記憶の花:01.ペチュニア

 少し細身だけど小さいわけでもない僕の身体は、今うつ伏せで倒れている。薄茶色の少し癖のある髪、ふわふわした印象のそれは、今降り出した雨に濡れて元気がない。
 雨が本降りになっても起き上がる事のできない僕―夜長 明は、遠のく意識の中で何かを探していた。
 ぼんやりとしていく視界、それが我が身に受けた衝撃の所為なのかはわからない。だけど僕は必死に探していた。
 しばらくして、横たわる僕を見下ろしている少女に気付いた。どこか儚さを感じさせるその少女は、僕が探していた人物だ。僕は彼女を見上げて微笑む。
「ああ……よかった、無事だったんだね……」
 だけど少女は、悲しそうに笑い返した。いや、笑っているのに悲しそうだった。
「どうして……」
 何が悲しいの?そう言いたいのに声がでない。意識が保っていられなくなったからなのか、それとも現実に絶句したのか、もうわからない。
 だから僕は、薄れゆく意識の中で、受け入れがたい現実とサイレンの音を遠ざけた。




 どれだけ眠っていたのだろう。目が覚めた僕は、天井をぼんやりと見つめながら考えていた。
「っつ……」
 身体を起こすと頭や身体の節々に痛みを感じて顔をしかめた。手で頭に触れれば皮膚ではなく包帯の柔らかい布の感触。胸部にも同じ感触のものが巻かれている。特に右足は包帯だけではない所を見ると骨折だろう。
「……骨折?」
 どうして僕は怪我をしているのだろう、覚えがない。大体ここはどこだろう。この場所自体に覚えがないし、衣服もまるで患者のようだ。
「あ、ここは病院か」
 簡素でありながら清潔に保たれた空間、それに患者着、僕のイメージする病院に間違いがなければ多分合っている。
 だけど、どうして僕は病院に患者としているのだろう。しかもどれだけ眠っていたのかも分からない。何で怪我をしているのかもわからない。わからない事だらけだ。むしろわかっている事のほうが少ない気がする。
 しばらくすると一人の看護士が僕の病室へやってきた。でも僕が質問するより前に「先生を呼んできます」と言って、病室を後にした。
 僕は呆気に取られ、そしてため息をついた。
 またしばらくすると、医師と思われる人物を連れて看護士は戻ってきた。
「あの、どうして僕はここに……それにどのくらい眠っていたんですか?」
 僕は先手を打つように質問をした。
「丸一週間、眠っていました」
「そんなに……」
 医師の言葉に戸惑いが隠せず僕は掛け布団をギュッと掴んだ。
「……事故に遭ったことは覚えていませんか?」
 だけど医師は僕の戸惑いより、ここにいる理由を聞いた事に着目したらしい、少し考えてからそう僕に聞いた。
 医師の言葉に僕は「事故……」と言葉を濁した。
 その言葉を聞いて脳に異常があるのかもしれないと、先程の看護士に話している。元々一週間眠っていた事で脳の異常を疑われていたようだ。
 僕はそんな事あるはずないと、『事故』とやらを思い出そうと眉間にシワを寄せた。
 しかし記憶を手繰り寄せようとして得たものは、記憶ではなく異常な頭の痛みだけだ。しかも心が抉られるように苦しい。
 その様子を見ていた医師に無理をしないようにと注意する。そして後で検査をすると言い残して二人は出て行った。
 扉が開いた瞬間、病室の外から聞き覚えのある声が聞こえてきた。どうやら実家の両親が来ているようだ。恐らく一週間心配をかけただろう、そう思うと申し訳なかった。
 だけど僕は分けのわからない喪失感にどうしていいかわからず、扉が閉まったのを確認して、ゆっくり身体を寝かせた。
「これって、記憶喪失……?」
 得体の知れない状況に思わず恐怖を感じ、自分自身の身体を抱きしめる。身体全体を強く打っているのだろうか、全身に痛みが走る。だけど痛みを感じる間は気を紛らわす事ができた。

 人の気配を感じて目が覚めた。少し眠ってしまったらしい。
 僕はいよいよ検査かと身体を起こしたが、誰もいない。思わず苦笑した。
 しかしベッドのすぐ横に備えられた台に見覚えのないものがある、一枚の画用紙だ。
「花の絵?」
 朝顔のようなラッパ型の花、でも朝顔にしては模様が派手だった。
 僕はなんとなく絵を裏返す。すると『ペチュニア』と書かれていた。
「別名『つくばねあさがお』、花言葉は『心の平安』……か」
 どこかに置いてきた記憶が、その絵を懐かしいと感じさせていた。心が温かくて、そして少し、胸が痛む。
 すると、今度こそ検査をする為に医師と看護士がやってきた。不安と緊張はまだ残っている、だけどこの花の絵が僕の心を落ち着かせてくれた。だから恐怖はもうなかった。




 検査を終えて病室に戻れば、再びベッドに寝かされた。支えがなければ一人で歩く事すらできないのだから仕方ない。安静にするようにと一言告げて看護士は部屋を後にした。
 看護士が部屋を後にしてすぐ僕は天井に視線を移した。少し疲れたのか、うとうとしてきた気がする。
 だけど意識を手放す前に扉を開閉する音が響いて、僕は再び扉に視線を戻す。看護士が戻ってきたのかと思ったが、そうではなかった。
 扉の前には学生服に身を包む一人の少女、高校生くらいだろうか。肩まである黒髪を一掴みくらい後ろで束ね、前髪は切りそろえているけど横の毛は少し長めに残していた。とても真面目そうな印象だ。
 少女は僕に気付くと驚いたように顔を伏せ、躊躇いがちにこちらを見た。
 僕は首を傾げてその様子を見ていたが、少女が胸に抱いている画用紙を見て「あ!」と声をあげる。そして痛む身体を起こして検査前に見ていたペチュニアの絵を手に取った。
「この絵、君が置いていったの?」
 少女は一瞬悲しそうに表情を曇らせるが、小さく頷いた。
「ありがとう、とても元気付けられたよ」
 笑顔でそうお礼を言うと、少女は顔を真っ赤にして首を横に振った。
「そうだ、名前、聞いてもいい?」
 僕は何気なしに聞いた。
「……え?」
 少女の第一声は悲しみを含んでいた。だけど僕の頭にそっと視線を移すと何かを察したらしい、それでますます表情は曇ってしまった。
「ご、ごめん、悪い事聞いちゃったかな……あ、そうだ僕の名前は!」
 僕はどうしていいかわからず、自分でも何を言っているのかわからないくらいに動揺していた。
「夜長 明さん」
 少女は僕が答えるより先に僕の名前を呼んだ。
 ここまで会話が進んで気付いた。彼女は僕を知っていて、僕は彼女を忘れているのだ。僕はますます動揺したが、僅かに微笑んでいる彼女を見て、数回瞬きをした。
「私こそ、ごめんなさい……、立木 儚です」
 僕は名前の通りどこか儚げな彼女の微笑みに、少し胸が痛んだ。
「儚ちゃん……か、うん、覚えた」
 微笑み返すと少女―儚は顔を真っ赤にして持っている画用紙で顔を隠してしまった。その仕草を可愛いと感じて和む反面、罪悪感を持たずにはいられなかった。
「もう忘れない、絶対。ごめんね」
 僕はそう言って自分の手をギュッと握り締めた。
 儚はまた表情を曇らせ「そんな、私の方こそ……」と語尾を濁らした。だけどこれ以上言葉を紡げなかったのか、唇を硬く結び首を横に振った。
 今にも泣きそうな表情に僕はまた動揺する。彼女は事故の事を何か知っているようだ。しかも自分を責めている。だから「おいで」とこちらに手招いた。
 首を傾げながら儚は僕の傍にゆっくり歩み寄る。そんな彼女に僕は手を伸ばすとそっと頭を撫でた。
「事情はわからないけど、僕は無事だよ、だから大丈夫」
 儚は少し戸惑いながら、どこか嬉しそうに、くすぐったそうに、そしてまた顔を真っ赤に染めていた。
「……あの!私、また一枚……絵を持ってきたんです」
 さすがに恥ずかしくなったのか、一歩後ろに下がる。そしてずっと手に持っていた画用紙を僕に差し出した。
 僕は苦笑すると、彼女の差し出した画用紙を受け取る。そこには波打つような六枚の花弁が印象的な赤い花が描かれていた。
「色が多彩で、花びらが金属の光沢みたいにキラキラ光るんですよ」
 横から絵を覗きこみながら楽しそうに彼女は花の説明をした。
「華やかな花だね」
「明さんが教えてくれたんですよ」
 彼女は微笑んだ。
 僕は彼女を見て、一度花の事を思い出そうとした。だけど何も思い出せなかった。
 名前を見れば何か思い出すかもと、裏面を見たが、この絵には名前も別名も、花言葉も書いていなかった。
「あ、ごめんなさい、これだけは思い出して欲しくて……」
 儚は少し申し訳なさそうに呟いた。きっと思い入れのある花なのだろう。僕の教えた花に思い入れがあると考えるのは、少し自惚れているみたいで恥ずかしいけれど。
「きっと思い出すよ、約束する」
 彼女は「約束ですよ」と小指を差し出す。
 その様子に僕はまた苦笑すると、同じように小指を差し出した。
「じゃあ、私そろそろ帰りますね」
 指きりを終えると儚はそう告げた。
「そうか、今日はありがとう、また来てくれると嬉しいな」
 名残惜しいけどいつまでも引き止めているわけにもいかない。だから僕はお礼を述べると、少し厚かましいけどそんな事を口にした。
「また、来てもいいんですか?」
 予想外の台詞を聞いたというように、儚は驚いた。
 僕もまたその反応に驚いてしまう。
「どうして?毎日でも来て欲しいくらいだよ」
 だって寂しいじゃない、僕はそう言って笑う。
「じゃあ、毎日絵を持ってきても、迷惑じゃない?」
「全然迷惑じゃないよ」
 毎日来てもいいと言われたのがそれ程嬉しかったのだろうか、今までで一番眩しい笑顔を見せた。
 ただあまりにも眩しすぎて、彼女の笑顔は僕の夢なのではないかと錯覚する。僕はその笑顔を失くしたくないのに、人の夢は儚いものだと言うから、恐ろしくなった。
「明さん、また明日」
 儚は僕の気持ちなど知らずに、別れの挨拶を告げると手を振って行ってしまった。
 僕も大人気なく引き止める事はせず「また明日」と手を振る。そして自分の頬を叩いた。痛い。夢ではないらしい、だけどほっとしたはずなのに何かが不安だった。それは僕の失くした記憶がそう思わせるのか、今の僕にはわからない。
「まあ、何をしているんですか夜長さん」
 僕はビクッとして声のした方向を見ると、先程とは違う看護士がそこにいた。
「いや、夢でも見ているのかと……」
 目が宙を泳いでいるのを感じながら、苦しい言い訳をした。
「あらあら、でも顔はやめてくださいね、頭に響きますよ」
 看護士は体温計を渡すと熱を測るように促した。
 どうやらあの言い訳を疑いはしないらしい、それもそうかと僕は溜め息をついた。
「溜め息付くと幸せが逃げてしまいますよ」
 僕はハハハ……と苦笑した。
 用事が済むと看護士は「何かあったら呼んでくださいね」と病室を後にしようとした。
 僕は「はい」と返事をすると窓の方に視線を移した。
 だけど看護士はいつまでも病室を出ず、何かをジーッと見ていた。
 僕は視線を看護士に戻す。
「あの?」
「ああ、いえ、その花って……」
 看護士が見ているのは先程儚に貰った赤い花の絵だった。
 僕は看護士が何を言わんとしているのかを察知して絵を慌てて隠した。
「答えを言わないでください!自分で思い出すってさっき約束したんです!」
「さっき?」
 看護士は不思議そうにしていたが、自分なりの結論がでたのか何も言わなかった。