記憶の花:05.紅花

 翌日、医師の様子が気になり、ずっとその事ばかり考えていた。ベッドの上でゴロゴロと何度も体勢を変えた。右足を骨折しているからこんな所を見つかったら注意されるだろう。そして何より痛い。
 そんな事を考えていた所為か、案の定病室に看護士がやってきた。
 僕は慌てて体勢を戻す、看護士の方を見た。
「右足に負担をかけちゃ駄目ですよ?安静にしてないと」
 慌てて体勢を戻した苦労は報われず、予想通り注意されてしまった。僕は「ははは……」といつも通り苦笑いを浮かべた。
 だけど部屋にずっと居るというのはどうにも落ち着かない。
「今日は天気も良いですし、屋上にでも行ってきたらどうですか?」
 そんな僕の気持ちを汲み取ってくれたのか、看護士はそう勧めてくれた。

 慣れない松葉杖をつきながらのろのろと屋上へ向かう。行って帰るだけでも苦労しそうだと少し思ったが、病室でじっとしていても気が滅入るだけだ。だから弱音は吐かず懸命に屋上を目指した。
「はあ……良い天気だな」
 屋上に出ればまだ少し夏の気配を残した九月の空がそこにはあった。白いシーツが風になびいてふわふわ揺らめいている様が、何だかすごく綺麗に見える。
 僕はぎこちない足取りで屋上のフェンスに近づく、眺めが良さそうだとか、そんな単純な理由だった。
「それ以上進まないで!」
 だけど屋上の中央辺りまで進んだところで僕は足を止める。不意に後ろから呼び止められたのだ。聞き覚えのあるこの声は、恐らく彼女で間違いない。
「儚ちゃん?」
 僕は振り向き様に名前を呼ぶ、そこには本当に儚がいた。
 儚は青褪めた表情で僕の方を見ていた。カタカタと震える姿が妙に痛々しくて、その痛みが自分に伝染するようなそんな錯覚を覚える。
「……顔色悪いよ、一体どうしたの?」
 僕はゆっくり彼女に歩み寄る。今すぐ駆け寄って落ち着かせてあげたいと思うのに、この怪我ではそれが精一杯だった。
 少しずつ自分に歩み寄る僕を見て安心したのか、儚は泣きそうな表情で顔をあげる。そして僕が手を伸ばすより先に抱きついてきた。
 抱きつかれた拍子に傷が痛んだが、泣きすがる彼女を見て声を押し殺す。身体に走る痛みより彼女の痛々しい姿を見ている方がよほど辛い。何がそんなに悲しいのかわからないけれど、僕はそっと彼女の頭を撫でた。
「……フェンスは危ないよ、行っちゃダメ」
 彼女が呟いた言葉が、存在が、儚く消えていくように感じた。彼女はちゃんとそこにいるのに、すごく心を乱される。
 僕は撫でていた手で彼女の頭を抱きしめた。彼女が確かにそこにいると感じたくて、傷の痛みなど忘れる程に強く。なのに、どうして、少しずつ遠くなっていくように感じてしまうのだろう。その答えを、今の僕には誰も教えてはくれない。

 落ち着きを取り戻した儚は、絵を差し出すとすぐに帰ってしまった。彼女も忙しいのだろう、仕方のない事だと、自分に言い聞かせる。
 だけど後ろ姿を見送るのが辛くて、見えなくなると今度はその後を追った。
「夜長さん、右足の治りが悪くなりますよ」
 階段を降りた先に儚はもういなかった。代わりに、松葉杖でよく走れるものだと通りすがりの看護士に呆れられる。
「あ……すみません」
 僕は軽く謝罪すると、少し辺りを見回した。もう彼女は病院の外かもしれない、思わず溜め息がでる。
「また溜め息ついて」
 看護士は僕がいつも溜め息をついている事に苦笑した。
「……幸せが逃げてしまったので」
 僕はそう呟くと、逃げるように病室に戻る。正直息苦しくて仕方なかった。誰もが僕を哀れんでいるような、そんな気持ちになる。
 病室の扉を開いて中に入ると、今度は扉に背を預けて大きく息を吐き出した。少し汗ばんで感じるのは息苦しかったからか、それとも無理をしすぎたのか、僕にはわからない。
 仕方なく松葉杖をベッドのすぐわきに立てかけ、ゆっくりと身体をベッドに預けると相当疲れていたのかすぐに睡魔が襲ってきた。だけど夢の世界に自分を預ける事はせず、少し上体を起こして先ほど儚に貰った絵を見た。
「今日は三枚もある……無理させちゃったかな……」
 僕は記憶が戻ってきた事への気遣いだと受け取った。無理はさせたくない、こうして毎日来てくれるだけですごく救われているのだから。
 一枚目は『じゃのめエリカ』という名の枝に無数の小さい花をつける花。鐘形で赤紫色をした花から黒い葯がのぞいている。それがまるで蛇の目模様に見える事が名前の由来のようだ。
「別名『ヒース』、花言葉、『孤独』……」
 まるで僕の感情を言い当てられたようだった。入院していなかったとしても、両親は実家で一人なのに、思わず苦笑した。
 この花は僕が選んで教えたものではなかった。
 彼女は花の写真を沢山並べて、その中から一枚を選んでいた。
 だからこの花を指差された時は、何て答えればいい動揺した。恐らく頻繁に店に顔を出していた儚が、孤独に映っていたのだろう。
 彼女もそれを自覚していて、「私の花」と言って笑っていた。笑っていてもどこか寂しげな彼女の横顔を見て、すごく心が痛んだ。
『……今は孤独じゃないでしょ?』
 僕は苦し紛れにそう言葉をかけた。僕という存在がどれだけ彼女の中にあるかもわからないのに。
 だけど彼女は頬を赤く染めて嬉しそうに笑った。
 僕はそんな儚の様子にすごくほっとしたのを思い出した。悲しませて帰していたらお詫びにならないし、何より嫌だった。何故嫌だと思ったのか、それはわからないけれど、嫌な思いをさせずに済むなら、その方がいいに決まっている。
 二枚目は『ろうばい』という名の黄色い花、こちらも枝いっぱいに花が咲いている。
「別名『からうめ』、花言葉、『ゆかしさ、慈しみ』……」
 ロウのような光沢、質感を持ち、とても良い香りのする花。冬期に控えめに咲く。そう儚に教えたと思う。
「どことなく、儚ちゃんに似ていると思ったんだっけ……」
 僕は誰もいない部屋で小さく呟いた。
 儚は何かと控えめで、それに思いやりのある優しい子だ。少なくともこの頃には僕の認識はそうなっていた。
 だけど儚にこの花に似ていると告げると、彼女は首を横に振った。
『思いやりも、優しさもないです』
 僕はどうしてこんな事を言うのか、心当たりがあったはずだ。だけど出会いを忘れたままの僕は、当時考えていた事までは思い出せなかった。
『だって私、彼女の人生を滅茶苦茶にしてやろうって思ってしまったから……』
 語尾を濁す儚の台詞を思い出して、絵から視線を外した。
「彼女って……誰の事だ?」
 僕はその彼女を知っているのか、知っているなら誰なのかを考えた。だけど何もでてこない、面識自体あるのかも怪しい。
「……っ」
 だけど何故か、その彼女を思い出そうとすると、酷く心が荒む思いがした。悔しさに奥歯をぎゅっと噛み、苛立ちの所為で身体が震える。目の奥が熱くなる程の悲しみと、抑えきれない憎しみに支配された。
 僕は首を横に振り、まだ包帯の取れない額を押さえた。まるで自分が自分ではないようで戸惑いが隠せない。小さく息を吐き、軽く深呼吸をした。そして自分を落ち着かせる為に三枚目に視線を移した。これ以上考えてはいけない、そう脳が警告していたのかもしれない。
 その警告は正しかったらしい、三枚目の花を見た時、僕は先程まで感じていた憎しみを忘れ、心からの笑みを浮かべた。ごわついたとげのある葉、それに不釣合いな小さく可憐な橙色の頭花。その花は『紅花』だった。

 夏休みはほぼ毎日が花屋のバイトだった。
 儚もまるで当たり前のように毎日来ていて、休憩時間はいつも二人で談笑していた。
 ある日、油菜店長がイラスト付きのポップに興味示し絵を描いていた。しかし絵心がなく、それでも諦め切れなかった店長はアルバイトを巻き込んだ。
 そんな時僕は、儚が絵を描いている店長を気にしているのに気付いた。
「絵、気になるの?」
 僕がそう聞くと儚は焦ったようにバタバタと手を動かしていたが、諦めたのかコクンと頷いた。
 打ちひしがれる店長に声をかけ、アルバイトに描かせたのであろうイラストを受け取る。絵心がない僕が言うのも難だが、この店に絵心のある者はいないらしい。
「はい、どうぞ」
 儚は嬉しそうにイラストを数枚受け取った。
 それを眺めながら楽しそうにしている彼女を見て、絵心がない絵だから面白いって事だろうか?と首を傾げる。
「ありがとうございます、皆さん個性的ですね!」
 内心「それは褒めているのか?」と言いたくなるのを堪えて「いえいえ」と返す。
「明さんの可愛くデフォルメされていた絵はあの赤い花でしょ?」
 どんな表現をされようとあの絵は下手以外の何ものでもない。だから渋い顔をしそうになったが、儚の目はキラキラと輝いていて、「可愛く」が本気である事が伺える。
「よくわかったね……」
 僕の美的感覚が可笑しいのだろうかと言う意味を込めて返す。
 しかし儚はそんな様子は気にもせず、ニコッと微笑んだ。そして他の店員の絵も一枚一枚何の花か言い当てていく、あれが全部この短期間に教えた花であった事に驚いた。
「そんなに言うなら儚ちゃんも描く?」
 僕は苦笑し真っ白な紙をヒラヒラと見せた。絵心がないと自覚している者からすると、褒められる事は嫌味に感じるものである。だからこそ大人気なく、お前の絵も見せろと言いたくなった。もちろん彼女に悪気がないのも、それらが全て彼女の本心である事はわかっている。
「いいんですか!」
 しかし儚は嬉しそうに答えた。これだけで彼女は絵心があると分かる。結果恥の上塗りになった事に気付いて苦笑するしかなかった。
 紙と鉛筆を渡すと彼女は机に向かって絵を描き始めた。宙を見上げ何かを考えるような仕草をしつつ、どこかうきうきとしながら手を動かす。
「で、何を描くの?」
 僕は横からそれを見ようとするが、彼女は瞬時に紙を隠した。
「完成するまで秘密です!」
 強情な彼女がこう言う以上、完成するまで見る事は叶わないだろう。だから「はいはい」と答えて勉強でもしながら待つ事にした。

 相当時間をかけているのか、僕の休憩時間が終わるまで後五分くらいしかない。彼女の絵を見るのは次に会う時になるかと思った。
「できました!」
 仕事に戻る準備を進めていると彼女はそう声をあげた。
「本当?今度こそ見ていい?」
 僕は一応確認をすると彼女が差し出した紙を受け取った。一見タンポポかと思ったが、タンポポにしては花弁が朱色で葉もゴワゴワとしていた。そう、ゴワゴワしているとわかるほど彼女は絵が上手かった。
「紅花か、儚ちゃん絵が上手だね!」
 僕はお世辞なしにその紅花の絵を絶賛した。
「別名が二つあるんですよね、『すえつむはな、くれのあい』」
 儚は別名を言いながら少し照れたように身体が左右に揺れていた。絵を褒められて照れているのかと思ったが、それとはまた少し違うらしい。
 何か言いたい事があるのだろう、そう思った僕は「どうしたの?」と優しく聞いた。
「あのね、明さんの花を描いたの」
「え?」
 僕は思わず変な声をあげた。僕の花というのはどういう事だろう。少なくとも誕生花ではない、そもそも儚に誕生日を教えた覚えがない。
「紅花の花言葉が、すごく明さんだなって思ったの」
 儚はそう言って頬を染め微笑んだ。
 僕は「え!?」とまた変な声をあげた。理由は勿論花言葉だ。紅花の花言葉は『包容力』。大人一年目の僕に備わっているとは到底思えない。
「包容力なんてないよ!」
 僕は両手を振って苦笑いを浮かべながら否定した。
 だけど儚は僕の反応に不服そうに「絶対そうです!」と返した。彼女は変なところで頑固だから、きっとどれだけ否定しても認めはしないのだろう。
「儚ちゃんはどうしてそんなに頑ななの……」
 僕は諦めたように呟くと頭を抱えた。
「だって明さんが認めないから!」
「褒められて素直に認める方が可笑しいと思うんだけど」
 儚の反論に僕はますます複雑な気持ちになった。褒められるのは嬉しいけれど、褒められた内容を簡単に認めるのは自惚れとしか思えない。その考えが彼女との相違点だろうか。
「でも明さんはあります、そうでなかったら私、ここにいないもの」
 若干膨れ気味に、それでいて悲しげに儚は言った。
「それとも……頑固なのも、あの時の事も、本当は受け入れてくれてはないですか?」
 儚は俯き気味に言った、あの時というのは出会った時の事なのだろう。彼女はすごくその時の事を気にしていた。
「いや、頑ななのは悪い事だとは思ってないし、あの時の事は……儚ちゃんにも色々あったんだろうから、だから受け入れるとかそういう話じゃ……」
 僕は内心慌てていた。困ったように後ろ髪を撫でながら、うろたえる。こんなに人の感情に振り回されていて大丈夫だろうかと自分が心配になる。そしてそれ以上に、儚の気持ちを踏みにじってしまってはいないか、悲しませていないか、不安だった。
 だけど自分に足りてないと思っている事をあると言うのは性分に合わない。
「僕も相当頑固だから包容力の件は断固として認めないけど、儚ちゃんと一緒にいるのは楽しい!これじゃダメ?」
 僕は半分自棄になって身振り手振りで言葉を投げかけた。
 嘘ではないけどこういう事を口に出して言うのは恥ずかしいし、相手が楽しいと感じていなかったらすごく自分が哀れだ。しかしもうこれしか返せる言葉が見つからなかった。
 儚は目をパチクリさせるだけで何も言葉を口にしない。
 この間がすごく辛くて、むしろ恥ずかしくて自分の顔に熱を帯びていくのがわかる。そのまま沈黙が続き、僕は冷や汗をタラタラかいていた。
「おーい夜長!いつまで遊んでんだ!」
「わっ!?」
 突然休憩室のドアが開き、驚いた僕はその場から横に飛びのいた。更に着地に失敗して盛大に転んだ。
「何そんな驚いてんだよ……」
 室内を覗き込むようにして店長は呟いた。
 僕は打った部分をさすりながら苦笑する事しかできない。正直ものすごく痛かったからだ。
 店長は「早くしろよ」とだけ言うとドアを閉めた。
 一連のやり取りを見ていた儚は、最初は驚いてポカンとしていた。だけど何度か今の光景を思い出すうちに面白くなったらしい、顔を両手で隠し込み上げる笑いを堪えようと声を押し殺していた。
「いっそ笑い飛ばしてくれた方がいい……」
 僕は頭を抑えながら言った。
「ごめっなさいっ」
 儚は笑いながら謝った。先程まで曇っていた表情が嘘のように晴れている。
 僕は内心店長に感謝した。すごく痛かったけど、あのままじゃ儚を笑顔にできなかったと思う。だから僕は儚の一緒に笑う事にした。

 一緒に休憩室をでて、店の前まで儚を送った。いつもは「また今度」で終わり。だけどこの日は少し違った。
「今日の明さん、かっこ悪くて面白いですね」
「それ、侮辱してるの?」
 笑いながら酷い事を言う儚に僕は虚ろな表情で返した。勿論侮辱のつもりではない事くらいわかっているけれど、痛いし恥ずかしいし、すごく疲れた。
 そんな僕の気持ちを知っているのかわからないが、儚は首を横に振った。手を後ろで組んで嬉しそうに身体が左右に揺れている。何か言いたい事があったり、照れている時の彼女の癖なのだろう。
 僕は「ん?」と首を傾げた。
「私も、明さんと一緒にいるのは楽しいです!」
 儚は嬉しそうにそう告げると、手を振って行ってしまった。
 彼女を見送りながら僕は何度も彼女の言葉を繰り返した。そうすればするほど、恥ずかしいのに嬉しいような複雑な気持ちが溢れて、顔が熱くなった。

 目を覚ますと、見慣れた病室。外はもう夜だ。絵を見ながら眠ってしまったのだろう。でも今見た夢は、僕が忘れていた記憶に間違いなかった。
「店長に儚ちゃんの絵を見せたら、ポップ描いてとか言い出したんだっけ、儚ちゃんもノリノリで」
 僕は一人病室でクスクスと笑った。
 だけど不意に悲しみがこみ上げてきて、苦しくなる。
「……あの頃に戻りたい」
 退院すれば元通りのはずなのに、どうしてそう思うのだろう。その理由を僕はまだ思い出せずにいた。