記憶の花:12.みせばや2

 僕の意識は記憶の中で目覚めた。
 この夏空は七月下旬、イベリスからほど近い高等学校が一学期の終業式していた。花束を注文されていた為、僕はこの学校に赴いていた。
 配達を終え職員室からでた僕の手にはペチュニアの花。適当な所で切られたその花を、「君にあげる」などと言われ渡されこうして今手の中にある。
 職員室前の窓を覗くと、昼時の最も暑い中を帰宅する生徒達。この照りつける日差しの中、僕もイベリスに戻るのだと思うと少し溜め息がでた。
 建物をでると、建物の影が妙な形をしているのに気付いた。屋上の端に人がいたとしても、普通影などできるだろうか、僕は不思議に思い屋上を見た。
「……っ!?」
 どういう事なのか理解できない。状況を把握するまで瞬きを繰り返す程、僕の気は動転した。
 屋上のフェンスに背中を預けて立っている少女がいたのだ。
 思わず屋上に駆け上がった僕は勢いよく屋上の扉を開けた。そして先程の少女を探すと、動く事はなく同じ場所にいた。一安心して少女の方へ歩みよる。
 しかし僕に気付いた少女は振り返ると、「来ないで!」と叫んだ。
 下手に刺激すると飛び降りてしまうかもしれない、僕は立ち止まる。
「これは仕返しなの……邪魔をしないで」
「仕返し……、でもこれは、自分が痛い思いするんだよ?」
 僕はできる限り言葉を選び返す。焦りと不安をできる限り隠して、誰かが気付く事を祈る。万一飛び降りたらこの距離では助けられない。何よりフェンスを隔てたままでは助けようがない。
 彼女が視線を外す度、少し前にでる。まるで「だるまさんがころんだ」のように、だけど遊びとは比べ物にならない程の緊張が走る。
「ここにいたら、貴方が咎められるかもしれませんよ」
 彼女は振り返ると言った。ただ腕を組んで立っているだけだが、フェンスに背を預けていてくれる方がよほど安心できる。更に振り返ってから地上を一度も見ようとしない。
 僕は完全に近づけなくなって途方に暮れた。
 だけど彼女も僕をずっと睨んだまま動かない。僕が帰るのを待っているようだ。
「(そういえば、さっきのって僕を心配してくれてる?)」
 しばらくして、僕は先程の彼女の言葉をそう解釈するに至った。つまり彼女なりの優しさを逆手に取れば……少々気が引けるがこの状況じゃ仕方ない。
 炎天下の中の睨み合い、どちらが脱水症状を起こして倒れても可笑しくない状況だ。だから僕はわざと倒れる振りをした。
 僕の身体が倒れきると、ジワッと熱気を吸収した地面に肌を焼かれるような感覚に陥り思わず悲鳴をあげそうになった。暑いし熱いし痛いしかなり辛いけれど、本当に優しい子だったら心配してきてくれるかもしれない。
 案の定少女は倒れた僕に驚きうろたえていた。困ったように唇を噛み、最終的にこちらに駆け寄ってきた。
 少し罪悪感を覚えたが、このままやり過ごし彼女を捕まえる。そう決めた。
 少女はオロオロと心配そうに一歩一歩近づいてくる。そしてすぐ傍でしゃがむと僕に手を伸ばした。
 その瞬間、僕は少女の腕を掴んだ。
 掴まれた少女は驚いたが、すぐに騙された事実に気付いて顔を真っ赤に染めた。
「酷い!」
 少女はそう叫ぶと掴まれた腕を振りほどこうともがく。
「本当にね、でもあのまま対峙していても解決しないから、ごめんね」
 僕は掴んだ腕は放さず一応謝る。いや放せないと言った方が正しい。
「放して!」
「無理!」
 それでも少女は暴れるのをやめようとはせず、仕方なく花を放るともう一方の腕も掴んだ。傍みたら僕はとんでもない悪人に映るのではないだろうか、そう思うと何だか悲しくなる。
「何で邪魔するの!」
 少女は僕を恨めしそうに睨む。
 人生でこれほど明らかな恨みを買ったのは初めてだ。正直辛くて、思わず顔を背けた。
 両腕を掴んでしまえば力の差は明らかで、どれだけ暴れられても問題はなかった。しかし、力でおさえつけるやり方は持論に反する。それを冒したという事は、僕は今相当焦っているのだろう。
「もう嫌なのに……!」
 少女は涙を零した。
 号泣する少女は暴れるのをやめ、そのまま地面にへたり込んだ。それを最初は一安心して眺めていたが、少女は夏の制服だ。靴下も勿論短い。地面に触れた肌が赤くなりかねないと、僕自身の顔に走るヒリヒリした痛みで気付いた。
「コンクリ熱いよ!?ほら立って!」
 僕は掴んだままの腕を引き、無理矢理立ち上がらせる。思っていた通り少し膝が赤くなっていて、動揺した。咄嗟に手を放し携帯した水ボトルを手に取る。それでハンカチを湿らせ少女に渡す。
「膝、冷やした方がいいよ」
 少女は涙目のままだったが、その場から動くような事はせず、黙ってハンカチを受け取った。
 僕はとりあえず受け取ってくれた事にホッとする。
「……貴方の方が酷そうですよ」
 だけど少女は僕の意図しない言葉を吐いた。
「そ、そんなに酷い顔?実はヒリヒリするんだよね……」
 僕は苦笑して後ろ髪を撫でた。実際は素肌を晒していた腕もヒリヒリしている。
「……これ」
 少女は自分の持っていた暖色のハンカチを差し出した。
「え?あ、ありがと」
 僕は思わずそれを受け取る。
「……使っていいの?」
 少女は僕の渡したハンカチで膝を冷やし始めると、「どうぞ」と無愛想なまま言った。
 僕はその言葉に甘え同じように湿らせると顔に当てた。ヒリヒリした所に沁みる感じがする。そう感じて間もなく、なんとなくどこを見ていればいいか困ってキョロキョロとしていると、先ほど放った花が目に入り、口が開いた。
「……あああ、ペチュニア」
 僕は思い出したように先程放った花を手に取る。熱を直に受けた花はシワシワになっていた。
「ああ……可哀想」
 少女は首を傾げると僕が拾った花を見つめた。眉尻を下げると「ごめんなさい……」と謝罪した。
「いや、放っちゃったのは僕だから」
 そう笑って見せても少女は浮かない顔をしている。だから僕は「はい」とペチュニアの花を渡した。
 少女は花を握りこみ、悲しそうにそれを見つめている。
 僕は花を握りこむ少女の手を握った。
「この子の花言葉はね、心の平安だよ、悲しい顔しないで?」
「心の、平安……」
 少女はゆっくりと復唱するとまた花を見つめた。
 僕は小さく頷くと彼女の手を放す。少女は花を大事そうに握っていた。
「心配だから家まで送るよ」
 苦笑しながら言う僕に、少女は抗議する事もなくフラフラと歩き出した。フラフラとしている原因は膝の所為ではなく、花を見つめているからだ。
 シワシワになった花がそれほど気になるのだろうかと僕は首を傾げる。だけどようやく落ち着いた様子に僕はどこか安心した。

「ここ?」
「はい」
 辿り着いた一軒家を前にして、僕は少女に聞いた。少女はシワシワになったペチュニアを見つめたまま答える。
「(花が好きなのかな……?)」
 僕は何となくそう考える。
「そういえば、ハンカチ洗って返すね」
 僕は先程借りたハンカチを手にして言った。
「別にいいです、私もこのハンカチ借りましたし、……それともお互い洗って返します?」
 少女は首を傾げる。
「ううん、僕は別にそのままでも……」
 そう言い掛けた僕の言葉を少女は違えて解釈したらしい。
「じゃあ今日からこのハンカチは私のもの、そのハンカチは貴方のもので」
 思わず「は?」と言い掛けて口を噤んだ。
 もしかして少女はボケてるのだろうか、そう思うのも束の間、少女は僕のハンカチをポケットにしまった。きちんと洗濯しているから汚いとは思わないが、交換というのは如何なものか。少女のハンカチは決して少女趣味という程の物ではないが、男が持ち歩くような暖色ではない。しかも元は少女の所有物だ。なんとなくよくない。それに僕のハンカチは百円均一で買った代物だが、少女のこれはちょっと良い素材な気がする。
「安心してください百均です」
 僕は心を読まれた事に少し驚愕したが、「そ、そう」と返した。そしてもうハンカチについて話をする気もないらしい、僕はいいのだろうかと思いながらも覚悟を決めてエプロンに少女のハンカチを押し込んだ。
 その時、手に堅い材質の何かが触れた。それを取り出すとそれはポストカード、僕は何かを思いつき少女にそれを差し出した。
「どうぞ」
 少女は戸惑いながらそれを受け取ると、目を丸くしポストカードを見つめた。
「赤い花……」
 心なしか頬が少し赤く染まった気がして、やはり花が好きなのだろうと思う。
 それは少し前に店で配っていた赤い『ダイヤモンドリリー』のポストカード。その花が好きで、何枚か貰った内の一枚をポケットに忍ばせていたのだ。花が好きならこれも喜んでくれるかもしれない、そんな軽い気持ちだった。
 だけど花言葉を知ったら彼女は嫌かもしれない、そう少し思った。
「君は嫌かもしれないけどね」
 苦笑しながらそう呟くと、少女はピクッと身体を震わせどこか悲しそうな、それを押し隠す不満そうな表情に変わった。
「さ……さよなら」
 俯いたまま少女は言うと振り向く事はないまま家へ入っていった。
「?……うん、さよなら」
 一人残された僕は、振り返る事のない少女に手を振り苦笑した。

 この少女―儚との出会いは偶然そこに居合わせ、僕がお節介を焼いただけに過ぎなかった。
 注文が入らなければ、配達に行かなければ、お節介を焼かなければ……彼女と出会う事などなかった。
 出会っても出会わなくても、結局一緒なのだと心の底の自分が嘆いている。その嘆きを聞きたくなくて耳を塞ぐ。
「やめてくれ……思い出させないでくれ……っ」
 だけどもう見ないふりは許されない、押し寄せる記憶の波は僕を押し流し飲み込んでいった。

 九月初日始業式の日、大学はまだ夏休みで僕はバイト三昧の日々を過ごしていた。そしてまた、この学校からの注文で花束を届けに赴いた。
 終業式の日と同じように配達を終えると、職員室からでた。今日は何もなく手ぶらだ。
 職員室前の窓を覗くと、昼時の最も暑い中を帰宅する生徒達。この照りつける日差しの中、僕もイベリスに戻るのだと思うと少し溜め息がでた。
「儚ちゃんもこの中を帰ったのかな」
 そのような事を考えながら建物をでると、屋上の方から口論しているような声がかすかに聞こえ、背筋がゾクッとした。
 僕は恐る恐る屋上を見上げる。
「……っ!?」
 どういう事なのか理解できない。状況を把握するまで瞬きを繰り返す程、僕の気は動転した。人は焦ると展開がスローに見えるというが、今まさにそれを体感していた。
 何かが外れ倒れる音、すると屋上のフェンスと共に、一人の女学生が屋上から飛び出した。それに気付いた学生達はざわめき、悲鳴をあげる。恐らく全てを見ていたのは僕だけなのだろう。
 見覚えのある綺麗に整えられた黒髪が宙を舞う。それを二人の女学生が身を乗り出すようにして見ている。
 顔は知らないが僕はそれらが何だかすぐにわかった。「きみ」と呼ばれている首謀者とその相方、儚を恐喝していた最低の人種だ。
 そして今宙に投げ出されたのは……。
「儚あああああああぁぁ……っ!?」
 僕はこれまでの人生で出した事のないような声で叫んだ。
 儚は誰も掴む事はないであろう天に手を伸ばし、流す涙がキラキラと宙を舞う。
 僕は儚が落下すると思われる場所へ駆けた。目の前に儚の黒髪が見え、地面を蹴り、手を伸ばす。もう少しで手が届く、そう思った時、僕の視界は縦に揺れた。
「ああああぁぁぁ……っ!」
 僕は絶叫した。儚に気を取られてフェンスを失念していた。フェンスは右足を巻き込み、僕は地面に叩きつけられた。
 ざわめきと悲鳴は一層強くなり、ざわめきを聞きつけた雨雲が何かを洗い流すかのように雨を降らした。
 駆けつけた学生や職員が僕達の傍に立ち傘を掲げる。
「(びしょびしょに……)」
 それを見て僕は立ち上がろうとするが、右足に尋常じゃない痛みを感じて動けない。それに呼吸が苦しい。
「救急車呼んだから動かないで!」
 一人の職員が僕に声をかける。
「(そんなに……重症なのか)」
 うつ伏せに倒れている僕の身体、癖のあるふわふわした髪は振り出した雨に濡れて元気がない。顔に張り付いて気持ち悪いけど、直す事もできない。
 雨が本降りになっても起き上がれない僕は、遠のく意識を奮い立たせ、近くに落下したはずの儚を探した。ぼんやりとしていく視界、それが我が身に受けた衝撃の所為なのかはわからない。だけど僕は必死に彼女を探していた。
 しばらくして、横たわる僕を見下ろしている少女に気付いた。どこか儚さを感じさせる少女。儚だ。僕は彼女を見上げて微笑む。
「ああ……よかった、無事だったんだね……」
 だけど儚は、悲しそうに笑い返した。いや、笑っているのに悲しそうだった。
「どうして……」
 何が悲しいの?そう言いたいのに声がでない。眼前に立つ儚の後ろに、横たわる誰かを見つけて、僕は目の前が真っ白になったからだ。
「はか、な……?」
 倒れていたのは見覚えのある綺麗に整えられた黒髪、それを彩るのは、赤。そう、儚の後ろには、赤い血に彩られた……儚が倒れていた。
 現実に打ちのめされ、僕の頭の中はドンドン白に塗りつぶされていく、消していく。知らない、僕は知らない……。
「(こんな現実……僕は、知らないっ!)」
 響くサイレンの音も聞こえない、頑張れと語りかける職員や学生の声も聞こえない、目の前に立ち優しく励ます儚の……目の前で死んでしまった儚の声も、聞こえない。
 こうして僕は、受け入れがたい現実を、幸せだった夏の思い出と共に、心の奥底に閉じ込めた。