記憶の花:08.花菖蒲

『これは仕返しなの……邪魔をしないで』
 ぼやけた夢の中、少女は僕に言う。
 僕は少女の腕を取り口論していた。
 次の場面で少女は落ち着いた様子を見せていた。手にはシワシワになったペチュニアの花。
『心配だから家まで送るよ』
 苦笑しながら言う僕に、抗議する事もなくフラフラと歩き出した。
 そしてまた次の場面では少女の家の前にいた。
 僕は何気なくポケットに入れていたポストカードを渡す。
『君は嫌かもしれないけどね』
 僕はそう言ってまた苦笑する。
 少女は『っさよなら』と言って家に入ってしまう。
 ぼやけたまま流れる夢は、夏休みを飛ばし九月に入った。
「降って、くる……」
 恐ろしげな光景が見えた気がするが、そのあまりの恐怖に目が覚め飛び起きた。全身から汗が噴出し、呼吸が苦しい、どれだけ空気を取り込もうとしても息ができない。ナースコールを鳴らせと脳は指示しているのに、意識が朦朧として蹲ってしまった。
 だけど意識を失う瞬間、誰かがナースコールを鳴らすのを見た。

 再び目が覚めると、数人の看護士が慌ただしく動いていた。しかし僕が目を覚ましたのに気付くと、看護士達の強張った表情が少し緩んだ。
「(夢くらいで、どうかしてる……)」
 夢で過呼吸を起こすなんて笑えない。僕は思わず顔を伏せた。
 看護士達が病室を後にすると、ますます虚しくなって頭を抱える。だけどすぐ浮かんできた疑問に顔をあげた。
「さっき……ナースコールしたのは……」
 意識が朦朧としていた所為か薄らとしか記憶していない。だけど見知った人だったように思う。
 だけど早朝から誰かいるなんて事あるはずない。だから隣人も気付く程苦しんでいたのだろうと思い込む事にした。隣は空き部屋だと、知っていたけれど……。

 面会時間も残す所一時間、そのくらいになってから儚はやってきた。とても焦った様子で、画用紙に少し皺が入ってしまっている。
「明さん……大丈夫?」
 僕が過呼吸を起こしたのを聞いたのか、酷く心配そうで涙目になっている。そしてゆっくり僕に手を伸ばすけど、それは僕に触れる事はなく遠慮がちに引いた。
「大丈夫……夢見が悪かっただけだよ……」
 まだ少し苦しい、だから僕は一度深呼吸してからゆっくりと答えた。
「……カッコ悪いな、僕」
 そう言って苦笑すると、儚は涙目のまま首を横に振った。それが嬉しくて、「ありがと」と微笑んだ。
 儚は顔を赤く染めるといつも通り画用紙で顔を隠した。しかし時間があまりない事を思い出したのか、「これっ」と画用紙を差し出した。
 受け取ってみると、それは皺だけでなく少し汚れていた。
 彼女も何かあったのではないかと思い、僕は儚に視線を戻す。
 相当情けない顔をしていたのか、儚は苦笑する。しかし何も語ろうとはしなかった。
「……儚ちゃん、頑なだね」
 僕は少し情けなく眉をハの字にしたが、こう答えた以上仕方ないと、受け取った絵を見た。そこにはピンクと黄色の可憐な花、『おしろいばな』が描かれていた。別名の『夕化粧』や花言葉を知ったのは花の勉強を始めてからだったが、こればかりは小さい頃によく摘んで遊んでいた事もありよく覚えている。
「私もおしろいばなは小さい頃から知ってました」
 いつか聞いた言葉を彼女は口にした。
 だから「僕も、あの時もそう言ったよね」と返し笑う。だけど思い出した記憶はあまり愉快なものではない。僕はどうしたらいいかわからず唇を噛む。
「花言葉は、『臆病』ですよ?今は明さんの方が臆病みたい」
 儚はそう言って微笑した。
 僕は確かに臆病になっていた。楽しい事だけじゃなく、儚を見て苦しい悲しいと感じた気持ちも思い出すから、もうこれ以上思い出す必要はないのではないかと……。
「私が臆病になってたら、耐え忍ぶ事も時には必要だって」
 僕は二枚目を捲る、そこにある花が何かはもうわかっていた。『花菖蒲』だ。高さは六十センチ以上、花径十センチ以上のアヤメ科で最も大きい花。外花被弁という外側に垂れる花びらで、中心に黄色い筋がある。描かれていたのは淡紫色だったが、他に白などの色もある。
「別名『ぎょくせんか』花言葉は『忍耐』。思い出しましたよね?」
 儚はそう言って笑う。
 それがすごくぎこちなく見えて、僕は申し訳ない気持ちに支配された。
「でも、苦しかったでしょ?被害に遭ってるのに、耐え忍べなんて……」
 当時も彼女の置かれた立場を知ったはずだった。なのに、どうして今は、こうも言っている事が違うのだろう。気になるようで気にならないのは、思い出す事を拒んでいるからなのか。
「明さんは悪くないです、先生に言いつける事だってできたのに、それをしなかった」
 儚はそう言って悲しく微笑んだ。
 それが痛々しくて、何もできなかった事が悔しくて僕はまた唇を噛む。
「イジメの被害者が、報復を恐れて何も言えないのはよくある事だよ……。大人が、気付いてあげないのが悪いんだ……」
 本当に悪いのは加害者だけれど、まるで自分に言い聞かせるように「大人が悪い」と口にしていた。
 それを聞いた儚の顔が曇る。だけどすぐ、平静を装った。
 僕は溢れ出る記憶が苦痛で頭をおさえた。
「クリーニング代、……受け取らなかったのは恐喝されてたからで……っ」
 儚は薄く笑う。
 僕は儚にそんな表情をさせる現実が悔しくて「笑える話じゃない!」と思わず声を荒げた。だけど儚に怒鳴るなんてどうかしている。自分が嫌で今度は額をおさえた。
 恐らく、絵が汚れているのは、加害者に絵を隠されたからだろう。昨日彼女は『探してきますから』と言っていた。変に生真面目な彼女が、家や学校にあるものにそのような言葉を使うとは思えない。
「『君』って呼ばれるのが嫌なのは、首謀者のあだ名が『きみ』だからだったね……」
 儚は僕が思い出した事を喜んでいるけれど、今朝の夢といい、辛くて仕方ない。彼女はどれだけ学校で辛い思いをしたのだろう。
「でもね、その二人だけなの、クラスには友達もいるんですよ?」
 僕が考えている事に感づいたのか、儚はそう訂正した。
「見てみぬ振りをするのが友達だっていうのか!?」
 僕は首を横に振る。こういう事が言いたいのではない、だけど儚が無理に笑うからどうしても冷静でいられない。
 儚は僕の言葉の所為で、今にも泣き出しそうな程表情を崩した。
「だって……みんなは、知らなかったんだもん……」
 儚は唇を噛み、目尻に涙を溜めながら言った。
「知らな……かった?」
 それは、今は知っているという事かと、僕は聞き返しそうになる。
 だけど儚の表情を見ていたら、そんな事はできなかった。代わりに儚の手を取ると、自分の腕の中に引き寄せた。
「ごめんっ儚ちゃんに怒ってるんじゃない……、なのに怒鳴って、ごめんっ」
 搾り出してもこのような謝罪しかできない、そんな自分が情けない。自分が女だったら、一緒に泣きたいくらいだ。だけどこれ以上情けない姿を見せたくはなかった。
 儚は驚いて目を見開くと、堪えていた涙がポロポロと零れた。そしてしがみつくようにして、腕の中で号泣した。
 なのに、何故だろう。僕の腕の中で彼女はこんなに泣いているのに、涙を、温もりを、感じられないでいた。