ご主人様は猫

 昔、大きな身体に不釣合いな程痩せ細ったゴールデンレトリバーがいた。
 病気にかかったのか、怪我をしているのか、荒い呼吸をしているその犬はぐったりと横たわる。
 真っ暗な地下室の中では誰もその犬には気付かないだろう。 元気だった頃は吠えたりもしていたが誰も助けにはこない。
「(もう、死ぬんだ)」
 犬は自らの運命に絶望していた。
 運が悪い。 外にでる事が許されていた頃に同族や、傍や異種族にまで言われた。
「(運……違う、こんなシステムだからだ、人間が支配してるから悪いんだ)」
 犬は苦しそうにもがきながら、自分の主である日賀を、そして人々を恨んだ。
「(神様、見ているなら……どれだけ彼らが愚かか、思い知らせてよ)」
 今にも事切れそうな状態で懸命に祈り、呪う。
 あと数時間もすれば死ぬのだろう、犬は悟ると目頭が熱くなった。
「それが君の望みか?」
 頭上からわかる言葉が聞こえ犬は今にも閉じそうな瞳で見上げる。
 しかしそこにいたのはどうみても人間の男だった。 この地域ではそう見ない金髪ではあるが、髪の色など些細な問題だ。
 同族のような言葉を話す人間に犬は喉を鳴らし唸り声をあげる。 だけどほとんど体力は残っていない身体ではとてもか細い声しかでない。
「……そうか、この姿では確かに警戒するのだろうな」
 男は己の胸倉を掴みながら意味のわからない事を口にした。
 犬は更に警戒する。
「まあ待て」
 それを見て男はクスリと笑う。
 すると男の身体は少しずつ光に包まれて行き、人間だったはずの形がみるみる見知った形に変わっていく。 そして光が消えると、男は犬のような存在に姿を変えていた。
「(どういう……っ)」
 犬は驚き起き上がろうとするが、苦しさが増して蹲る。
「私の正体がわからないか? 君が呼んだのに」
 犬のような姿になった男は再びクスリと笑うと、また人間のような姿に戻った。
 その言葉に犬は喉を鳴らす、もしかしたらこの男は自分の望んだ存在かもしれない。
「君は私のパートナーだ……、共により良い世界を作ろうじゃないか、シェト」
 男はそう告げると犬に手を差し出す。
 犬―シェトは望んだ存在に涙すると、苦しみから解放されるように安らかな様子で息絶えた。

六話:神様という者

 ルゥ達と別れ保健所に戻ってきたシェトは、重い足取りである部屋を目指した。
 普段通りなら、そこにいるはずだと思ったからだ。
 シェト以外立ち入る事のない最奥にある部屋。 むしろ立ち入った所で彼以外に開く事は叶わない。
 ドアノブに手をかけようとすると、まるでシェトを招くように扉が勝手に開いた。
「……」
 招かれるまま中に進んだシェトは、目の前にいる金髪の男に話しかけようとするが上手い言葉が見つからない。
 それを察した男はクスリと笑う。
「どうしたシェト、お喋りな君が口篭るなど」
 シェトは心臓が跳ねる。 自分が話そうとしている話題は彼の機嫌を損ねるだろうと予想はついていたからだ。
「何で、ルゥを目の仇にするのですか?」
 聞きたいのは由良の話だったが、人間の話などすれば簡単に話は中断するだろう。 だから由良に直接関係のあるルゥの話を振った。
「……あの黒猫がなんだ」
 男は声のトーンを落とすと視線を逸らす。 明らかに不機嫌な態度だった。
 シェトは何故ルゥを嫌うのか理解できず、困惑する。
「彼は、猫です。何故、嫌うのですか? 僕達の為の、世界なのに」
 悲しげに表情を歪めて聞く。
 しかし男は不機嫌な表情を崩さない。
「人間は敵だろう? 人間の肩を持つなど、裏切り者ではないか」
 そう言うと歯を軋ませた。
 シェトは男の言葉に驚き目を見張る。
「……なんだ、君も私が間違っているというのか?」
 男はシェトに近付くと彼の顎を持ち上げ、彼の目を射抜くように睨みながら言った。
「いえ、そういうわけでは」
 これほど不機嫌な様子を見た事のないシェトは怯えた様子で否定する。
 自分の行動が彼を怯えさせていると気付いた男は、驚いたように手を放した。
「君を責めてるわけではないんだっ」
 頭を押さえながら痛みを堪えるように顔をしかめる。
「此処は、より良い世界のはずだ、そうだろう?」
 シェトは納得のいかない事がまだまだ沢山あるが、彼が何かを不満に思っているのを理解してしまった為に何も言えなかった。
 男は困ったような笑顔を浮かべると、首を横に振る。
「どうしたのだ……、此処は、君の望んだ世界だろう? 違うのか?」
 まるで縋るように言われ、シェトは心臓が跳ねた。
 生前、死に際の自分が望んだ世界。 それは今あるこの世界に間違いはない。
「はい……」
 しかし自分の望みとは裏腹に、自分とは違う人生を歩んだ者達が悲しんでいる。 その現実に思わず語尾を濁した。
「そうだろう? 間違ってない、私は……それに」
 だけど男は満足したように笑みを浮かべる。
「君だけは、ずっと傍に居てくれるのだろう?」
 男の問いにシェトは固唾を呑む。 しかし否定する事はできない。
「はい、神様」
 ぎこちない笑顔を浮かべ、神様と呼んだ男に頭を垂れた。

 神様と別れ、居心地の悪さを感じたシェトは再び外にでた。
 もう夜も更け、誰もいない。 人間のような見た目に姿を変えられた動物達は、夜行性だった者も含めて夜の活動は控えていた。
 今のこの世界には人間しかいないようなものではないだろうか、シェトは思う。
「シェトォ」
 聞き覚えのある声に呼ばれシェトは顔をあげた。
 目の前に現れたのは昼間別れたルクだ。
「うさ子何してんの? もう夜中なんだけど」
 いつものように軽い口調でシェトは聞いた。
 しかしルクは彼の意地悪い呼び方を指摘する事なく、少しうろたえた様子を見せる。
「……何かあったのか?」
 落ち着かせるようにできるだけ優しい口調で聞く。
 するとルクは首を横に振り、涙を零した。
 驚いたシェトは肩を揺らし、彼の両腕を強く握る。
「美羽に何かあったのか?」
 そう聞いたシェト自身が固唾を呑む。
 ルクは何度も頷き、その度に雫が地面に落ちた。
「まだ、ほんの数ヶ月だろ? ……寿命ではないはずだ」
 この世界での人間の寿命はとても短い。 だけど美羽がこの世界に来てからそれほど日が経ったわけでもなかった。
 シェトは自分の知る情報からそう答えを導き出すと、彼女の様子を聞く。
 呂律の回らない口でルクは詳細を話す。
 そしてシェトは彼の背を撫でながら彼の家を目指して歩き出した。 「大丈夫だ、まだ……死なない」
 元主人の事でこれほどうろたえる彼を見る度、シェトは自分にはわからない感覚だと心が締め付けられる。
 このような世界、本当は誰も望んでいなかったのではないか。 どれだけの者が自分と同じ境遇かもわからない。 何より、シェトの立場はこの世界に生きる動物達とは違い過ぎた。

 ルクの家に着くと、シェトは美羽の様子からただの発熱だと思った。
 それを告げると、ルクは全身の力が抜けたようにその場に蹲る。
「いきなり……倒れたからぁっ」
 震える声で告げると、泣きながらの笑顔でシェトを見上げた。
 だけどそう遠くないうちに彼女は死ぬ、それを知っているシェトは少し複雑な表情を浮かべる。
「そんなに、心配だったのか」
 シェトは思わず聞いた。
 するとルクは「当り前でしょぉ!?」と元気がでたのか大声で言い返す。
「僕にはその感覚がわからないから」
 少し顔を背け、まるで拗ねたように唇を噛んだ。
 誰よりも長くこの世界に生きているシェトにとって、 初めての友達に等しいルクを苦しめているのが自分の望んだ世界だとは思いたくない。 その気持ちが思わず悪態をつかせた。
「んん、日賀ーだっけぇ? そんな奴とうちの美羽ちゃんを一緒にしちゃダーメェ」
 ルクはまるで小さい子供を注意するように「め!」と最後に付け加えると、唇を尖らせる。
 シェトはいつもと変わらない様子のルクに肩を竦ませると盛大に溜め息をついた。
「僕はねぇ、ずーっと美羽ちゃんと一緒にいたいって願ったくらい、幸せにしてもらったんだよぉ」
 微笑みを浮かべてそう言うとルクは眠る美羽の頭を撫でる。
 自慢なのだろうかと思いながらシェトは少し目を細めた。 何より元主人について知っているのによくその話ができたものだと感心さえする。
 しかし嬉しそうだった様子とは裏腹に、今の彼は少し表情が曇っていた。
「なのに、僕は病気で死んじゃったんだぁ……、悲しませただけで、幸せを返せなかった」
 初めて聞くルクの話にシェトは目を丸くする。
 シェト自身は少し元主人について話をした気がするが、彼からは聞いた事がない気がした。 彼の様子から美羽を溺愛している事だけは伝わってきたが、実は何も知らない。
「だから、今度こそ幸せを返したいよ……」
 ルクはシェトを見上げると、彼女の頭を撫でたまま苦笑してみせる。
「でも、美羽ちゃんには幸せを感じる事ってできるのかなぁ」
 シェトはまたしおらしくなったルクに目を瞬かせた。
 彼はたまに感情の起伏が激しくなる気がする。 そしてまた唇を噛み涙を零す。
「……幸せを返す前に、死んじゃったら、どうしようっ」
 彼女の寿命が来る事を恐れているルクに、シェトは居た堪れない気持ちになる。
 飼われる立場の人間の感情を奪い、寿命を短くしたのは、神様なのだから。
 人間の肩を持つ裏切り者、ルゥをそう呼んだ神様にとっては、ルクも裏切り者なのかもしれない。 今こうして怯えている事が、神様の与えた罰なのかも。
 ルゥもルクも、この世界で苦しんでいる、その事実にシェトは額に汗が滲み苦しくなった。 それを見ているとここが本当に自分の望んだ世界なのかわからなくなる。
「シェトがね、人間嫌いなのちゃーんと判ってるよぉ、だから、ごめんね」
 ルクは涙を拭いながら謝罪すると、赤くなった目で笑ってみせた。
 彼の優しさにシェトは悔しげに唇を尖らせる。
「謝らなくていい、僕も、人間嫌いでごめん」
 そしてなんとなく謝罪した。
 歯を剥き出しにしてルクは涙には不釣合いな豪快が笑みを浮かべる。
 シェトは無理して笑ってみせるルクに苦笑した。
「そうだった。さっきうさ子とか呼んだだろぉ、僕の名前はぁ!」
 いつもの調子を取り戻したルクは今頃呼び名を注意しようとする。
 それを聞いて飽きないなと思いながら、シェト自身少し安心した。
「ル、ク……」
「そう、ルク!! 次呼んだらはったお……」
 しかし、いつもと同じようなやり取りをする前に二人は驚き硬直する。
「美羽ちゃん?!」
 ベッドに寝かせたままの美羽に視線を戻す。
 シェトも名前を呼んだ事に驚きベッドに近寄った。
 だけど二人の視線の先にいる美羽は眠ったままだ。
「寝言?」
 それでもシェトは目を瞬かせ、固唾を呑む。
 由良のようなタイプの人間以外が言葉を発した所を見た事はない。 本来なら喜ばしくない事なのに、ルクを思うと少し嬉しい気がして困惑した。
 もしかしたら気のせいかもしれないが、それでもルクは喜んでいる。
 それを見てシェトは小さく息を吐く。
「大丈夫そうだし、僕は帰るよ」
 そして気を利かせるとそのような事を告げた。

 寝ている所を突然の来客に起こされたルゥは、機嫌の悪そうな目で来客を睨んでいた。
 その傍らにいた由良は、眠りを妨げられた事がそれほど嫌なのだと苦笑する。
「という事で、今日泊めて?」
 ルゥの目の前にいる人物、もといシェトは悪びれた様子もなく適当に状況を説明してお願いした。
「何でルクさんには気を利かせる事ができるのに、オレにはできないんですか」
 まるで悪びれないシェトに怒りがこみ上げてきたルゥは、低く小さい声で言う。
 目の覚めてる時とは随分違う彼の様子に、由良とシェトは感心する。
「それはまあ、後輩だから?」
 シェトは少し首を傾げて笑顔で答えた。
 ルゥは盛大に溜め息を付くと、背を向けふらつきながら家の中に戻る。
 追い出さない所を見ると許されたという事だろう。 実際は呆れているだけだったかそのような些細な事はシェトには関係なかった。
「お邪魔します。あ、由良も起こしてごめんね、そしてお構いなく」
「構いません、寝てください」
 シェトの様子に苛立ちを露にしながらルゥが言い放つ。 眠りを妨げられた事を相当怒っているらしい。
 普段見られないルゥの様子に結局面白くなってしまったシェトは笑っていた。

...2012.09.05