日曜になり両親はまた帰宅する前に病室を訪れていた。母は「今日は晴天なのよ」と笑顔を浮かべながら窓をあける。
だけど僕は昨日の事が気になり「……うん」と気のない返事しか返せなかった。
二人は顔を見合わせると「どうかしたの?」と母が聞いた。父はこういう時、何も聞かない。それを小さい頃は嫌だと思っていたものだが、今はすごくありがたい。
「え?いや、別に何も……心配しないで」
僕は後ろ髪を撫でながら答えた。
「……じゃあ帰るか」
父は素っ気なくそう言うと病室をでていった。
母はそれをまた咎めそうな勢いだったが、僕は首を横に振った。
「父さんは明日からまた仕事でしょ?僕は大丈夫だから、帰ってゆっくり休んで」
母はそれを聞いて溜め息を付くと、お決まりの「何かあったら連絡しなさいね」を言い残して父の後を追った。
僕は母の後ろ姿を見送り、手を振る。そして視線を足元に移した。そしてただ待った。
恐らく儚は僕が一人でいないと来ない。どうしてかはわからないけど、油菜店長の時も顔見知りだというのに店長が帰るまで来なかった。だから両親には悪いけれど、できる限り一人でいられるようにしたかった。
「明さん、いいの?」
それほど待たずに病室のドアが開き、儚が顔を覗かせた。そして申し訳なさそうに言った。
「気にしないで、人に、会いたくないんでしょ?」
僕は軽く微笑むと手招きした。
「一週間、会えないんですよ?」
儚はすれ違ったのであろう僕の両親を気にして病室の外を見た。
その表情が酷く辛そうで、僕は後ろ髪を撫でながら「でも来週には会えるよ」と返した。同時に僕はそれも知っているのかと思った。もしかしたらどこかで様子を伺っているのだろうか。だけどそれについて聞く事は躊躇われる。
「そもそも、僕はこの一年半一人暮らししてたんだよ?今頃だよ」
僕はいつまでもそこから動かずにいる儚に言った。
それを聞くと儚は納得したのか、ようやく中へ入ってきた。
僕はそれに一安心して、微笑んだ。
「それに、今しか余裕がない、でしょ?」
儚はすぐ傍の椅子に腰掛け「そう、ですね」と苦笑した。
「だったら……儚ちゃんが許す限りの時間を、一緒にいてくれたら、嬉しい」
僕は少し赤い顔を隠すように俯きながら呟いた。
返事はない。小さい声だったから聞こえなかったのだろうか、それとも困らせてしまっただろうか、僕は儚の方を恐る恐る見た。
儚は持ってきた画用紙で顔を隠していた。だけどかすかに覗く顔が少し赤みを帯びていて、恥ずかしがっている事がわかる。
僕は儚の反応に照れを通り越して恥ずかしくなり、俯きながらまた後ろ髪を撫でた。
どちらからかもう忘れたが、お互いぎこちなく言葉を交わす。そして休憩時間の時のように談笑した。度々儚が泣き笑いになるのが気になったけれど、楽しい時間に水をさしたくはなかった。
「そうだ、これ」
儚は話の途中に画用紙を渡すと、「今日は一枚しかなくてごめんなさい」と付け足した。
「謝るのは僕の方だよ、毎日ごめんね。それにありがとう」
僕は画用紙を受け取りながら謝罪と感謝の言葉を口にした。
儚は「毎日来たいのは私の方だから……」と両手を振ると、今度は絵を見るように促した。
画用紙に視線を落とすと、紫色の花が葉の間に隠れるように咲く花『やぶらん』が描かれていた。
「明さん、別名は?」
「『やますげ』」
僕は言われるままその花の別名を答えた。
「もうほとんど記憶が戻ってるんじゃないですか?」
儚は嬉しそうに手を合わせて言った。
僕は「見たら思い出しただけだよ」と苦笑する。実の所嘘でもない。
儚は「そうですか?」と首を傾げる。
「嘘じゃないよ、きっかけがないとまだ思い出せないみたい」
冗談ではないとわかったのか儚は残念そうに「そうですか……」と同じ言葉を別のニュアンスで口にした。
僕は「ごめんね」と苦笑しながら謝り、また視線を絵に戻す。
「花言葉は確か……『かくされた心』」
そう口にした時、儚はいつものように表情を曇らせ立ち上がった。
僕は儚が考えている事に気付いて「こっち側、ベッドが死角になる」と儚がいる反対側を指し示して言った。
儚は一瞬躊躇したが、僕が何を言いたいかを察したらしい。反対側に移るとそのまま身を隠した。
僕はやってきた看護士をやりすごすと「もういいよ」と儚に声をかけた。
儚は少し戸惑いながらこちらを見た。
「ごめん、帰りたかった?」
僕は申し訳なくなってそう聞いた。
だけど僕は、面会時間ギリギリまでここに居て欲しかった。随分我儘になったなと、自分で自分が嘆かわしい。
しかし儚は首を横に振ると、嬉しそうに笑った。それが嬉しくて僕は苦笑して返す。やはり儚は人と出くわす事を拒んでいるみたいだ。
「明さん、花言葉で何か思い出す事はありました?」
儚は仕切りなおすように言った。
それを聞いて「うーん」とその花の事を思い起こすが、思い起こした記憶は楽しいものではなく、気持ちが沈んだ。
「どうしたんですか?」
儚は首を傾げる。しかし彼女もこの花の思い出が良いものではないとわかっているらしく、表情が暗かった。
これを口にしていいのか判断する為に僕は儚を見た。
すると儚はどうぞと言うように苦笑した。
「学校の話をしたら、儚ちゃん……辛そうな顔をした」
儚は薄く笑う。
「だけど、どうしたのか聞いても……答えてくれなかった」
僕はそこまで答えてそして止まった。この花の事でこれ以上の事は思い出せない。
「もう、思い出せませんよね……私、聞かれたくなくて帰っちゃったから」
儚は苦笑する。
「でも明さん、そういう事には鋭いから、この時みたいにわかっちゃうでしょ?」
僕は唇を噛み俯いた。
恐らく人生を滅茶苦茶にしてやりたいと思う程、憎んだ『彼女』が関係しているのだろう。わかるけど、その事自体は口にできなかった。
「学校の事、心配になった。でもそれ以上に、もう来ないんじゃないかって心配したんだ」
儚は目を大きく開くと、何故か嬉しそうに笑った。
僕が何を喜んでいるのか不思議に思うと、儚は少し照れたように顔を赤くした。
「明さんはただお詫びしてるだけで、それが終われば簡単に縁は切れるのかと思ってたから……」
僕は「そんなわけ……っ」と言いかけて顔を赤く染めた。
儚はまた嬉しそうに、今度は涙を流す。
「ど、どうしたの!?」
僕は慌てて手をバタバタさせると、それが可笑しかったのか、彼女は泣き笑いした。
「時が止まればいいのにって……そうしたら、私」
儚はそこまで言いかけて首を横に振り、涙を拭う。そして今の終わりを告げるように立ち上がる。
僕は時計を見ると、あと数分で面会時間が終わる。引きとめようがなかった。
「……明日続きを持ってきます、絶対探してきますから」
儚はそう微笑むと、面会時間が終わる事を理由に病室を後にした。
「探して、きますから……?」
一人残された僕は、記憶の続きを思い出す事を恐れた。