記憶の花:04.ホワイトレースフラワー

 目を覚ますと、視界は病院のベッドの上から見たものに代わっていた。だけどあれは夢ではない、僕の記憶だ。思い出せていない事はまだまだ沢山あるのだろう、だけど一歩前進できた事に思わず涙がでた。
「どうしたの、明さん……?」
 すぐ横で僕が起きるのを待っていたらしい儚が、涙を流す僕に心配そうに声をかけた。
「儚ちゃん!?」
 僕は驚いて涙を拭う。男は人前で泣くものではない、父の口癖で僕自身そう思っていたからだ。
「君……じゃない、儚ちゃんと、イベリスで初めて会った時の事思いだしたんだ」
 僕は照れくさく笑う。
 儚は顔が真っ赤になって、それに気付いて顔を覆い隠した。
「ど、どうしてイベリスなんですかっ、私、あの頃の事思い出すと恥ずかしくて……」
 僕は身体を起こし、儚の頭を撫でた。
 儚は顔を覆い隠した手を下げると、恥ずかしそうに唇をギュッと噛み俯いた。
 だけど気になる事もある、僕達の出会いはどう最悪なんだろう。それにあの赤い花、どうして僕はそれを教えてあげなかったのだろう。ヒガンバナ科だから教えづらいと思ったのは覚えているけど、それが何故なのかわからない。
「明さん?」
 考え事をしていた僕に儚は首を傾げると声をかけてきた。頭は他の事を考えているのに頭は撫で続けているのだから当然だ。
「え?あ、ごめん、痛かった?」
 僕は慌てて手を放す。
 儚は僕の手を目で追っていた。
 その目が僕には名残惜しいとでもいうような表情に見えたが、自惚れるのは恥ずかしいので自重する。
「そうだ、絵を渡さなきゃ」
 儚は少し視線を逸らして言うと、膝に置いていた絵を手に取り顔を隠すようにして眺めていた。
「これを見たらまた何かを思い出せるかな?」
 紙の端から僕を盗み見て言う、目しか見えなくても少しワクワクとしている様子が伝わってきた。口ではああ言ってはいたけど、イベリスでの出来事を思い出せた事を彼女も喜んでくれているようだ。
 彼女に渡された絵はまた白い花だった。小さい花が十個くらい集まってまるでレース編みのような一つの形を作り出していた。
「……あ、『ホワイトレースフラワー』か」
 僕は浮かんできた名をそのまま口にした。今まで何も思い出せなかったのに、これもイベリスの事を思い出せたお陰なのだろうか。
「はい!他には何か思い出しませんか?」
 儚の後押しを受けて、僕は記憶の波に身を委ねた。

 イベリスで儚と再会して数日後、儚は借りた服を持ってイベリスを訪れていた。
 その時間僕は休憩中で、昼食を適当に済ませると約束を果たす為に買った花の本を読みながら勉強していた。だから丁度いいタイミングだった。
「夜長―、お前にお客さん」
 店長の大きな声が休憩室に響き、儚がひょっこり顔を出した。
「儚ちゃんいらっしゃい。店長、休憩室使っていいですか?」
 店長は「騒ぐなよー」とだけ言うと手をヒラヒラと振ってその場を後にした。
 儚は嬉しそうに店長にお辞儀すると、「お邪魔します」と言って休憩室へ一歩踏み出した。
「明さんは勉強中?」
 すぐ横まで来て本を覗き込む儚に、「まあある意味」と返して本を閉じた。一瞬見えたのだろう、花の本だった事に気分をよくしたようで身体が左右に揺れている。
「あ、これ、ありがとうございました」
 僕は「いえいえ」と返すと、貸した服が入った紙袋を受け取る。そして儚に隣の椅子を勧めた。
 中に目をやると、包みが一緒に入っている。出してみるとお中元とかで送るような高そうなお菓子、中身はどら焼きのようだ。
「お母さんが『お花屋さん』にお土産って」
 儚は歯を見せるようにニシシッと笑う。僕が何を言うかわかっていたようだ。
「『お花屋さん』宛じゃ断れないな……」
 僕は苦笑すると、包みを開けてテーブルの真ん中に置いた。こうしておけば自由に食べるだろう。そして箱の中の包みを二つ取って一つを儚に渡した。
 「ありがとうございます」と言って受け取る儚に感心しつつ、僕は「いただきます」とお辞儀をした。
 包みを開けようとして、包みの模様に目が止まる。そして何かを閃いた。
「今日はこの花にしようか」
 包みを見ながら僕は言った。
 儚はすでに開封していて、中のどら焼きを頬張りながら首を傾げた。
 僕は儚に自分の持っている包みを見せた。
「この包みにデザインされている花は、ホワイトレースフラワーと言います」
 得意げにそう言うと儚は一旦食べるのをやめて、自分の持っている包みを見た。
「いくつもの小さな花が集まってレース編みのように見えるのが特徴です」
 説明を真剣に聞いている儚に「花言葉は『可憐な心』、儚ちゃんにピッタリ!」とニシシッと笑う。先程の仕返しのような、ちょっとしたおふざけだ。
 おふざけに気付いた儚は顔を真っ赤にして「もう!」と怒る。だけど若干照れ隠しに見えるその表情に、思わず僕も照れてしまう。だけどこの後のオチを思うと照れている彼女に申し訳ない気もした。
「ただ、牛や馬が食べると中毒になる事から、別名を『どくぜりもどき』と言います」
 そこまで言うと儚は冷めた表情でこちらを見ていた。少しよくわからなくて難しい彼女が、扱い難いその花に似ている気がしないでもない。だけどそれだけじゃなくて、見た目の雰囲気と花言葉から彼女のイメージに合っていると思った。
「花言葉がピッタリって思ったのは本当です、機嫌直して?」
 僕は少し困り顔で儚を見た。
 儚は冷たい目はそのまま、唇を尖らせた。
「いいんです、別に、扱い難いのは事実です」
 そう言うと不貞腐れたように顔を背けた。だけど、今度は耳まで真っ赤になっている。
 それに気付いて僕まで顔が熱くなった。だから逃げるように「飲み物買ってくる!」と休憩室を飛び出した。

 気が付いた僕は病室で再び儚を見るなり、顔を真っ赤に染めた。
 儚も顔を真っ赤にした僕を見て何かを思い出したらしい、赤くなっていく頬を両手で押さえた。
 当時の自分は何気なしに言った言葉だったと思う。だけど何だか恥ずかしくて顔を合わせる事ができない、だけどその間に面会時間は終わってしまうかもしれない。それを勿体無く感じて僕は赤く染まった顔が冷めきらぬまま、「儚ちゃん!」と名前を呼ぶと、何を焦ったのか、声が上ずる。ますます恥ずかしくなり俯く結果に終わった。
 儚は頬を隠していた手を放し「はい?」と首を傾げる。だけど何かに気がついて一瞬悲しそうな顔をすると立ち上がる。
「ごめんなさい、私そろそろ帰りますね」
「もう、そんな時間か……。僕こそごめんね、折角来てくれたのに……」
 儚の謝罪に思わず謝って返した。これからも記憶を探る間に彼女との面会時間は終わってしまうのだろうか。そう思うと悲しくて、何故か胸が張り裂けそうに痛い。
 儚が「また明日」と言って行ってしまうと、ますます辛くなった。彼女は微笑みを浮かべて去って行くけど、実はそれは仮面でしかなくて、後姿がとても孤独だった。今にも消えてしまいそうな儚さを纏っていた。
「儚……ちゃん?」
 思わず誰もいない室内で彼女の名前を呼んだ。
 たまたま通りかかった担当医が僕の様子を心配して「夜長さん、どうかしましたか?」と声をかけた。
「いえ、別に……」
 独り言に意味はない、だから誤魔化した。
 医師は「そうですか」とだけ言うと難しい顔をし、何か次の言葉を捜していた。
「花の絵、日に日に増えていますね。どなたかお見舞いに来られているのですか?」
 僕の持っていた花の絵を目にした医師は、乾いた笑みを浮かべながら聞く。まるで張物のような扱いだが、記憶を失っている僕はデリケートに映るのかもしれないと諦めた。
「はい……僕はその娘の事忘れてしまったのに、毎日来てくれて」
 僕は何気なく答える。
「絵のお陰で少しずつ思い出してはいるんですけど……」
 医師は興味深そうに話を聞いていた。記憶の手がかりを与えてはくれないのに、思い出す事自体は悪い事ではないらしい。
「無理をせずゆっくり思い出していきましょう」
 医師は急かさないように言葉を返した。
 僕は「……はい」と小さく答える。思い出した後に必ず痛みが付きまとう以上、無理をするなと言われれば素直に従うしかないと思った。
「それにしても、毎日来てくださるなんて健気な娘ですね」
 医師は少し微笑みながら答える。
「そうですね……儚ちゃんは優しい娘ですから」
 僕は思わず儚の名前を零した。
 その名前を聞いた医師は少し動揺し、一回首を横に振ると、「儚ちゃん、ですか、早く思い出せるといいですね……」と先程とは正反対の言葉を貼り付けた笑顔で返した。
 一礼して踵を返したその時、医師の動揺した顔が一瞬見えた。