ルゥの主人だった少女―由良、久々に出会った彼女は少し大きくなっていた。
だが今人間と同じ大きさを与えられているルゥからすれば、小さくなったと感じるべきだろう。
「ルゥ……なんでしょ?」
由良は遠慮がちに聞いた。
ルゥは突然の再会に戸惑いながらも小さく頷く、すると由良は「やっぱり!」と冷たい鉄格子の中にいるというのに、とても嬉しそうに笑った。
「リボンも、持っててくれたんだね」
「え……あ、うん」
シェトの主人、日賀は"ペット"の姿に戸惑っていた。
そして恐れていた。
自分がした事の仕返しを……。
ルゥは何故由良が自分の姿に戸惑わないのか疑問だった。
猫のような耳や尻尾を残して、他は人間のような造形をしているのに。
それに何故彼女はこの姿のルゥに気付けたのだろう。
微かに脳裏を掠めた答えをルゥは振り切るように首を横に振った。
そして言い聞かせた。
このリボンが見えていたのだと、そしてあの両親がこれで気が付いたように。
何より、この場所で再会した事がどういう意味を持つのか……。
"正しく"この世界の仕組みを理解していないルゥは、意味だけに囚われて俯いてしまった。
「ルゥ、お父さんとお母さんは、もう……」
由良はルゥの表情が暗くなったのを感じたのか遠慮がちに聞いた。
ルゥは心臓が強く脈打つのを感じ、同時に足が痛み転倒した。
そしてそれだけでは止まらず、胸を抑えて激しく咳き込んだ。
「ルゥ!大丈夫っ?しっかりしてっ!」
突然の事に由良は鉄格子を掴み彼を見下ろした。
その表情は酷く青褪めていて、今にも泣きだしそうだった。
ルゥは胸を擦りながら何とかその場に座った。
「無理させてごめんね……」
由良はそう告げると鉄格子から手を放し俯いた。
「……由良の両親は、もう"ここにも"いない」
今まで黙っていたルゥは咳がおさまるとそう呟き、なんとか立ち上がると彼女に背を向けた。
「ルゥ……?」
由良は何の事というように聞き返した。
「オレは見捨てたんだ……あの人達をっ」
そう叫び震えるルゥの背中を見て由良は再び鉄格子に触れると「ルゥ!」ともう一度呼びかけた。
その呼び声にルゥは少しだけ振り向く。
「由良も……あの人達と一緒だったんだろ……」
愁い帯びた瞳でルゥは呟いた。
由良は何も言葉にならず鉄格子を握ったままカタカタと身体が震える。
「由良も……一緒になってオレを捨てたんだろ!?」
ルゥはそう叫ぶと資料を乱暴に掴み取り走り去っていった。
「ルゥッ!!」
由良はそう彼の名前を叫んだが、冷たい牢獄に響き渡る雑音の中に消えた。
建物の外に飛び出したルゥは小石に足を取られその場に転倒した。
資料を掴む力は増しクシャクシャになっているけど止められない。
打ち付けられた痛みではなく心が痛い、ルゥは苦しさに蹲ってしまった。
外の仕事を終えて帰って来たシェトは蹲る彼の姿を見つけるなり小さい溜息を付いた。
「まーた君は、そんなに会えて嬉しかった?」
ルゥを見下げながらシェトは皮肉を浴びせる。
シェトの言葉にルゥは肩をビクッと震わせた。
大きく開かれた瞳を次第に涙で滲ませる。
「先輩には……関係ない……っ!」
涙の滲む顔を見せたくなかったのか、ルゥは見上げる事なく答えた。
「面倒な外の仕事を終えて帰ってきたのに、後輩んはそんな事言われるし、僕って可哀相〜」
シェトはそう面白おかしく言うと蹲るルゥから資料を奪う。
そしてペラペラ捲り目を通すと先ほどとは違い盛大に溜息を付いた。
「全然終わってないじゃないか」
だけどルゥは嗚咽をもらすだけで何も答えなかった。
むしろ言葉など耳に届いていないようにも見えた。
その様子にシェトは飽きれたが、何かを思いついたように微笑する。
「仕方ない、僕がやっておいてあげるよ、だから今日はお帰り」
そう言うとルゥの頭をポンッと叩き、「用事ができたしね……」と小さく耳打ちした。
ルゥは涙で霞む目を見開きシェトの方を見上げたが、すでに建物に入ってしまっていた。
鉄格子が張り巡らされた牢獄の中で、由良は顔を膝に埋めて座っていた。
ルゥと再会した瞬間の表情はそこにはなく、暗く不安と後悔に押しつぶされそうな虚ろな目をしている。
しばらくそうしていると、急に辺りが暗くなったのを感じゆっくりと顔をあげる。
すると由良を見下ろすようにシェトが立っていた。
「君が、大型旅客機墜落事故に遭遇したっていう少女ピアニストの由良?」
由良は何故自分の名前を知っているのだろうと首を傾げた。
「貴方は誰?どうして、私の事知っているんですか?」
質問を質問で返されたシェトは困ったような表情を浮かべると、後ろ頭をカリカリと掻いた。
「僕はシェトっていうんだけど、んーどうしてって聞かれても困るなぁ」
そこまで言うと困ったような表情は一変し、今度は嘲笑った。
「ここがどういう世界か……やっぱり君にもわからない?」
その表情と言葉に由良は身震いがした。
何よりシェトのその表情は自分だけではなく人間そのものを見下していると気付いたからだ。
由良の様子を知ってか知らずか、シェトは鉄格子を掴んでその場に屈んだ。
そして由良と目線の高さをあわせると再び微笑した。
「"保健所"って……行った事ない?」
由良は言葉以上にその瞳に圧倒された。
顔は確かに笑っているのに目がまるで笑っていない。
同じ目線で話をしているのに、由良は見下されているような気分になり耐えられずに俯いた。
「あ、ありません……」
「じゃあ、保健所の話ってご両親とした?」
シェトの問いに疑問を持ちながらも由良は眉尻を下げたまま「ない、ですけど……」と小声で答えた。
由良の回答にシェトはクスクスと笑うのを止めて高笑いをした。
邪悪なそれが辺りに響き渡ると、牢獄中の雑音が更に大きくなって感じた。
「可哀相にね〜……、君は"親の所為"でここに来たんだね」
それだけ言うとシェトは立ちあがった。
「あの……」
由良は遠慮がちに声をかけたが、シェトはその声に耳を貸さない。
「ルゥは二度と来ないよ、君を助けたりもしない」
シェトはそう言うと嘲笑った。
しかし由良は何かを考えるようにシェトを見つめた後、優しく微笑んだ。
「ルゥがもう悲しまずに済むなら、それでいいです」
瞬間シェトの表情が凍りついた。
だが由良にそれを悟られないようすぐ踵を返す。
「君が残りの三日間をどう過ごすか……、見物だね」
シェトはそう言い放つとその場を後にした。
帰宅を命じられ家に戻ったルゥは玄関に倒れ込んでいた。
頭の中は渦巻く言葉の羅列、自分の持ち続けている想い、悩みが大きすぎたのか身体の機能が停止したかのように力が入らなかった。
その原因は自分が突き放した由良の事だ。
自分がこのまま何もしなければ、彼女は二度目の死を迎える。
"由良という人"が完全に消え、また違う人として生まれ変る。
この世界に生き長らえるよりその方がずっといいのかもしれない。
だがルゥは、由良と永遠の別れをするのが怖かった。
しかし"あの一家"の所為で自分は死んだ。
それが後遺症という苦しみを作り、自分が何という生き物なのかという悩みを植え付けたのは紛れもない事実。
別れが怖いなら迎えに行けばいいのに、踏み切れない理由はそこにあった。
「(自分は……猫?)」
ルゥは自分の耳に触れた。
確かに猫のような耳、それに尻尾もある。
だけどそれだけで猫といえるのか、答えはでない。
答えのない問いにストレスは溜まりまた激しく咳き込む。
足の痛みも止まる事がない、今の身体には傷はないのに、最後の経験が"錯覚"という形で痛みを生んでしまう。
ルゥは虚ろに一店を見つめながら、今日はもう立ち上がる事ができないだろうと思った。
この状況も全て、"あの一家"が自分に与えた仕打ち。
「自分を苦しめる者の為に自分が動く必要はない……」
ふとルゥはシェトが度々口にする言葉を呟いた。
それを反復した後、うつ伏せの姿勢をどうにか仰向けにし天井を見つめた。
しばらくそうした後、ルゥは何かを割り切ったように苦笑した。
「そうだ、もう……終わるんだから……っ"オレが"終わるんだからっ」
しかしその笑い声は次第に泣き声に代わり、玄関マットを強く掴んで大粒の涙を流した。
どれくらいの時間が経ったのだろうか、『ピンポーン』とベルが鳴りルゥは目を覚ました。
「(オレ……寝てたのか……)」
寝ていた間に咳も足の痛みもひいている。
ルゥは少しふらつきながら立ち上がると目の前にある玄関の戸をあけた。
玄関前に立っていたシェトはルゥの寝ぼけた顔を眺めて苦笑した。
「無用心だよルゥ、あける前に何者か尋ねなきゃダメだろ」
そう言うとルゥを押しのけてズカズカと上がり込む。
「……先輩……どうしたんですか」
ルゥは薄く開いた目を眠たそうに擦るとシェトに尋ねた。
「ルゥこそどうしたんだい、早退しといて玄関で昼寝とは良い度胸じゃないか」
シェトはいつものようにクスクス笑いながら聞き返した。
だがルゥは寝ぼけているのかいないのか、シェトに背を向けて何も答えない。
「『何で玄関で寝てたって判ったんですか?』……とか聞かないのかい?」
シェトは口に手を添えるとコホンと咳払いをして質問をした。
声を真似ているのに何も突っ込まれず反応に乏しい後輩の姿に首を傾げる。
その間にルゥは少し振り返ったがすぐ目を逸らし「興味ないです」とあしらった。
「それはこちらの台詞だ、誰が君が玄関で寝てた理由など知りたいものか!」
シェトはわざと論点をずらしルゥの反応を伺う。
しかし振り返ったルゥは怪訝な眼差しをしていた。
「……そんな顔しちゃうのかい」
「したくもなりますよ普通」
ルゥはそう答えると飽きれたように溜息をつきその場に座りこんだ。
「まだ悩んでるのかい?」
シェトは腕を組むとそう尋ねた。
更に「ん?」と返事をせがむように首を傾げるとルゥは力無く頷いた。
垂れた耳が彼の心境が悲しさでいっぱいである事を曝け出している。
「何が君を悩ませているんだい?」
そう言ってしゃがむとシェトは俯くルゥの頭を軽く撫でた。
「わからない……」
ルゥは耳を掴むように頭を抱え首を横に振る。
「何が?」
シェトはここぞとばかりに聞き返した。
しかしルゥは頭を抱えたまま、ガクガクと身体を震わせた。
「自分が……何を望んでるのか、判らない……っ」
ルゥはそう言い切ると顔を膝に埋めて泣き出してしまった。
シェトが帰ってから、無気力なまま昨日が過ぎて、更に明日になった。
今日は由良がこの世界に来て、三日目を回ったばかりの深夜。
彼女は今日処刑される。
静まり返った家の中でルゥはリビングのグランドピアノを力無く見つめた。
このまま何もせずにいれば自分の中で全てが終わる。
なのに、苦しくて胸が痛いのだ。
軽く鍵盤を押すと小さく音が零れて楽しかった日々を思い出してしまう。
「由良……」
そう一言呟くと耐え切れない心の痛みに抗うように鍵盤を叩いた。
しかし抗う心に反して辺りには悲しい音が響き渡るのだった。
鉄格子の中で膝を抱えて眠っていた由良は、鉄の鳴る音を聞いて目を覚ました。
そうっと顔をあげるとそこには見覚えのある顔がある。
「シェトさん?」
「へぇ、覚えてたんだ」
シェトはそう微笑すると鍵をあけた。
何故ここにシェトがいるのか、由良が理解するのに時間はかからなかった。
今日、二度目の死を迎えるのだ。
由良は手錠をかけられ鉄格子の外に出た。
彼女を見ていた周りの人々は身を強張らせてガタガタと震えている。
シェトはそれには構わず歩きだし、由良もそれに続く。
「一瞬だから痛くない……って言ってあげたいけど、多分すごく痛いよ」
シェトはクスクスと笑った。
由良は「そうですか」とだけ答えるとシェトの言葉を待った。
「ルゥは脱走しようとして銃で足を撃たれているんだ」
だけどその言葉に由良は表情を曇らせた。
それをシェトは恐怖に怯えているのだと受け取り、
「だから君は、あの小さい身体が受けた痛みを味わう事になる」と続けた。
そして恐怖に怯える顔を見てやろうと由良の顔を覗きこんだ。
「痛いだろうね、それが終わったら……今度は処刑だ」
その言葉をシェトが言い切った時、由良はポロポロと涙を流し、シェトは恐怖で泣いていると受け取り微笑していた。
しかし由良の涙は自分がこれから受ける痛みへの恐怖ではなかった。
「ルゥ……ッ痛かっただろうな……辛かっただろうなッ」
由良の言葉を聞いたシェトは硬直した。
不可解で言葉が紡げなかった。
それでも由良の涙は止まる事はなく流れている。
ルゥが受けた仕打ちを想って泣いているのだ。
「(どうして……ッ人間なんて、みんな自分の都合しか考えてない癖に……)」
シェトは由良の反応に戸惑いながら今ある現実を認めまいと首を振った。
そしてこれ以上、二人の間に言葉が交わされる事はなかった。
...2008.12.12/修正01