猫には見えない身体に慣れる事ができなかったルゥだが、 由良がいるだけでこうも簡単に受け入れる事ができた。 あの頃はあんなに見上げていたのに、今では自分が見上げられている事すら違和感がなくなった。 慣れとは恐ろしいもので、毎日同じ事が繰返されれば自然と順応してしまう。 ルゥにはそれが良い事なのか、よくわからなかった。
 だけどどうしても慣れない事もある。 保健所に送られてきた人々を管理、そして死を与えるあの仕事、これだけは慣れない。 こればかりは性格の問題だろうか、シェトのように笑っていられれば楽なのだろうか。 しかしルゥにはそれができなかった。
 仕事から帰ってもできる限り考えないようにした。 だけど由良の顔を見ればすぐ罪悪感に苛まれる。 だって自分が殺しているのは彼女と同じ人間だ。 ルゥやシェトが人間にやられたのと同じように、今は人間達を殺してる。
 由良はルゥの暗い気持ちにいつもすぐ気付く。 仕事から帰ってすぐは何にも触れたがらないのも……。
「シャワー浴びればすっきりするよ」
 そう言ってルゥをバスルームに押し込んだ。
 猫の時はこうして毎日シャワーを浴びるなんて考えもしなかった。 むしろ飼い主次第なところさえあったし、拾われる前は雨がシャワー代わりだった。
「はぁ……」
 頭から温めの水を流しつづける。 下界は水不足だとか聞いたが、この世界はそういうのとは無縁だ。 よくわからない死後の世界、実際この水が本当に水なのかすらわからない。 全てが幻かもしれない、自分が浴びつづける人々の叫びですら……。
 シェトからすればそれは仕返しであり、当然の報いだ。 でも、本当にそうだろうか。 仕返ししようと言う気持ちを咎める事はできない。 だけど、それを関係のないものにぶつけていいのだろうか……。
「(気持ち悪い……)」
 シャワーを止めず、ルゥはその場に蹲って顔を覆った。 前はどこででも泣いていたけど、最近はこうしてシャワー中に泣く。 由良にも見られずに済むし、鏡に映ってもシャワーのお陰で見ずに済むから。

五話:隣人

 次の日、ルゥは仕事が休みだった。 外は天気も良く、絶好のお出かけ日和だ。
 しかしルゥは朝食をとってすぐまた眠ってしまった。 そんなルゥに由良は驚いた。
 この世界のあり方に従えば由良はペット。 当然一人で出かける事はあまりなく、ルゥが仕事にでれば退屈な時間になる。 家事全般をルゥの代わりにやってはいるが、それでも時間は余る。 それでも彼女は文句を言わず、ルゥが休みの日を待ちわびていた。 なのにルゥはこうして寝ているのだ。
 だけど由良はルゥを起こすでもなく、すぐ近くのソファーに腰掛けて眠るルゥを見つめた。 その表情はとても穏やかで楽しそうだ。
「(疲れてるのかな……仕事辛そうだものね)」
 由良はそんな事を考えながらルゥの様子を眺める。 ただ眠っているだけなのに彼は見ていて飽きない。
 ルゥは由良の座るソファーのすぐ傍で丸くなって眠っていた。 人と変わりないその身体でよく丸くなれるものだと内心由良は関心するほどに。 そして時たま頬が痒いのか軽くグーにした手で頬を擦る。 その仕草はまるで猫のようだった。
「(そういえば、ルゥは猫だものね)」
 由良はそれを見ながら楽しそうにクスッと笑う。 だけど瞬間由良の表情は暗いものに変わった。
「(ルゥが猫である事を忘れてしまうなんて……)」
 自分に言い聞かせるように由良は首を横に振る。 どんなに人のような姿をしていても、ルゥは自分が猫だと信じてるかもしれない。
 そして由良も、彼があの猫だと気付いたから今こうして一緒にいるのだ。
「ごめんね、ルゥが猫な事を忘れて……」
 言葉を交わしたり、自分より大きくなった彼を見ていると色々と抜け落ちる。 猫の彼に対して人のように接してはいけない、だって"彼ら"は人を憎んでいるはずだから。
「(でも、難しいよ)」
 由良はソファーをおりてルゥのすぐ傍に座り込む。 そしてルゥの髪の毛に触れて下界での事を思い返す。
 捨て猫だったルゥは出会った時泥だらけだった。 だけど連れ帰って泥を落としてあげると綺麗な毛並みをしていた。 触れているこの髪の毛もとても柔らかくサラサラとしていて綺麗だ。 そういう所は同じだけど、何かが違う。
 猫だったルゥは四本足で歩いたり走ったりしていた。 だけど今のルゥは二足歩行だ。
 他にも色々あるけど、耳や尻尾は生えているけど、やっぱりあの時とは違う。
「痛い……」
 考え事をしながら触れていた髪を引っ張ってしまたらしくルゥを起こしてしまった。
「あ、ごめん!」
 由良は手を放しッハとした。 また普通に言葉を交わそうとしてる。
「?いや、意地悪じゃないなら別にいいけど……どうかした?」
 ルゥは起き上がると何か様子が可笑しい事に気付いて首を傾げた。
 仕草こそ違うけど、猫のルゥも由良の様子が可笑しいといつも擦り寄ってきてニャーニャー鳴いていた。 由良はそれを思い出して変わったのは見た目だけなのだとそう思った。
「ううん、ありがとう、ルゥ自身はあの頃と何も変わってないんだよね」
 由良は眉をハの字にしてヘラッと笑う。
「うん……?」
 ルゥはますます意味が解らなくなったが曖昧に答えた。

 二人は昼過ぎ買出しに行く事にした。 食材、消耗品の買い足しだ。
 でも綱は付けない。 この世界から言えばルゥと由良は主人とペットかもしれない。 だけどルゥにとって、由良はいつまでも大事な主人だ。 だから綱を付けるなど考えられなかった。
 家から外に飛び出すと、二人は思わずキョロキョロと辺りを見回した。 注目されるのはやはり慣れない、できれば人の少ない道を行きたいと考えていたのだ。
 二人は顔を見合わせ頷くと、そのまま人のいない方へ回り買出しにでかけた。
 暴れないから何も言われないが、店の中でも店員に奇異の目を向けられる。 それはすごく不快だったが買出しをしないと食事が作れないし、消耗品だっていつかは尽きてしまう。 だからいずれ気にならなくなるか、彼らが受け入れてくれるのを待つしかなかった。
 ぐったりと俯きながら歩くルゥのすぐ横を歩きながら由良は「大丈夫?」と聞いた。
「うん、オレは大丈夫……」
 ルゥはルゥで由良を気にしていたが、小さい頃からピアニストとして色んな所で演奏していた彼女は、注目される事になれているようだ。 そうでなくても、どうしたら気にしなくて済むかを知っているのかもしれない。
「(慣れって怖いな……)」
 ルゥはボーッとそんな事を考えていて、横道からやってきた人に気付いていなかった。 由良に「ルゥ、前!」と言われた時には後の祭りで、その人とぶつかった。
「イタタ……ッその、ごめんなさい!大丈夫ですか?」
 ルゥは体勢を立て直すとぶつかった相手に手を差し出した。
「あれ?」
 しかしその人物には見覚えがある。 ピンク色の淡い髪の毛、目立つ長い耳、その人は由良を助けにここを走った際にぶつかってしまった人物だ。
「わああ!ごめんなさい、またぶつかってしまって……!」
 ルゥは慌てながら、握られた手を握り返してその人物を立ち上がらせた。
 その人物が立ち上がるとすぐ横を歩いていた虚ろな目の少女はその後ろに隠れた。 それを見て由良は首を傾げる。
「いや〜、僕の方こそまたごめんねぇ、暖かい陽気に思わずぼーっとしてたよぉ」
 後ろ頭を掻きながらヘラヘラとその人物は答えた。 喋り方が少々女性的だが、僕というからには男性なのだろう。 そして背もルゥより高い。
「えへへ〜また会ったねぇ黒猫さん!」
 陽気にそう声をかける彼に「ルゥ、です……こっちはオレの主人だった由良」と自己紹介をする。 ルゥは自分の名前を口にする事に少し違和感を感じた。
 自己紹介をうけて青年は「ルゥ君と由良ちゃんね、僕はねぇ〜」とニコニコと挨拶をしようとした。 しかし彼らを見つけたある人物によって遮られた。
「おーいうさ子」
「誰がうさ子だ表にでろぉ!……あ、表かぁ」
 どこかから「うさ子」と呼ばれ、兎の青年は先程とは随分と恐ろしげな険相で、口調はそのままに相手を睨み付けた。
 ルゥはその違いに少々戸惑ったが、すぐ青年は元に戻ったので何も口にせず彼が見ている方向を見た。
「……あれ、シェト先輩?」
 名前を呼ばれたシェトはルゥに気付くと「あれ、ルゥ」と驚いてみせた。
「ああ、そうか、うさ子とルゥはご近所さんだっけ?」
 シェトは肩をすくめて見せる。
 ルゥは何で呆れたような態度を取られたのかと、少し訝しげな目でシェトを見た。
「うさ子って呼ぶなぁ!僕には美羽ちゃんが付けたルクって名前があるんだからねぇ!」
 うさ子と呼ばれ続けるルクという青年は、そう言って後ろに隠れる少女の頭を抱きしめる。 恐らくその少女が美羽という子なのだろう。 しかし表情を変える事はない。
「私は由良、よろしくね美羽ちゃん」
 由良は美羽の傍に寄ると笑顔で自己紹介をした。 そして手を差し伸べる。
 美羽は言葉に答える事も表情が変わる事もなかったが、差し伸べられた手を取り握手には応じた。
「美羽ちゃんよかったねぇ、この世界で初めてのお友達だよぉ!」
 ルクは由良から離れた彼女の手を両手で握り微笑んだ。 それでも少し頷くだけで、彼女は笑ったりする事はなかった。
「変わり者同士仲良くすればいいんじゃない?」
 シェトは後ろ頭を掻きながら少し面倒そうに言う。
 それを聞いてルクは「変わり者とか言うなぁ!」と怒るが、 二人は普段からこういうやり取りをしているのか仲が悪いという様子ではなかった。
 恐らく綱を付けずに人間と歩いていれば変わり者で、 そしてシェトも、ルゥやルクを自分とは違う変わり者と思っているのだろう。

 ルクが帰るとその場にはルゥと由良、そしてシェトが残された。
 ルゥは聞いていいものか少し悩んだが、由良も同様に気になっていた為彼を呼び止めたのだ。
「で、何が気になるの?」
 シェトは怪しげに微笑む。 だけど彼は大体の見当は付いていた。 恐らくルクの連れている美羽の事だろうと。
「美羽さん、由良とはかなり違うなって……」
 ルゥはどう表現していいのか困り語尾を濁した。
「それはそうだろうね、彼女は動物を不正に殺したと見なされなかった子だから」
 シェトはそう嘲笑するように言う。
 ルゥはその言葉に少しムッとし、「由良はオレを殺してなんかいない!」と叫ぶ。
 今にも飛び掛りそうなルゥを由良は止め、シェトの言葉の続きを待った。
「僕も由良の事は疑問だよ、でも神様がそう判断したんだ」
 シェトは複雑そうな表情を浮かべながらそう告げると腕を組み視線を落とした。
「何で……!?」
 ルゥは驚きシェトに問う。 その所為で彼は危うく由良を見殺しにしてしまう所だった。 そう思うと、その神様という存在が恨めしくてならない。
「でも美羽と同じだったら、由良は表情も作れず声も出せなかったんだよ」
 シェトはルゥを見据えどちらが良いと問うように答えた。
 ルゥは思わず言いよどむ。 罪人扱いされていても喜怒哀楽も言葉もある由良、 罪がなくても喜怒哀楽どころか言葉もない美羽、 ルゥはどちらが良いか答える事はできなかった。
「ルク以外が元主人をどんな気持ちで飼ってるかは知らないけど……」
 シェトは一回切り、目を瞑る。 そして瞼の裏にルクと美羽を思い浮かべ、何かを思いながら口を開いた。
「あいつはいつも辛そうだよ、そうは見せないけどね」
 シェトはそう言い切ると、唇を噛み踵を返した。 まるで自分を責めているように見える表情にルゥと由良は戸惑うが、 その後姿に声をかける事はできなかった。

...2012.02.17