記憶の花:13.勿忘草

 どれだけ眠っていたのだろう。目が覚めた僕は、天井をぼんやりと見つめながら考えていた。両親の置いていった時計を見るとそこには土曜と表記されている。どうして寝ているのだろう。金曜の夕方は外にでていたはずだ、いつ戻ってきて眠ったのだろう。
「っつ……」
 胸が苦しくて、心が痛い。だけどそれが何の事だかわからない。
「僕は、入院していて……あれ」
 思い出せない。何が苦しい、何が痛い、わからない。
「夜長さん気が付きましたか?」
 よほど大きい声をあげていたのだろうか、看護士が病室に来た。
「倒れた時にどこか打っていませんか?どこも変わりないですか?」
 質問攻めにされ僕は少し戸惑ったが、「大丈夫、です……」と答えた。
 それを聞いた看護士は安心したのか、一度安堵の笑みを浮かべる。しかしすぐ表情を引き締めた。
「あんな事になるなら、最初からお話すれば良かったですね」
「あんな、事……」
 僕は小さく呟いた。
 僕の様子を同情するような表情で看護士は続ける。
「でも儚ちゃんのご両親も必死だったのだと思います。だから……」
「儚、ちゃん……?」
 僕は聞き返した。
 看護士は「え?」と声をあげると、何かに気付き口元を押さえた。
「儚ちゃんって、誰ですか」
 虚ろな瞳、知らない人というより、知りたくない人だというような目をして、僕は返した。
 看護士は「先生を呼んできますっ」と告げ、慌てて病室をでていった。

「記憶、喪失……」
 医師の診断で再び記憶を失った事がわかった。
 病院で目覚めた事、両親やバイト先の店長との面会は覚えている。僕が再び忘れたのは、その儚という子だけだ。
 しかし可笑しな話で、面会に来た事は一度もない、あるはずがないと医師は言う。だけど僕は、彼女が面会に来たと何度も口にしていたらしい。
「頭、いかれたかな」
 自分を嘲笑した。だけど馬鹿馬鹿しくなってやめた。かわりに自分の胸に手を当て、目を瞑る。
「……一度全部戻ってきたはずだ」
 だけど、起きたらまた忘れていた。少しずつ思い出していったのは覚えているのに、何も残っていない。だけどそれに安堵している自分がいる。
「あんなに恐れていたのに……」
 記憶喪失と聞かされあれほど恐怖していた自分が、再び記憶を失った。それなのに何故安堵しているのだろう。戸惑いが隠せずもう一度胸に手を当てると、すごく大事な何かがない、欠けている。
「今度は何を忘れて……っ」
 欠けた所にあるのは、忘れている事への罪悪感と、喪失感。
「……やめよう」
 僕は、わからない事を考えても仕方ないと首を横に振り、痛む頭をおさえた。大きく一回息を吐いて、気を紛らわせようと部屋を見回す。しかしあるものが視界に映った瞬間、ビクッと身体が震えた。罪悪感という名の恐怖に近い感情、僕はそれに怯えている。身体の震えは治まる事がなく、布団をきつく握り締めた。
 視界の先にはベッドわきに置かれた台。その上には画用紙を沢山挟みこんだファイルが置いてあった。
 僕は恐る恐るその画用紙に手を伸ばすと、それは花の絵だった。
「あ……」
 無我夢中で、それでも丁寧に一枚一枚見ていく、中には汚れた物も混じっていたけれど、絵はとても上手で、綺麗で、すごく優しくて……。
 だけど心が温かくなったり、悲しくなったりするだけで、薄らとした記憶が巡るだけ。誰かと一緒に見ていたはずなのに、その人の事を思い出すには至らない。いや、思い出すのを拒絶している。
「……っ」
 半ば諦めかけていた時、ここにある最後の一枚に思わず目頭が熱くなった。
「『私を忘れないで』……」
 淡紫色の可憐な花の宿根草。葉がやわからく、ハツカネズミの耳という意味の『ミオソティス』という別名を持っている花。
「……僕は、またっ」
 目尻に溜まり溢れかけた涙を拭い、もう一度きちんとその絵を見る。手元にある最後の一枚は『勿忘草』だ。
 裏面には他の物と同じように花名・別名・花言葉が書かれていたが、これだけは少し特殊で、それを見て今すぐ謝りたい気持ちでいっぱいになった。自分の不甲斐無さが情けなくて、涙は流れないけど、心はボロボロ泣いていた。
「『私を忘れないで、辛くても覚えていて、記憶の中だけでも一緒にいたいです』」
 残されていたメッセージに僕は唇を噛み、溢れる想いを堪える。閉じ込めた悲しみ、閉じ込めた憎しみ、再び全てが解放され気が可笑しくなりそうだ。
 だけど歯を食いしばり耐えた。そうでないと弱い自分は再び忘れようとするのだろう。何度も何度も……。
「二回も忘れたりして、ごめん……儚ちゃん」
 僕は唇を強く噛んだ。口の中に不快な鉄の味が広がる。それでも僕は、儚に謝罪せずにはいられなかった。




 時刻はもう数時間もすれば日付が変わる。
 僕は気にかかる事があり、担当医に記憶が戻った事を知らせるのを躊躇っていた。
 まずは儚の両親の事、あの後どうしただろう。僕が気を失った事で恐らく迷惑をかけた筈だ。
 しかしこれは本当に僕が気にかけている事ではない。だから次に会った時に謝罪をしようと、それだけ決めて頭を切り替える。
 今は儚の両親に求められた証言を、きちんと答える事はできないと思う。想像しただけで気分が悪くなるし、今はきちんとあの時に向き合わなければいけない。
 そしてもう一つは今手元にある五枚の絵だ。いつからあったのか、椅子の上に五枚の絵が置かれていた。恐らく儚だ。ただ彼女の言っていた枚数にはまだ一枚足りない。
 そして何故姿を見せなかったのだろう。僕が記憶を失っている所に来てしまったのだろうか、もしそうだとしたら悲しい想いをさせただろうか。
「夜だから、帰っちゃった可能性もあるけど……」
 僕の脳裏に「どこに……?」という疑問が浮かんだ。
 彼女はもう亡くなっている、抱きしめても温もりを、彼女の流す涙を、感じる事はできない、儚は実体を持たない幽霊なのだ。本当は僕の目に見えている事さえ奇跡なのかもしれない。帰る場所などあるのか、それとも誰も彼女に気付かない、「おかえり」を聞けない家に帰るのか。
「そんなわけ、ないじゃないか……っ」
 僕はそう呟くと、点滴を抜き取り、松葉杖と絵だけを持って夜の病院を抜け出した。何とか外に脱出できても、松葉杖がなければ立っていられない僕には相当困難な道のりだ。だけど病院でただ待っているわけにはいかない、行かなければいけない。
 患者着では目立つから、途中自宅に寄り私服に着替えた。巻かれた包帯を誤魔化す為に、普段着より少しゆったりとしたものを選んだ。
 再び外にでると、少し肌寒い気がする。もうあの夏とは違うのだと、嫌でも実感させられ、悔しさに唇を噛んだ。
 イベリスの二階は油菜店長の家になっている。本当なら避けて通るべきだが、目的の場所はイベリスを通った方が早い。だからイベリスを横目に、急いでその場を立ち去ろうとした。しかしそう都合良くはいかなかった。
「あ……」
 小さく声をあげた先に、店長はいた。どこかからの帰りのようだが今は何も持っていない。
「お前……何して」
 店長は僕を見て顔を歪める。いくら私服に着替えていても彼には、僕が病院を抜け出してきた事がわかるだろう。
「見逃してください……」
 僕は俯きながら呟いた。折角ここまで来たのに、ここで足踏みしてはいられない。明日になれば儚はいつも通り病室を訪れるかもしれない、けれど、それではきっと彼女を救う事ができない。
「何で」
 店長は普段の様子では考えられないような真面目な表情で問うた。誤魔化しはきかないだろう。
「儚ちゃんに……お別れを言いに行くんです」
 僕は顔をあげ、彼に告げた。
 店長は「お前、記憶……」と語尾を濁した。どうやら記憶を取り戻した事を察してくれたらしい。
「……今日行く必要あんのか」
 しかし、店長は額を押さえ呆れたように言う。
 傍から見れば確かにその通りだ。けれど彼女はこの世に縛られている。それをわかっていて明日、明後日と先延ばしにする事はできない。これ以上、一人寂しい思いをさせたくなかった。
「信じてもらえないと思いますけど……」
 僕は店長に目が覚めてからの事を全て打ち明けた。
 店長は最初こそ普通に聞いていたが、儚が何度も訪れていた事を告げると戸惑ったような表情を浮かべた。
 僕は当然の反応だと思いながら全部話し終えると、口を噤んだ。
「……お前のとこに、来てたってのか?」
 店長は俄かには信じられないというように聞き返した。
 僕は頷き、そのまま俯く。
「きっと僕が忘れたから……」
 随分自惚れた発言だと思う、前の自分なら絶対言わないだろう。だけど勿忘草に書かれた彼女の気持ちを知った後では、もう言葉にする事を躊躇うなどできなかった。そしてどうか、このまま見逃して欲しい、そう願い目を固く瞑る。
「あー……もう」
 店長は少し考え、大きな溜め息を付いた。
 僕は許してもらえたのかと思い、目を開け店長を見上げた。しかし僕の視界が映したのは何故か店長の背中だった。
「え、ええ!?」
 驚いた拍子に持っていた物全てを落としてしまうと、ますます状況が把握できずじたばたと暴れた。
「暴れんな重い!」
 店長に抗議され僕は担がれている事を把握した。確かに僕は細身な方ではあるが背はそれなりにある。それなのにこうも簡単に担がれてしまうと、男として切ない。そして何より、どれだけこの人は筋肉が発達しているのだと問いたい。
「降ろしてください!僕は帰りませんっ!」
 このままでは病院に連れていかれると思い僕は叫んだ。
「ばーか」
 次の瞬間、店長は僕を乱暴に降ろした。
「いだあっ!」
 何かに投げ入れられるように降ろされた僕は、横たわったまま動けず悶絶した。一応右足には気を遣ってくれたようだが、それでも痛い。内心酷いと思いながら辺りを見回すと、投げ入れられたのは車の後部座席だった。
「ほら」
 店長は僕の落とした物全部渡すと乱暴にドアを閉めた。
 僕は戸惑いながらそれを受け取り、無言で店長を見た。
「送ってやっから大人しくしてろ、学校でいいのか?」
 店長は車のエンジンをかけると、振り返る事はせず鏡越しに聞いた。
 僕は状況が読み込めず目を丸くしたが、『学校』という言葉を復唱し全てを理解すると「はい!」と返事をした。