悪夢のような出来事が起こってからの初めての学校。
授業が終わるまで後十分、そうすれば残すはホームルームのみだ。
思い返せば、私は今まで以上に授業についていけなかった。
先生の言葉が耳に入ってこない、どうしても集中できないのだ。
それは多分、血に染まったあれだけが原因じゃない。
私は朝の出来事をずっと気にかけていた。
話は朝に遡る。
七瀬君の問いと共に予鈴が鳴り響いた。
朝礼まで残り十分、遅刻は避けたい。
しかしこの凍った空気の中でしかも短時間、沢山ある聞きたい事を全て問うのは難しい。
だから私は、『あれ』というのが『殺人』の事なのかどうか、それを最初に聞く事にした。
「あれって……殺人……?」
七瀬君は目を見開くと、歯をギリッと軋ませた。
「俺以外も手駒に……っ」
七瀬君は意味深な言葉を口にすると、壁を思い切り叩いた。
悔しそうに、込み上げる怒りを壁を叩く事で何とか落ち着かせようとしているようだ。
そして今度は私の肩を掴んだ。
「お前も、何かされたのか?」
すごく真剣な表情で問われ、私は戸惑ってしまった。
こんなに口数の多い七瀬君は初めてなのだ。
今の問いで、私が毒を飲まされたように、七瀬君も何かされている事が判った。
「七瀬君……」
「夜観之でいい、その苗字嫌い」
急に子供のような態度を取った七瀬君もとい、夜観之君に私は思わず首を傾げた。
しかし、今はそんな事を一々言ってる場合でもなく私は仕切り直した。
「夜観之君も、もしかして毒を……?」
夜観之君は私の言葉に苦しい顔をすると、小さく頷く、
私は自分と同じ状況に立たされている存在を目の当たりにして言葉を失った。
だけど私達の会話は突然打ち切られた。
『カサカサ』と木の葉を踏む音がこちらに近付いてきている事に気付いたからだ。
夜観之君が私から視線を外し、私もその方向を振り返った。
「のる、それに七瀬君、どうしたのこんな所で、遅刻するよ?」
そう笑顔で私達に声をかけたのは彼―朝霧 律。
第三者がいる時私の事を愛称では呼ばない彼が、夜観之君の前で『のる』と呼んだのだ。
私はそこに違和感を感じずにはいられなかった。
「朝霧っこれはどういう事だ!?」
夜観之君は彼に詰め寄ると、そう言って胸倉を掴んだ。
だけど彼はまったく動じていない、むしろ余裕の笑みを浮かべていた。
「僕も苗字嫌い、だからそれで呼ばないでくれる?」
そう更に不敵に笑うと彼は夜観之君の腕を引き剥がす。
私はいつから聞かれていたのかと思わず肩をふるわせた。
だけど夜観之君は更に食って掛かった。
「坂滝は無関係だろ?!なのになんで……!」
「関係あるよ、僕の彼女だって君は知ってるでしょ?それに……」
彼は最初は余裕の表情だったが、何かを言い掛けて顔をそらした。
視線の先は空だ。
私は会話の途中で何故空を見たのか疑問に思った。
いや、もしかしたら上を向いただけなのかもしれない、
彼は時折心を支配されたように、空を見上げている事が多かったからだ。
そして決まって『ボーっとしていた』と言っていた。
だけど彼は何事もなかったように視線を夜観之君に戻した。
「君知らないんだね、お母さんに聞けば何か判るかもしれないよ」
彼は笑顔を作るとそう答えた。
「あのババアが坂滝と関係あるってのか?」
夜観之君は嫌そうに彼にそう問う。
「さあそれはどうでしょう……」
彼ははぐらかすように答えた。
「お前……!」
夜観之君は再び彼の胸倉を掴むと、今にも殴りかかりそうな血相で睨みつけた。
だけど彼は慌てる事もなく、挑戦的で不敵な笑みを浮かべると、夜観之君の腕を払いのけた。
「他の話は放課後、屋上で」
教室に向かって歩きだした。
夜観之君は私を振り返り、行くかという風に目配せする。
しかしすぐに意味を理解できなかった私は首を傾げた。
「……お前、のるんっていうかのろ子だな、行くぞ」
夜観之君は口をへの字に曲げ、私をジトッと見ながらそう呟くと教室に向かって歩き出した。
そうして今、放課後になろうとしている。
彼の言った放課後に……。
『他の話は放課後、屋上で』
佐々川君と窪谷さんがいない事を除けば、ほぼいつも通りだった。
二人がいない事を気に止める者はいない、更にはここに通うほとんどの生徒が寮住まいで、親も気付く機会がないのだ。
放課後が来れば、彼が先に行って、クラスメイトがいなくなった頃に彼から電話が来る。
そして私は彼の元に向かう、いつも通りだ。
違うのは、夜観之君も残っている事と、彼が犯罪者になった事……。
私が電話を切って立ち上がると、夜観之君はそれを合図に立ち上がった。
そして先に教室の扉まで向かい、立ち尽している私を振り返る。
「のろ子、行くぞ」
そう声をかけられ私は頷いた。
どうしてこんなに違うんだろう、二日前まで彼の元に早く行きたくて仕方なかったのに、
今は一歩一歩が重くて辛い。
屋上に着けば、彼はやっぱり空を見上げていて、
だけどその表情は見ているというより放心しているようで、
そしてまた、人の気配を感じればいつもの彼に戻って私達を振り返る。
そう、彼は彼のまま、仕草も姿も全てが変われば良かったのに、どうしてそのままなのだろう。
私は彼を眺めながらそう思った。
「じゃあ、何を話せばいいかな?」
彼は笑顔でそう切り出した。
それに対して夜観之君はその笑顔が癪に障ったように口を歪めた。
「坂滝とババアの関係」
そして夜観之君は怒りの形相でそう言うと、彼も嫌そうに見つめ返した。
「無理、のるは知らない事なんだから、それは母親に聞きなよ。次は」
彼は腕を組むと冷たい表情で答えた。
夜観之君は舌打ちしたが、反論もできない。
私達は彼と同等ではない、毒で脅されてる彼の手駒だ。
「じゃあ、俺達に何の毒を飲ませた」
「教えない、でも解毒は僕にしかできないよ、僕が調合した物だから」
笑顔で答えるとそう言う。
それを聞いた夜観之君は解毒する術がないと思い知ったように苦い顔をした。
「殺害順に意味は?」
「"順番に読めるようにしてる"、ヒントは"僕とのるは同じ"」
彼はそれも笑顔で答えると今度は私の方を見た。
首を傾げて微笑むその様子は、まるで質問はないの?っと聞かれているような気がした。
「律君は、私達に何をさせたいの……?」
だから私は質問をした。
だけど彼はいつものようにキョトンとして、忘れたの?っと私に聞いてきた。
「僕言ったよね?のるは先生に"僕が殺した"って伝えるだけだって」
そう笑顔で答える彼に私は更に問い掛けた。
「違う!その意味と、"夜観之君に何をさせているのか"って……」
それを聞いた夜観之君が肩を震えわせると私を振り返り、
そんな夜観之君を嘲笑うように彼はクククと喉を鳴らすような笑い方をした。
「意味は彼に聞いてもらうとして、彼がしている事は教えてあげる」
途端夜観之君の顔が強張ったのが判った。
「彼に調達してもらってるんだよ、凶器をね」
私は目を見開き、ゆっくり夜観之君を振り返ると、苦しそうな表情を浮かべている。
同じ境遇でありながら、私と真逆の事をさせられていると、この時知った。
昨日の怪しげな会話も……。
「酷い……無理に犯罪に、加担させるなんてっ」
私はそう涙目になりながらも涙を流さないよう、彼に言った。
「酷い?彼の母親に僕がされた事を思えば軽すぎるよ」
彼は今までの笑顔が嘘のように冷たく言い放った。
夜観之君は何も言わず顔を背けるだけだった。
去り際に私に軽い口付けをして彼は先に行ってしまった。
抵抗できないのは恐怖を感じているから、
でもそればかりではなく、時折見せる優しさや何かに支配されたような彼が気になって仕方ないからだ。
どうかしていると思うが、私には謎が多すぎてどう心を整理していいかわからなかった。
そして本当なら、彼が再び牙を向くのを阻止する為に近くにいるべきなのだろう、
だけど夜観之君が悔しそうに俯いたままで、とても置いてはいけなかった。
「夜観之君……」
私が小さく声をかけると項垂れたまま私の方を見た。
「……俺最低だろ?沢山の命より自分一人の命が大事なんだ」
そう苦しく微笑みながら夜観之君は言う。
そして私が口を開くより先にまた声をあげた。
「でもなっあんなババアの為に、死ぬなんてごめんだ、嫌なんだ!」
私は言葉を失った。
苦しく笑っている夜観之君の叫びを、ただ見ている事しかできずにいた。
痛い程気持ちが判るからだろうか、こんな風に脅されて犯罪に加担させられて……。
確かに大多数の命の為に自己を犠牲にする事は、素敵な事なのかもしれない、
だけど、私達はまだ高校二年生で、私がこの世に未練があるように、
死ぬのは嫌だと言った夜観之君もいっぱい未練があるはずだ。
自分の命を天秤に掛けられている私達に、文句を言っていい人など居ていいはずが無い。
「最初は同情しただけなんだ、あいつが、それで気が済むならって……」
そう頭を抱えると、夜観之君は口を閉ざした。
最後の言葉の意味を理解する事はできなかったが、
これ以上夜観之君を苦しめたくなくて、開きかけた口を閉じた。
あの出来事が起ってから初めてのバイトは、店長や他のバイトの人に心配されてしまった。
心配される原因の話は誰にもできない、普段通りに生活するなんて難しすぎる。
私は謝るばかりで、余計周りに気を使わせてしまったように感じた。
「坂滝さんももう上がりでしょ?途中まで一緒に帰らない?」
バイトを終えて着替えていると、一番仲の良い女子大生の近衛 睦月さんが私に声をかけてくれた。
きっと私の事を心配したのだろう、頷きながらも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
夜道をトボトボと二人で歩きながら、睦月さんは私に言った。
「彼氏と喧嘩でもしたの?」
私は俯きながら、違いますと答えるしかなかった。
喧嘩だったらどんなに良かっただろう、
私が一方的に怒っているような、そんな喧嘩しかした事はなかったけど、
謝って元通りになるなら、私はいくらだって彼に謝るのに、そんな事はありえないのだ。
涙が滲んできて、それを指で拭う。
それを睦月さんは見逃さなくて、私の頭を撫でた。
睦月さんが優しく宥めてくれるから、私は思わずまた泣いてしまった。
「律く……彼が、判らなくなっちゃった……」
私はそうもらした。
彼は優しい人だって、それで判っているつもりだった。
だけど本当に優しい人は人を殺せるだろうか、
誰かの為だとしてもそれは優しさだろうか、
私には難しすぎて判らない問題だ。
だけど睦月さんの回答は意外なものだった。
「彼氏といえど他人だもの、判らないのは仕方ないんじゃない?」
簡単な答えだったけど、酷くその言葉が身に染みた。
考え方は一人一人違う、そう、善悪の基準すらも……。
だから彼のやる事全てを理解できないと、彼の犯行動機を……この殺人ゲームを始めた理由を考えてこなかったんだ。
私は彼に向き合う事を恐れるばかりで、他人に全てを押し付けようとしていたのかもしれない。
伝えれば救われると思っていた自分は愚かで、それに気付いた瞬間、罪の狭間で苦しんでいる夜観之君に申し訳なかった。
睦月さんと別れて、あの日と同じ街灯の明かりに照らされた夜道、そして『立ち入り禁止』と書かれた看板。
私は迷いなくそこへまた足を踏み入れた。
路地裏へ進み、あの半壊した建物が見えてくる。
よく見てみればそれは一軒家で、擦れて読めないけど表札もちゃんとある。
ただ、金網は破られているが、中には入れないようになっていたようだった。
圧し折られているけど、看板には彼の父親が経営する病院の所有地になっている事もわかった。
だけどそこに書かれた文字は擦れていて、大分時間が経っている事は確実だ。
導かれるように私は中に入ると、躊躇もなくガレージに行き、彼が佐々川君の遺体を放りこんだ物置を開けた。
中はかすかにひんやりとしていて、まるで天然の冷蔵庫のようだった。
そして暗がりの中でも目をこらせば、袋は一つ増えている事がわかる。
それは開けてみれば中には冷たくなった窪谷さんがいた。
出血はしていないけど、首には絞められた痕がくっきりと残っていた。
そして佐々川君と同じ、死に行く前にその目で彼を呪っていたかのように、目は開ききっていた。
「窪谷さん……ごめんなさい」
私は謝ると、窪谷さんの瞼を閉じた。
彼にばれないように、再び窪谷さんを物置の中にそっと戻し、造花を二輪、鞄から出した。
いつこの牢獄から出してあげられるかわからない、だから、枯れない花にしたかった。
それを添えて、私は物置の扉を閉めた。
ガレージをでて、他の部屋を覗く為に、廊下がミシミシと音を立てるのも構わず進んだ。
最初に見えた扉を覗くと、赤ん坊の為のおもちゃで溢れた部屋、
どれも埃を被り、壊れたり、朽ちてしまったりしていた。
ドア近くに備え付けられたベビーベットも、ボロボロだ。
ローマ字で彫られていたように見える名前も、所々が抉れていて判らなかった。
部屋の中へと入っていけば、隅には彼が膝を抱えて座りこんでいた。
膝に顔を埋めていて表情は見えないが、小刻みに震えている。
明らかに様子が可笑しい、それが放ってはおけなくて、私は声をかけた。
「律君……?」
今まで私に気付かなかったのか、彼は顔をバッと上げ、両手を床につけると更に壁に寄った。
月明かりに照らされている所為なのか、顔色が悪い。
更に涙を流している所為か、とても昼間の彼を連想できないほど弱々しかった。
「……何しに来たの」
彼はできる限り強い口調でそう言うと涙を拭った。
私を直視しようとせず、まるで強がるように唇をきつく結ぶ。
「律君こそ、まさか今日も……?」
「毎日一人ずつ消息を絶ったら、さすがに怪しまれるでしょ……」
彼は力無く答えると組んだ腕に更に力を込めた。
強がっていながら弱々しい、その印象は昼間の彼とはまるで別人だった。
「どうして殺すの?殺人ゲームは何の為にやってるの?」
私は少しだけ彼に近付くと屋上ではできなかった質問をした。
あの時は仮に思い立っても、恐怖で聞く事はできなかっただろう。
だけど今の彼にはまるで恐怖を感じない、むしろ哀れみすら感じる。
「……僕は、あの日から、壊れた……それだけだ」
彼はそう虚ろな目で答えた。
これだけでは根本的な理由に結びつかない気がした。
だけど聞き返しても同じ答えしか返ってこない、それだけはわかった。
「あの日って、佐々川君を殺した日?」
私は更に彼に近付くと、そう聞いた。
彼は力無く首を横に振り、顔を膝に埋める。
そしてカタカタと震えていた。
「……違う、もっと前……夏休みの、あの日……」
彼が夜遅く雨まで降っているのに、全身ずぶぬれでやってきたあの日。
すごく取り乱していて、様子の可笑しかった……。
私はあの時彼に言われた台詞を思い出して、青ざめてしまった。
『のる……一緒に……どこか遠くに行こう』
あれは、こういう事になるのを、彼が判っていたからなのではないだろうか、
それを私が、ダメにしてしまったのではないだろうか、
そこまで考えが及ぶと私は無意味な涙を流さずにはいられなかった。
「何で泣くの?……あの程度の事で不安定になった僕が悪いのに」
私は何も言えず彼を抱き締めると、
そんな涙の止まらない私の背中を優しく撫でてくれた。
「あの日、のるに会って少し落ち着いた、それは本当……」
慰めるように彼は言った。
しかしすぐ苦しそうな顔をすると、やはりよくない話が続くのだ。
「だけど、一度不安定になったら、壊れるの、早かった……」
彼は何かに謝るように、そう呟いた。
壊れる……壊れる……と、まるで人形のような言い方を何度も……。
「のるを巻き込むつもりは、なかったんだ……ごめん……」
そう謝ると彼はあの日と同じように、強く抱き締め返した。
「律君、もうやめて、……自首、して」
縋るように私は言った。
だけど彼は首を縦には振らなかった。
これ以上罪を重ねて欲しくはないのに、彼は理解してくれない。
それだけでも私は、涙が溢れて止まらなかった。
「あいつらの……あの証拠が消えてしまう、それだけは絶対に……」
彼はそう絞りだすように言うと私を引き剥がした。
私は謎かけのような、この言葉の意味がまるで理解できなかった。
泣いて訴える私を見ないように、彼は視線を外したままだ。
「ここで起きた事件の真相、僕の事、そして君の父親の事、全部調べて……」
そうすれば、僕は……ここまで彼は呟くとグッタリと壁に寄りかかった。
顔色が悪いのは具合が悪かったからなのかもしれない、
だけど私は、自首を受け入れてくれなかった彼に耐え兼ねて、その場を後にした。
彼はグッタリとしたまま私を眺めていたが、引き止める事はなかった。
「もしかしたら、十七年前のあの日から僕は……」
彼の言葉は、壊れた屋根の隙間から覗く月に吸い込まれるように消えた。
...2008.04.14