記憶の花:02.イベリス1

 翌日、僕の記憶喪失は脳の異常ではなく精神的なものだとだけ知らされた。「事故が相当ショックだったのだろう」の一言で片付けられた。
 僕はもっと詳しい説明を、それが無理ならどのような事故だったのかを聞きたかった。しかし、事故を知る誰もが重い口を開こうとはしない。事故がどこで起きたのかも教えてもらえなかった。
 だけど事故に関する記憶だけがなくなっているのは確かなようだった。
 実家の両親の事も思い出せるし、今年二十歳になった事、通っている大学やその友人の事も覚えている。先週友人とやらかした恥ずかしくてくだらない出来事も鮮明に記憶していた。
 ただ一人暮らしをしているのに、何をして生計を立てていたのか思い出せない。学費を少し出してもらってはいたが、仕送りはしてもらってなかったはずだ。
 それにどうして儚の事を全て忘れてしまったのだろう、花の事も。彼女が僕の事故に関わっているからなのか。それはどういう風に?答えはでてこない。
 儚がくれた絵を手元に置いたまま、窓の外を見つめた。そして一人考えている。
 するとノックもなしに勢いよく扉が開き「夜長起きてっかー!」と男性の大きな声が聞こえた。
 驚いて振り返ると、そこには大きな花束を片手で持った屈強な男性が一人、看護士に怒られていた。
「夜長ぁ!無事で何よりだ!」
 看護士から解放された男性は僕に近づくと花束を台に置いた。
 僕は呆気に取られ言葉がでない。
「身体の具合はどうだ?しばらくは安静にしてなきゃなんだって?」
 三十代くらいだろうか、その人は気さくに話しかけてくる。知り合いなのだろう、だけど彼もまた儚と同じく覚えていない人物だった。
「すみません、僕、一部の記憶がなくて……どういったお知り合いでしょうか?」
 僕は申し訳ないと思いつつ尋ねた。屈強なこの男性が仕事仲間というのは考え辛い。僕は小さいわけではないが細身で、ここまで筋肉は発達していない。力仕事がメインの職場では役に立たないはずだ。
「ああ、そうか、事故の事だけって聞いてたんだが、バイト先も忘れちまったのか」
 男性は少し残念そうに言った。
「バイト先……?」
 僕は忘れてしまった事を申し訳ないと思いながらも、驚きが勝って訝しげに呟く。そして慌てて「す、すみません!」と返した。だけどやはり、この屈強な男性と共に働いている自分は想像ができない。
 男性は何を謝られたのかもわからないと言う風に僕の言葉を流すと、一回咳払いをした。
「俺は花屋イベリスの店長、油菜だ」
 花屋と聞いてやっと共に働いている様子が浮かんできた。しかし花に囲まれるこの男性―油菜店長を想像すると、何やら可笑しい気がする。だけど花屋はあれで力仕事だとも言うし、深く考えない事にした。
「……イベリスってゲームか何かですか?」
「バカ!イベリスは列記としたアブラナ科の花だ!」
 店長はそう言って僕にツッコミを入れた。怪我をしているから寸止めだったが、何か懐かしい気がして小さく笑う。何より油菜だからアブラナ科のイベリス、そのネーミングセンスが僕の笑いのツボを刺激した。
「そうそう、色々辛いだろうがさ、気はしっかり持てよ」
 店長はどこか切なそうに僕の頭を撫でた。
 大きな手が温かくて、これを僕は儚相手に真似しているのだと気付いて気恥ずかしい。それに二十歳にもなる男が子供扱いというのも何だか恥ずかしい。
「っと、頭怪我してるんだったな、悪い」
 店長はそっと手を放した。
「気にしないでください」
 僕はその様が何か可笑しくてクスクスと笑った。
 店長は歯を見せてニカッと笑う。しかし僕が手にしている絵を見て、笑顔はすぐ神妙な装いに変わった。
「そうか、だから……花屋の事も忘れてるのか」
 僕は首を傾げ「店長?」と声をかける。花屋の事も忘れてる?「だから」とは一体どういう意味だろうか、今の僕には見当がつかない。
「ん?あ、悪い」
 店長は軽く笑う。しかし明らかに元気はなくなっていた。僕の事故について何か知っているのかもしれない。でも恐らく、面会前にその事については口止めされているのだろう。
 どうして誰も教えてくれないのだろう。確かに思い出す努力は必要かもしれない。だけど、聞いて思い出す事だってあるだろうに……。
「なぁ、その絵誰に貰ったんだ?」
 店長は僕の手にした絵を指差し質問した。沈んだ空気に気付いて話題を変えようと思ったのかもしれない。
「?儚ちゃん……って店長に言ってもわかりませんよね」
 僕は苦笑する。
 だけど店長はあてが外れたらしい、彼は更に複雑な顔をした。
「お前、儚ちゃんの事を忘れたんじゃないのか?」
「え?」
 昨日お見舞いに来てくれて…、この言葉を紡ぐ前に、病室に看護士がやってきた。そして店長に「面会時間はもう終わってますよ」とジト目で告げた。
「あ、すんません、じゃ、帰るな?また来るから」
 看護士の後をついて行くように店長はドアの前まで行くと、一度こちらを振り返った。
「……その絵、大事にしてやれよ」
 店長はそう言い残して去っていった。
 言われなくても絵は大事にする、だけど店長が言いたい事はそういう事ではない、そう僕は思った。そして彼も儚を知っているようだ。共通の知り合いというなら、花屋の常連か、それともバイト仲間か、聞きたい事はいっぱいあるのに自由に話す事もできないこの環境が煩わしい。
「そういえば、儚ちゃん、来なかったな」
 店長が来ていたから寂しくはなかったが、それでも残念だった。だけど面会時間は終わっていると看護士は言っていたから、もう今日は来ないのだろう。
「明さん」
 しかし予想に反して聞き覚えのある声が僕を呼んだ。
「儚ちゃん?」
 僕は驚いて声の方向を振り返ると、扉の前に儚は立っていた。後ろで組んだ手には昨日言った通りに画用紙を持っている。
「絵が上手く描けなくて、遅くなっちゃいました」
 儚はそう言って笑うと僕の傍に寄った。
「それより、今日はもう面会時間終わったって聞いたよ、大丈夫?」
 僕は思わず苦笑した。悪い子だな、という意味を込めているのに儚は気付いているみたいだ。
「そんな事ありません、私は今面会時間なんです」
 そう言ってクスクスと笑い返す儚を見て、もうどちらでも良い気がした。もしかしたらあの看護士が店長を追い返す為に嘘をついたとも考えられるし、口止めされていたことを零してしまって連れてかれたのかもしれない。
 儚は後ろ手に持っていた絵を「はい」と僕に差し出すと、手近にあった椅子に腰掛けた。
 渡された画用紙には花が傘状になっている白い花が描かれている。白い花を描くのは難しそうだなとなんとなく思う。
「今日は白い花だね、昨日と合わせると紅白でなんだか縁起がいいね」
 僕はそう言って微笑んだ。もちろんそんな意味でこの花を選んだわけではないのはわかっている。絵を裏返すと『イベリス』と書かれていて、思わず噴出してしまった。
「ごめんっ今日花屋イベリスの油菜店長が来てたんだ」
 僕は笑いを堪えながらそう儚に弁解した。
「知ってますよ、店長さん声大きいから」
 儚は僕の様子に苦笑する。
 僕は笑いを堪えながら、今度は名前以外にも目をやる。すると別名、『まがりばな』花言葉、『心をひきつける』と書いてあった。
「油菜だからアブラナ科の花を選んだってわけじゃないんだ!」
 僕は色々な意味で申し訳なくて苦笑した。
「もう、店長さんはそういうの、すごくこだわってますよ?」
 儚はまるで「悪いんだ」とでも言うようにクスクス笑う。
「そうなんだ。……もしかして、儚ちゃんも花屋でバイトしてるの?」
 店長にできなかった質問を儚にすると、儚は少し困ったようにうーんと唸った。
「夏休みの間少しお手伝いしましたけど……いえ、遊びに行ってただけかな?」
 腕を組みながら儚はそう言って首を横に曲げた。
 僕は「花屋は遊びに行くとこか?」と苦笑する。
「だって、明さんが休憩時間に花の事教えてくれるって!でも居座る時はちゃんとお手伝いもしてたんですよ?お礼にジュース貰いました!」
 むきになって反論する儚が珍しくて勢いに圧倒されそうになったけど、最後の最後にまた噴出してしまった。
「ジュースじゃ割りにあわないでしょ」
「いいんです、ポップ描くのは楽しかったし、それに……」
 儚はぷいっと顔を背けるが、何かを口走りそうになった途端、顔また真っ赤にして語尾を濁した。
「そうか、儚ちゃん絵が上手いもんね」
 自惚れそうになるのを堪えて、僕は微笑んだ。
 それに気を良くしたのか儚はこちらに向き直る。少し複雑に感じたけど、こういうのも悪くないと思う。
「イベリスはね、明さんが教えてくれた三つ目の花なんですよ」
 すっかり機嫌を良くした儚は嬉々とした表情で僕に告げた。
「そうなんだ、じゃあ一緒だね」
 嬉しそうに話している儚の笑顔が眩しくて、僕も嬉しくなった。
「そう、全部一緒なの……」
 小さく消え入りそうな声で儚は呟く。そして「じゃあ、そろそろ帰りますね」と立ち上がった。
 その呟きに、昨日のような儚さを感じた。だけど僕は彼女を引き止める事はできず、「うん、またね」と返すだけだった。