Genocide

 今日を終えたら殺人ゲームは終わる。
 そんな事はありえないと思うだろうか、でも本当に終わるんだよ。

 だって全ては三ヶ月間の悪夢のようなゲームだから。

32.終わりへの眠りと始まりの日

 都会なのに木々の生い茂る静かな場所、それが私達の"いつもの所"。 学校からは近くも遠くもなく、私の家と彼の家から丁度同じくらいの距離にある場所。
 道がないから草を踏みしめて歩いて行く。 そしてしばらく歩くと小さな小屋、もとい秘密の隠れ家が見えてくる。 以前彼は言っていた。 その小屋は昔仲良くなったおじさんのアトリエで、それを貰ったのだと……。
「律君……」
 入り口の方に回ると、病院の患者着のまま小屋の入り口で蹲る彼の姿があった。 微弱に震える身体、それは寒いからじゃない。 泣いているから、怯えているからだ。 今は午前八時、八時間も彼は一人で……。
 私は彼を抱き寄せる。 私には彼の為にできる事がないから、ただ傍にいる事しかできないから、 だから今はただ抱きしめてあげたい。
「おかえり……」
 リツ君の「じゃあね……」の意味を、彼が目覚めるまで気付けなくて思わず涙が零れる。
「……戻ってくるつもりなんて……なかったのに……っ」
 律君も私の腕の中で更に大粒の涙を流した。
 リツ君は自分が押し込められた本当の人格だと言っていたけど、本当は違ったんだ。 本当はリツ君の方が、チップに生み出された人格。 いや、もしかしたら、律君が自分を守る為に生み出した別人格だったのかもしれない。 確かめようはないけれど、リツ君にも生きていて欲しかった。 もう遅いけど、今だからそう思う。

 彼が落ち着いたのを確認して、私は肌身はなさず持っていた鍵を取り出す。 律君が「思い出まで汚したくないんだ」と言って私に預けていたあの鍵だ。
 鍵を開け、力の抜けている彼を支えながら中に入る。 律君をベッドに座らせて私は久々に来た隠れ家の中を見渡す。
 小屋の中は相変らずで、使われていないイーゼルやキャンバスが置かれている。 そのキャンバスに描かれていたものはやはり描きかけで判らない。 でも私はそれを見る度懐かしい気持ちになる。 この懐かしさは記憶はおぼろげだけれど優しい何かなのだ。 それが何なのかを考える、だけど本当は何となく答えはでていた。
「お父さん……」
 私はそう呟いてキャンバスに触れた。
 彼に連れられて訪れた時から、知っているような気がしていた。 だけどそれが唯一の父の思い出なら納得だ、確証はなくても身体が覚えてる。
「この隠れ家をくれたおじさん、ちょっと私に似てたんだよね?」
 私は律君を振り返った。
 彼は私を見て少し口を動かすが声がでない。
 不審に思って私は首を傾げる。
 だけど彼は一瞬口を抑え戸惑った様子こそ見せたが、すぐぎこちないな微笑みを浮かべて頷いた。
「……お父さんだったのかな」
 私は少し微笑み律君の隣に座った。 すると彼は自分を抱きしめて震えている。
「冬だし、ここはちょっと寒いよね」
 彼は頷くけど顔を背けてこちらを見ない。 何かが可笑しい。 そしてこの感じ、どこかで……。
 私は彼の額に手をやる。 彼は驚いた様子こそ見せたけど無理に引き剥がそうとはしなかった。 いやできなかった、身体に力が入らないみたいだ。 包帯越しでよくわからないが、熱はなくむしろ冷たい。 身体が冷えてるからというには変な汗をかいているし、 少し呼吸も荒い。 ここまでの症状で私は一つ思い当たる点があった。
「律君……あの毒、飲んだの?」
 彼は何も言わず視線をそらす。 だけど間違いない、曽根君の症状と同じだ。 まだ痙攣とまではいかないし、痛みに顔をしかめたりしている。 症状はまだ浅いみたいだ。 だけど曽根君は前日まで平然と過ごしていた事を考えると、 彼に残された時間は短いはず。
「病院に戻ろう!?死ぬなんてダメだよっ」
 私は彼の腕を引く、だけど彼は動こうとしない。 いや、動けない?
「どうしてこんな……っ」
 私は彼の手を握り涙目になった。 私の中の毒が完全に消える日に、どうして彼は真逆の道を歩んでいるのか。
「まさか、あの時……?」
 彼が赤く染まった日に、彼は躊躇なくあの毒液を口に含んでいた。 あの時は私から思い直す時間を奪う為に、そしてリツ君がやった事だと思っていた。 だけどあの頃はまだリツ君はあまり外にでてきてなかったはず。 という事は……。
「あれは、律君だったの?」
 彼は力無く頷いた。
 あの瞬間、私に毒を飲ませた彼は律君本人だったのだ。 私を毒で縛る為にではなく、自分にタイムリミットを作るという彼の最後の抵抗。
 全部智早の思うままに動いていたなら、彼が警察に駆け込まず自分が死ぬのを待っていたのも合点がいく気がした。 となれば彼女はリツ君の動きを限定し自分に伝わり易い状態を作るだろう。 あの場所で殺人を犯すようにチップに刻んでいれば、病院の所有物で人目に付き難い。 彼は自分の意思で殺人を犯す訳ではない以上、それだけで事件を隠蔽するのが楽になる。 病院が許可を出さなきゃ捜査は不可能な場所、だから彼は彼女に抵抗せずただ時を待ったのだ。
 しかし"自分は"殺し繰返す、気付けば人が自分の手で殺されているというのはどんな気分だろうか。 きっと信じられないだろう、怖いだろう、それに耐えられなかったから彼は完全に自分を手放した。 殺人に関する情報ばかりを持った可哀想なリツ君に全てを押し付けてしまったんだ。
 だけどリツ君は私の為に消えてしまった。 そして全部律君に戻って来た。 どうして酷い人の罪を見逃し、辛い思いをしている人の罪は罰すのだろう。 どうして今まで以上に苦しめようとするのだろう。
 私は彼の腕を肩に乗せて引きずるような形で外にでた。 力のでない彼は抵抗はしない、だけど微かな声で「もういいんだ」と呟いた。
「いいわけないよ……っ」
 女の私が彼を担いで行くのは無謀にも近いのは覚悟していた。 死んで終わる事がいいものなはずがない。 彼は確かにそれで救われるのかもしれないけれど、 智早には玩具が壊れた程度にしか思われないのだ。
 確かに律君人体実験によって罪人の烙印をおされた被害者だ。 だけど彼女が捕まった後、全ての始末を他の人に押し付けるのか。 それに、こんな押し付けられた人生だけで終わっていいのか……。
「あんな人に押し付けられた人生で終わってほしくないよ……っ」
「……の、る」
 私はそんな事、耐えられはしない。

 木々の中を男の子一人を担いで歩くのは予想以上に大変だった。 たいした距離はないはずなのに、まだ道が見えてこない。 だけど私の気持ちを理解してくれたのか、彼は出来うる限り自分の足で歩こうとしていた。
 時刻はもうじき午後を回るという頃に、ようやく木々の中を抜けた。 木々の中さえ抜ければあとは人に助けを求めれば済む。
 彼の症状が曽根君程悪くないのはどうやら毒液を少量しか飲んでないからのようだ。 それに口に含んだ解毒剤が溶け出していたのかもしれない。 それでも放っておけば命はないのだろう……。
「あと少し、頑張ろ……死んじゃ、嫌だからね」
 私は律君に聞いた。
 彼は顔色こそ悪かったけど微かに笑みを浮かべて頷く。 私の気持ちが通じたのだろうか、頑張ろうとしてくれる。 彼は私の初めて言うわがままを受け入れてくれたのだ。
 私は彼の返事に安心して前を向いた。
「あ……あそこに人がいるよ」
 私は一歩踏み出す。
 だけどそこで止まった。 私がではなく律君が私を止めたのだ。
「?……律君?」
「……逃げるんだ……のるっ」
 律君はこれ以上近付いてはいけないと言う。 その尋常ではない様子に恐怖が甦る。
 少しずつこちらに向かってくるその人の纏う白衣は汚れていた。 そう一日中ありとあらゆる場所を逃げ回っていたのか、尋常ではない汚れ方だ。
「やっと、見つけた……」
 その人―智早は、そう呟いて恍惚とした笑顔を浮かべた。 それは人の浮かべるようなものとは思えない程狂気に満ちている。 きっとこの人はもう大事なものを沢山なくしてしまっているんだ。
 彼は残っている力を振り絞り、私の手を引いて逃げ出した。 でも長く続くはずはない、私は負担にならないようペースを合わせた。 普段なら彼のペースに合わせる事なんてできるはずはないのだけれど、 これが死に物狂いというのだろうか、自然と身体が付いていく。
 銃声が追いかけてくる、昨日と同じだ。 銃声が聞こえれば、どんなに町から人が減っていても警察に通報されるだろう。 案の定パトカーのサイレンがこちらに向かってきている。
「もう少し……っ」
 律君は身体の痛みや震えに耐えながら必死逃げる。 一人ならきっと逃げなかっただろう、何をされるにせよ、それこそ心を壊してたと思う。 少し自惚れているかもしれないけれど……。
「ああ……っ!」
 私は咄嗟にお腹を庇って倒れた。 慣れない速さで走ってに足が縺れたわけではない。
「のるっ!?」
 律君は急に私の手が離れた事に驚いて振り返る。 当然彼は私の身に何が起こったのかすぐ理解した。
 私はその場で蹲らずにはいられなかった。 倒れた拍子に打った腕の痛みにではない。 左足に走る痛みにだ。
「やっと……捕えたわ……」
 そう言って笑いながら歩み寄ってくる智早。 彼女には私の足がどういう状態か見えている。 だから面白おかしく笑っているのだろう。
 私も自分の足の状態を知る為そちらに目をやる。 掠った程度だと思っていたが、皮膚どころか肉を少し抉られてるようだ。 そこから出血して赤く染まってる左足がとても痛々しかった。
 私は痛みを堪えて立ち上がろうとするが、左足は正直痛みで感覚が鈍くなっていた。 引きずっていくしかない。 抵抗手段を持たない私達は助けを待つしかないのだから。
「先に行って……っ」
 私は律君を見る事はせずそう呟いた。 だけど律君は今にも倒れそうなのを必死に堪えて、私の手を取る。 言葉はない。 でも一緒でないと意味がないのだと、そう言いたいのはわかった。
 私は彼を見上げ、泣くまいと唇を噛んだ。 逃げてはいけないと私は言った。 だから私もここで諦めるわけにはいかないんだ。
 しかし怪我人に合わせた速度に全く何の被害も被ってない智早が負けるはずもない。 すぐ私達は追い詰められる。
 律君は咄嗟に智早に向かって蹴り込むが、 普段の調子ではない彼の攻撃が彼女に当るはずもない。 彼はカウンターを喰らいその場に倒れた。
「生きての再会を喜んだのに、死にかけじゃないの……」
 律君は咽かえる。
 智早はその様子を見て微笑する。
「貴方はそこで見てなさい……三十番目が死ぬ所」
そう言うと彼女は私の頭に銃を突きつけた。
「誠華に従ってた連中がみんな嫌いなの」
 私は目を疑う。
 智早は研究者として朝霧 誠華に出遅れた事を恨みつづけていた。 彼女を殺しただけでは飽き足らず、その息子をも実験体にした。 彼女に賛同した者を自分の部下にもした。 だけどそれでも足りなかったから、 だから智早は彼女の賛同者の子供達を殺そうと企てた。 その中には誠華さんの研究の実験体であった父の娘である私も含まれていたのだ。
「屑からは屑しか生まれない、この世にいらない」
 自己中心的考えが通り越すとこうなるのかと、私は驚かずにはいられない。 そして言葉通りなら、この人は斉藤さんも殺しに行くのだろう。 犯罪者として生きている星垣さんすらも。
「この距離なら外さないわ、じゃあね?」
 智早はそう微笑んで銃の引き金を引いた。
 だけど私の意識は消えなかった。 むしろ銃声も響いていない。 銃は不発だったようだ。 あれだけ乱発していれば無理もない。
 律君は一足早く我に返ると渾身の力を込め智早の足を払う。 そしてその隙に立ち上がると私を拾い上げ駆け出した。 彼の駆け出した方角にはパトカーが見える。 間一髪で私達は助かったんだ。
 パトカーは他にも何台もいた。 それに実は私達が走ってきた方角からも回り込み智早はもうどこにも逃げ場はない。
 律君はパトカーから降りてきた母を見つけ私を預けると、パトカーに倒れ込む。 相当無理をしていたのだろう、これ以上動けそうもなかった。
 彼や私の様子にすぐ救急車が手配された。 もう終わったのだという開放感に自然と涙が零れる。
「良かったな……」
 パトカーの中から聞き覚えのある声がする。
「夜観之君……!」
 私は目を丸くする。 目が覚めたんだとか、気の利いた言葉が何も浮ばない。 ただますます涙が大粒になった。
 それを見て夜観之君はただ苦笑した。 その笑顔も久々だ。 死にかけてた人たちが目を覚まして、犯人も捕まって、 本当に終わるんだと……。 だけどそう甘くはなかった。
「!?危ない……!」
 夜観之君は何かに気付いて思うようにならない身体を必死に動かす。
「え?」
 私の振り返った先には倒された警官と銃を構える智早の姿があった。 銃口の向けられた先はもちろん私だ。
 母は私から手を放し、銃を取り出そうとする。 しかしそれより前に銃声は響いた。
「……っ!!」
 銃を取り出した母は智早に発砲する。 それが命中した瞬間に倒れていた警官達が彼女を今度こそ捕えた。

 母は全てを見届けると途端警官としての自分を捨て置いて私を向いた。 そして目の前の状況に言葉を失う。 だけどそれは私が撃たれていたからではなかった。
「律、く……っ」
 私は彼の腕の中で泣いていた。 彼もリツ君と同じ、私を庇って銃弾を受けたのだ。
 彼の身体はその場に崩れ落ちる。 私は彼の上半身を抱き起こしてひたすら名前を呼ぶ。 先ほどまで荒かった呼吸が怖いくらい静かで、か細い。 彼に当った銃弾は胸を貫き、私の肩を掠めていた。
「死んじゃ、嫌だよ……っ」
 本音だった。 彼が罪から逃げるとか、そんな事じゃない。 ただ生きていて欲しい、一緒にいたい、それだけ。 こんな状況になるまで自分の中の本音に気付かなかった。 すごく間抜けで、馬鹿で、何より最低だ。
「……の、る」
 微かに彼は声を発した。
 私は一心不乱に救急車はまだか叫んだ。 ドンドン涙でぐちゃぐちゃになって、みっともなくなっていく。 そのくらい心も整理つかなくてぐちゃぐちゃだった。
「大丈夫だから……」
 彼は私を落ち着かせようと小さく呟いた。
 情けない表情を浮かべて、私は彼の名前を呼ぶ。
「逃げないから……約束……」
 そう言って優しく微笑む彼は、そのまま眠ってしまった。
 そのあとの私は可笑しいくらい落ち着いてた。 救急車が来た時も「救急車来たよ」とか「だからもう少し頑張って」とか、 眠る彼に呼びかけてた。
 本当は頭のどこかでは判ってた筈なのに、この時はわざと目をそらした。
 彼は私に嘘を付いたことなんてほとんどなかった。 だから約束が嘘だなんて思えなかった。 ……もう彼が目を覚ます事は永遠にないなんて、考えられなかった。


 私と母は智早を捕えて一月と経たないうちに、母の実家へ行く事になった。 この町で生きていくにはあまりにも辛すぎる。 楽しかった年月、それ以上に辛くて苦しかった三ヶ月間が、その終わりが私の胸を締め付ける。 少なくとも母はそう考えて、警察を辞職して実家に戻ると決めたのだ。
 私やクラスメイト達は被害者であると、罪に問われる事はなかった。
 だけど夜観之君だけは違った、彼は毒を飲んでいたわけではない。 その上脅されてたわけでもない。 彼は自分の意志で協力していた。 母親のした事への罪悪感、その為に彼が望むならと従っていたのだ。 本当は彼の凶行すら、その母親が仕組んだ事だったが……。
 ただ被害者と括られた私達にも協力してくれていた事と、未成年であった事から、 一年程度少年院で過ごし仮釈放されたそうだ。
 しかし一番悲しいのは研究者達だ。 子供を殺された悲しみだけで終わらない。 七瀬 智早の朝霧 律を実験体にした研究に関与した事で罪に問われたらしい。 乳飲み子の頭を開く事を黙認するなど許せたものではないと……。
 朝霧 誠一郎は実の姉殺害、甥の実験を黙認した罪。 朝霧 波子は遺体を回収し遺棄した罪。 どちら刑罰は免れそうにない。
 この一連の事件の黒幕である七瀬 智早。 彼女は過去に誠一郎と結託し朝霧 誠華を殺害、 更に彼女の実験体であった私の父、浅木 知則を原田研究員と共に事故死に見せかけ殺害している。 この三ヶ月間にも井口さんを二人の目の前で銃殺。 その後も山里さんと馬島君を殺害し、斉藤さんと私への殺人未遂。 最後には自分の実験体であった朝霧 律の殺害。 他にも数十名の重軽傷者を出している。 極刑は免れない内容だった。
 弁護側は精神鑑定を求める等して極刑を免れようとしたそうだが、 これらの事から彼女の死刑は決まった。 乳飲み子を実験体にしただけでは飽き足らず、殺人の道具にしようとした。 その上自分でも殺人を犯したのだ。 これが許されてしまう世の中であっていいはずがなかった。
 全て私のいない所で決まった事だ。 何度か証言をしに足を運んだ事もあったが、証言等なくてもきっとこうなっただろう。
 そして千草先生は、研究者だったが罪に問われる事はなかった。 恋人を殺され実の息子を実験の末亡くした。 朝霧 律を近くで観察するという実験の一旦を担ってはいたが、 直接彼に影響する実験には関わっていないのだ。 だから先生は亡くなった律君の名誉を守ろうと、戦う事を決めた。 彼の罪は本当は彼の罪ではないはずだと……。
 本当は私も先生と共に戦いたいと思った。 だけど先生はそれを許可してはくれなかった。 世間の目に晒される事、同時に孫が世間に奇異の目を浴びるかもしれない事、 それを気にしたのだと思う。 孫を息子の二の舞にはしたくはなかったのだろうと。

 私は息子と一緒に家までの道のりをゆっくりと歩いてる。
 あの時お腹にいたこの子がもうすぐ十歳。 もう十年も経ったのだ。 この子の父親が死んでしまってからもう十年、長いようで短い十年。
 身体の中にあった毒とそれを解毒する薬、そして精神的疲労。 あれだけの事があったのに何の問題もなくこの子は育ってる。 それはとても喜ばしい事だ。
 ただ私より彼に似てるこの子は、聞き分けが良すぎる。 それに空気を読みすぎるというか、自分の事を何でも抑え込んでるような気がするのだ。 彼が自分の事を何でも抑え込まれてたように、なってはいないか心配でならない。
 以前一度だけお父さんについて聞いてきた事があったけれど、 私の表情が曇ったのを見て以来、父の話をまるでしない。 だからいずれ私から話さなければいけないとそう思う。 きっとこの子も待っているだろうから。
 家までもう少しという所に登り坂がある。 そこを楽しそうに駆ける息子を見守りながら歩いてく私。 息子の駆けてく方向に人が立っている。 だからぶつからないように注意すると「うん」と元気の良い返事が返ってきた。
 私は一度止まってその人にお辞儀をする。
「よかった変わってなくて」
 投げかけられた言葉にその人が赤の他人でない事を知る。 私はゆっくりその人の顔を見た。
「十年ぶりか?」
 肩に付く程度の黒髪を軽く束ね、スーツを纏った私と同い年くらいの青年。 こんな風貌の人は知らないけれど、でも誰だかはすぐわかった。
「夜観之君……!どうしたの、随分と変わっちゃって」
 私は夜観之君をマジマジと見ながら言った。
「いや、普通に考えてピンク頭でいられるわけないだろ」
 夜観之君は私の頭を軽く小突く。 確かにそうだけれど、よく頭を見て見ると遠目ではわからない程度に今でもエクステは付けてるようだ。
 私は思わず苦笑した。

 息子に先に家に帰るように告げて、私は夜観之君と坂の下の風景を眺めながら話をした。
 私はすぐにこちらに来たからほとんどあちらの様子はしらない。 ただ知っているのはそれぞれがどういう刑に処されたかだけだ。
 夜観之君は風景を眺めながら、あの事件のその後を話した。
 研究員はとうに出所しそれぞれどこかへ行ってしまったという事。 朝霧夫婦はまだ署の中で、今だに裁判の結果に納得いっていないという事。 智早は今だに死刑が執行されてないという事。 裁判が終わってからとほとんど変わらない。
「夜観之君は九年間どうしてたの?」
 私は夜観之君が少年院を出所してからどうしていたのかを聞いた。 今まで連絡を取らなかったから、いや取れなかったから、気になるのだ。
「え、俺?……千草と一緒に朝霧の無実を訴えてた」
 夜観之君は言い辛そうにそう答えた。
 事件の真相を知って、彼に協力する事が彼の望みではなかったと判ってしまった。 だから夜観之君も彼の名誉を守ろうと戦っていたのだと。
「そう、なんだ」
 私は少し申し訳無さそうに答えた。 責任を全部押し付けて、自分だけ田舎に引っ込んで暮らしてる。 なのに彼らは戦ってる、そう思ったら情けなくて。
 だけどそんな事を彼らが望むはずもない。 案の定夜観之君にまた小突かれてしまった。
「まあ世間の認識はそう変わらないけどな」
 夜観之君は苦笑した。
 でも裁判所は朝霧 律は被害者である事を認めたらしい、 それだけで戦いは終わらないのだろうけど、 それでもとりあえずの決着が付いた。 だからこうして知らせに来てくれたらしい。
「でも嬉しいよ」
 私は笑顔で答えた。 そういえば今度先生も顔を出してくれると言っていた。 それはこの事があったからなんだろうな。

 今日中に夜観之君はあの町に戻るらしい。 だから母に息子を任せて駅まで見送りに行く事にした。 本当は息子も連れていこうかと思っていたのだが、母が渋い顔をしていたのだ。
 駅までの道のりを二人で歩きながら他愛もない話をした。 十年前を思い返すとあまりそういう会話はなかったから不思議だ。
「息子、朝霧にそっくりだな」
 夜観之君は一度家を振り返りそう呟く。
 私もそれに頷いた。 もう少し私に似てくれればと幾度も思った。 だけど彼に似ていく息子を見て律君は確かに居たのだと実感する時もある。
「頭は?」
「成績は悪くはないよ、律君程よくもないけど」
 私は苦笑した。 律君も普通の人生だったらこんなものだったのかな。
「運動は?」
「運動会の徒競走で一位を取ったよ」
 私はクスクスと笑った。 これだけは本当に彼から受け継いでいるという感じだ。
「あの時は俺が一位だったけど」
「そうだね」
 私が倒れて律君が試合放棄した時の事だ。 ここだけを思い出すと、少し楽しい話みたいに思えるから不思議だ。
 そんな他愛もない昔話を、律君も一緒にできたら良かったのに……。
 あっという間に駅のホームまで来て、私達は口を開かない。 お互い何を話していいかわからない。 さっきまであんなに話してたのに。
 ここは一時間に一本程度しか電車が来ない。 なのに話をしないでいるうちにいつの間にか電車は来てしまった。
「じゃ、俺行くな」
「うん……」
 私は語尾を濁した。
 夜観之君はそのまま電車に乗り込む。 まだしばらくは発車しない。 だけどただそこで見ているしかできない。
「あのさ」
 そんな空気の中で夜観之君は口を開いた。
 私は「ん?」と聞き返す。
「また、近いうちに来てもいいか?」
 強張った顔で少し照れたように夜観之君は聞いた。
 戸惑った私は目が泳いで、最後には俯いてしまう。 答えなきゃと思っていても言葉がでない。 上手い言葉が思いつかないんだ。 そうこうしている間に発車のベルが鳴り響いて、 私は顔をあげる。 答えがないわけじゃない、夜観之君の顔を見た。
「ゆっくりでいいんだ、でも一緒にいたいから」
 夜観之君の言葉を最後に扉が閉まった。
 もう言葉じゃ伝わらないだろう。 だから、電車が走り出す直前に、小さく頷いた。 そしてもう一度夜観之君を見た。
 走り出した電車の中で彼は少し恥かしそうにしていたけど、 それでもこちらに微笑みかけてくれた。
 私は電車に向かって手を振る。 そして心の中で夜観之君に返事をした。
『また会える日を楽しみに待ってます』

[終] ...2010.06.14