魔法使いの法則

一話:旅立ち/2

 それは数時間前、朝礼の時間に遡る。
「席につけー、出席取るぞ」
毎日の事で聞き慣れているはずの担任の声、だが慣れる事はなくとても不快な声が教室に響く。 もしかすると遥がこの世で一番嫌いな声かもしれない。 遥はその姿を見初めるなり顔を顰めた。
 担任の『伊織 駿』は特に何もなかったかのように教卓に立つと、 いつも通り出席番号と名前を呼び上げる。 しかし幼馴染の名前を呼ぶと、流れはそこで止まった。
「淳 麗羅!……遥、麗羅は今日休みか?」
その言葉にクラスメイトが一斉に遥に注目する。 瞬間的に遥は顔を顰めてしまい、すぐ止めたものの何人かは目撃してしまっただろう。 しかし、遥がこの担任駿を嫌いなのは周知の事実。 クラスメイトの大半は「またか」と、クスクス笑っている。
「一緒に登校しましたから居るはずですが」
遥はそう答えるとすぐに顔を伏せる。 それでは何も解決してないという風に駿は頬をポリポリと掻く。
「じゃあ何で返事しないんだ?」
「知りません」
これ以上関わるなという風に遥は窓の外に視線を移した。 クラスメイトもここまでくるとさすがに笑えない。 まるで駿に同情するように数名苦笑しているだけだった。
 だが場の空気が悪くなっても誰も遥を攻める事はしない。 ただ誰かが話題をかえるのを待っているだけだ。 すると、一人の生徒が何かに気付いて声をあげた。
「先生ー!麗羅寝てます!」
「な!まだ朝礼だぞ!?」
幼馴染のお陰か教室に流れる空気が一瞬で晴れやかなものに変わった。 普段の遥はクラスの和を乱す事はない、しかし駿がいるどうしても空気を濁らせてしまう。 それを和ませるのはいつも幼馴染の麗羅だった。
 遥はそれを悪いとは思っていたが、どうしても堪えられない理由がある。 それを幼馴染は理解している。 もちろんクラスメイト達も、だから何も言わずにみんなで協力しているのだ。
 駿は堂々と机に突っ伏して寝ている麗羅を見下ろす。 遥とは対照的に制服の着こなしはだらしなく、ボタンはしめず下に着るノースリーブの紫が大きく陣取っている。 閉じられた瞼はベージュ髪に隠されてよく見えず、左目下にある泣き黒子だけか見えていた。
 駿はスゥッと大きく息を吸うと、麗羅の後頭部を出席簿の角で叩いた。
「痛ァーッ!!」
麗羅は一度飛び起き頭を抱えると、再び机に突っ伏して声にならない声をあげ、 それを見たクラスメイト達からは笑い声が溢れている。 駿はというと、麗羅を軽く無視し教卓へ向かいながら出席確認を再開した。。
 出席をとり終えると駿は教卓に出席簿を置くと、少し前へ乗り出すようにして生徒達全体を見回した。
「今日は潜在能力の検査がある」
「(そんな事知っていますよ)」
遥はそう思ったが、教室がザワザワと騒がしく何も言わなかった。 この国に住む限り一番ストレスのかかるイベントだからだろう。 駿が説明もそこそこに教室を離れると、教室は更に騒がしさを増した。
 ただ遥は少し疑問があった。 天使は法力を持つ事はあっても魔力を持つ事はない、 逆に人間も魔力を持つ事はあっても法力を持つ事はないのだ。 魔力を持たないのなら天使はこの検査を受ける意味がない。
 そしてわかった事は、 この検査は元々は学生達の卒業後に仕事を割り振る為の物だったらしい。 皆が協力し生きる術を確保し生きる知恵を学び護る、この国らしい理由だった。
 ただ具体的に何年前かは判らないが、ある時からそれは『悪魔』が覚醒する前に見つける方法へと姿を変え、 表向きの理由が影を落したようだ。
 長い年月の末、羽を失った天使が多く、見た目には違いはない。 しかし、こういう所で種族の違いを見せ付けられる。
「イヤだな〜……俺魔法使いだったらどうしよう・・・」
怯える者、強がる者、人間である生徒は普段と違い少し表情が強張っていた。
「お前みたいなバカで音感ゼロの奴が魔法使いなわけねーだろ!」
それを察してか天使である生徒が肩を強引に抱き笑った。 「ヒデェ!」と言いながらもその言葉に少し人間側の生徒も表情が明るくなったようだ。
 魔法は魔力と音の組合せで成り立っている。 楽器を奏でる事で魔法を行使する『演奏家』、 歌を紡ぐ事で魔法を行使する『歌い手』、 それらが魔法使いと呼ばれる。
 大多数は前者の演奏家で、歌い手は団体の中に一人いるかどうか。 理由は歌い手一人では本来の力を発揮できず、演奏家をつける事が普通だからだ。
 そして魔法使いにとって音を正しく運ぶ為に大切な存在『舞士』。 舞士は魔法使いではなく、魔法使いと共に武器を手に戦う者の事を総称してそう呼ばれる。 魔力を持たなくとも、魔法使いの生み出す音と共闘う事で魔法を織り交ぜた術が行使できる。 その為魔法使いを三種類と誤解している者も少なくない。
 どれも音感がなくては意味がない、魔力だけではどうしようもない。 大体外には魔法国家がある、グランスに居る数少ない魔力所持者だけを捕まえて何になる。
「(グランスの数少ない人間の中に『悪魔』がいる?……まさか……だけど)」
遥は疑問を感じずにはいられず、だけど答えがでるはずもなく気持ち悪かった。
 その時、よほど表情が強張っていたのか不意に生徒の一人が後ろから抱き付く。 遥は急なことに目を丸くした。
「何だ何だ?どうした遥〜?」
「へ?別に何でもないですよ」
そう遥が笑顔で答えるとその生徒はそうか?っと言い遥を解放した。 遥は心臓を抑え軽く深呼吸をする、心臓に悪かったようだ。
 だがその動悸がおさまる前に再び心臓に悪い展開が待っていた。
「でもお前は気をつけた方がいいかもな」
不意にそう言われ遥を含め教室中がシンと静まり返る。
「はい?」
遥は首を傾げ苦笑いしながら答えた。
「お前の母さんって悪魔の条件からは外れてたけど魔力所持者なんだろ?」
「まあ一応……母は、身体が弱かったので、話しか聞いた事ないんですけど」
微笑んではいるものの急な母親の話題に遥は思わず眉尻を下げ、声のトーンも暗くなる。 再び教室中が静まり返り、その問いをふった生徒は他の生徒に小突かれた。
 小突かれた生徒は話題を変えようとあれこれ考えている。 遥は気を遣わせているのは心苦しかったがその様子は面白いと感じた。
「そ、それにさ!お前運動神経は悪くないじゃん?体育の成績は悪いけど!」
「まあ悪くもなりますよね、よくサボりますから」
「おおい!」
さっき小突いていた生徒が今度は筒状にしたノートで遥にツッコミを入れた。 『パコンッ!』と音と共に再びクラス中が笑い声で溢れる。 遥は頭を抑えながら、一緒になって笑う。
 だが体育をサボる理由にも母を思い出す原因は紛れている。 ただそれは遥と当人しか知らない。 だからこれ以上場の空気を悪くしない為に、遥が一役演じたのだった。
 しばらくするとまた次々と話題があがりはじめ、 今まで他のグループで話してた者や幼馴染まで話に紛れ込む。
「ってゆーか、遥は声綺麗だしな、歌い手って感じだよな」
麗羅が他の生徒の話を割って入り不意にそんな事を口走る。 辺りが一時沈黙すると、先程とは違いクラス中大爆笑だ。
「おいおい歌い手一人じゃまるで役に立たないっていうぜ!」
「そうそう捕まえるだけ無駄無駄!」
遥はまるで自分がネタにされてるように感じ「あははは……」と苦笑するが、 仮に自分に魔力があったとしても"『悪魔』なんて怖いものではない" という意味がこめられている事に気付き、その優しさに遥は思わず照れ笑いをした。
 だが遥は決して魔力が欲しくないわけではない。 ただこの国に居る限りあったら困るだけなのだ。 更に自分が捕まれば、この優しいクラスメイト達を悲しませる事になるかもしれない。 それは避けたい。 だけどそれでも……、魔力を欲しいと思う自分も確かに存在していた。
「遥?」
遥は聞き覚えのある声を聞き我に返る。 どのくらい考え事をしていたのだろうか、 見上げるように声の方向を向くと麗羅ともう一人の幼馴染、『蘭 茜』がいた。
 彼女は遥の様子を変に思ったのか顔を覗き込む。
「大丈夫?気分でも悪いの?」
肩くらいまである水色の髪が彼女の肩をサラサラと零れ落ちる。 茜の顔が間近にしかも自分を見ている、その状況に遥は顔を赤く染めた。
「……だ、大丈夫です」
遥は顔を伏せ立ち上がる。 そして初めて教室に自分と茜と麗羅しか残っていない事に気付いた。
「あれ?……もしかして、もう移動してるんですか?」
どうやら遥がボケッと考え事をしているうちに駿が戻ってきて各々移動したようだった。
 そこまで理解すると遥は思わず脱力する。 下手をすると声をかけられたにも関わらずボケッとしていたのかもしれない。
「私達は遥がいないから呼びに来たんだよ」
「あんまボケボケすんな遥」
麗羅は遥の頭を『パコッ』と小突くと、麗羅と茜は先に歩き出した。
「あ、待ってください!」
遥は二人を追って足早に教室を後にした。

 この学校は学年毎に建物が異なっている。 その為廊下を抜ければすぐ出口だ。
 広いキャンパスの中央には噴水、二年生の校舎の向かい側には一年生の校舎、 そして右手には三年生の校舎があった。
 ただ遥はこの広さがあまり好きじゃなかった。 自分をちっぽけな存在だと感じるのが嫌だからだ。
「(本当……無駄に広い学校……)」
遥は3年生の校舎を見上げながら心の中で呟いた。
 しかし、この検査を無事に終えれば来年には三年生の校舎にいる。 その後の進路は、大人達が能力に合わせて勝手に決める。 だから自分は何をしたいとか考えない、 こんな広さなくとも遥が自分をちっぽけに感じるには十分過ぎる状況だ。 遥は何となく溜息を付いた。
 古き時代からそこに存在する『天の塔』の前に二学年の担当の教師、そして生徒全員が集まっている。 駿は遥達の姿を見つけるとこちらに駆け寄ってきた。
「遥!遅いぞ、一体何をやっていたんだ」
遥は自分の失態を呪った。 できうる限りこの男と話をしたくない、 この男と会話していると自分の心の狭さや汚さを感じて、惨めで不安定になる。
「少し考え事をしていました。申し訳ありませんでした」
今自分はどんな顔をしているだろう。 表面上は申し訳無さを装って、心無い謝罪をする自分に遥は吐気がした。
 だが周りの教師達は学年首席である遥の態度を関心して見ているだけだ。 中には"さすが伊織先生の教え子だ"などと言う者までいる。 今時まともに謝罪する生徒はいないからなのだろう。
「(間違いを犯したのに関心されるなんて……バカみたいだ)」
遥は叱られなかった事ですごく居心地が悪かった。
 だが遥の気持ちなど露知らず、隣のクラスの生徒の一部の生徒が意地悪い顔で遥を見ている。
「おいおい遥ちゃん、良い子ちゃんが遅刻なんかすんなよ」
遥はクラスの最後尾に向かう道すがら言葉を投げかけてきた方を見下ろした。 遥が何かする度、学年次席である千夏 継の取り巻き達が茶々を入れてくる。
「(気持ち悪い……)」
思わず口を抑えた。 吐きそうなのかただの悪寒なのか、胸がムカムカとして遥は気持ちが悪かった。 それを見た麗羅と茜は少し歩調を遅らせる。
「大丈夫?」
「大丈夫です……」
そう言って微笑むが足取りはフラフラとしている、それを見ていられず麗羅は肩を貸した。
「あんま無理すんな」
だが遥が気分を害していようが取巻き達はお構いなしに騒ぎ立てる。 その事態に教師達もそのクラスの素行の悪さを嫌そうに見ていた。
 そして丁度真横を通る時、取巻きの一人が遥の腕を不意に取った。
「何とか言えよ遥ちゃんよぉ!」
今まで黙っていた遥もさすがに腹を立て振り払い、 冷たい視線を彼らに落とす。
「貴方達に語るような事はありません。精々"次席さんを"よいしょしてください……」
あえて次席を強調するように見下すように言い放つ。 そして「もう大丈夫です」と麗羅にお礼を言って一人で歩きだした。 それを聞いた継は悔しそうに唇を噛んだ。 取巻き達は怒り狂ったが、 教師達は遥の声が聞こえず「いい加減静かにしないか!」とその生徒達を抑えこんだ。
「(本当……嫌になる……)」
遥は再び口を抑えた。
 何かを侮辱したり中傷するなど本当ならしたくない。 だけど遥はそれを受け流したり、許したりという事ができなかった。
 それに継と何かやり取りをした後は自分の方が成績が良いと、 そんな事ばかりを強調して、まるで自分に慢心しているみたいで遥は気分が悪くて仕方なかった。
 よほど遥が酷い顔をしているのか、茜はすぐ横を歩く遥の腕をグイッと引っ張る。 体勢を崩して遥は目を丸くしたが、茜はそんな事は気にせず近くに来た遥に小さく耳打ちする。
「あんな言葉、気にしないでね」
茜はそう言うと腕を放しニッコリと笑う。 遥は瞬きをし首を傾げるが、意味を理解して困ったように微笑み返した。

 検査説明は思ったより時間がかかった。 単純な事のはずなのだが教師達が何故か慎重に説明していたからだろう。 しかも遥や茜は出席番号が後ろの方で、更に時間を持て余す事になりそうだ。
「じゃ!俺様の美声を聞かせに行ってくらー!」
二人と違い出席番号が割と若い麗羅はそう言うと走って行ってしまった。
 遥と茜はそんな麗羅を見送ると近くにあったベンチに座り順番を待つ。 検査が終った生徒達は次々に帰宅していく、 それを眺めながら遥は頬杖をついた。
「(暇ですねー……)」
今日は授業がないからと手ぶらだった遥は何もする事がない。 当然隣に座っている茜もだろう。 だが茜はただ黙って時間を潰す事はできないと、遥はそう思った。
 そして彼の読みどおり、茜は痺れを切らして「遥!」と声をかける。
「何ですか?」
遥は振り向かずボケッとしながら返事をした。 こんな様子の自分に茜が困った顔で言葉を探す、それは遥の予測の範囲内だ。 呼んでみただけと言えば会話は途切れる以上、茜はそれを口にはできない。
「(何て返してくるかな)」
遥は内心クスクスと笑いながら意地悪く茜の返事を待った。
 そんな事とは露知らず、考えを巡らせていた茜は何かを思いついたように作り笑顔で答える。
「魔力、ないといいね!」
「(そうきましたか……)」
遥は茜の作り笑顔を眺めながら一瞬思考を巡らせる。 そして何か名案を思いついたというように、意地悪く笑った。
「僕は欲しいですけどね」
「え!?」
茜は思ってもみない返事に大声をあげた。 遥は正面に視線を戻すと、「冗談です」とクスクス笑う。 そんな遥の態度に茜はムゥッと頬を膨らませた。
 遥が再び茜に視線を戻すとハムスターが頬袋いっぱいにひまわりの種をつめたような顔をしている。 それが面白くて遥は思わず腹を抱えて笑い出した。
「ッそんな顔してると、可愛い顔が台無しですよ?」
そう苦しそうに言うと遥は茜の膨れた頬を突付く。 はたから見たらバカップルのようにうつりそうだが、二人にとってこれが普通だった。
 茜は更に頭にきたのかいっそうブスゥッと不満そうな顔をする。
「遥みたいな女顔に言われたら私って見るに見れない顔みたいじゃない!」
「……膨れた顔は……ッ」
遥は途中で言葉を切った。 込み上げてきた笑い声を堪える為だ、その所為かカタカタと震えている。 そしてまだ落ち着かないうちに一気に言った。
「……見れない顔だと思いますよ?」
「何よぉ!」
茜は顔を真赤にして怒り出し、ポカポカと笑いつづける遥を叩いた。 だけどこんなに怒ったりする彼女も遥は可愛いと感じている。 自分は彼女と違って陰険だと思っているから、遥は素直な彼女が羨ましかったのかもしれない。
 ようやく落ち着いた遥は再び頬杖を付くと普段通りの微笑みを浮かべた。
「それにしても、女顔って酷くないですか?これでも男なんですよ?」
しかし茜はムスッとしたままそっぽを向く。
「遥こそ!女の子に見れない顔って酷いんじゃない?」
遥は首を傾げ茜を見つめている、まるで茜のご機嫌を伺っているようだ。 そうしていると茜もチラッと遥を見た。
「普通にしていた方がもっと可愛いですよ?って意味なんですけどね」
遥は満面の笑顔で言った。
 茜はその言葉に頬を染める。 彼女すぐ振り返るがまだ少し不満そうに眉を歪めていた。
「そっちこそ、普通にしてた方がもっとかっこいいよ?って意味なのにね」
茜の顔を覗き込んだまま遥は少し驚いた。 あまり言われ慣れない言葉だったからだ。 まだ機嫌が完全に直らない茜はプイッとまたそっぽを向くが、押し殺したような笑い声に再び遥を見る。 そして遥の笑い声に釣られて茜も一緒になって笑い出した。
 しばらくして落ち着いてくると何かを思い出し遥は話をかえた。
「麗羅は大丈夫でしょうか……」
真剣な表情でそう呟く遥を見て茜は首を傾げる。
「私は遥の方が心配だけど?」
「何がですか?」
遥は不思議に思いそう聞き返す、 しかし茜の表情が暗いものにかわり「なんとなく」とかではないのだとそう思った。
 茜は何がどうとは言えず、ただ不安に思う胸の内を伝えようと遥の手を取った。
「今はこんなに近くにいて、こんな風に手も握れるのに……」
途中で言葉を止めた茜を不思議に思い「ん?」と、遥は首を傾げた。
 何を言わんとしているのか、遥は気になりはするが強制するような事はせず、茜が言葉を紡ぐのを見守る。 すると茜は意を決したように握った手に力を込めて呟いた。
「なんか、遥って遠くにいるみたいなんだ」
遥は返事はせずただ聞いていた。 驚いたというべきなのか、そんな自覚はないけど妙に説得力があるというか、複雑な気持ちだった。
 遥の気持ちとは裏腹に返事をしない事で茜は不安を募らせる。
「遥……もしかして本当に魔力が……」
「遥!そろそろ入れ」
しかし茜の思いも虚しく言葉を遮るように駿の声が響いた。 遥は一瞬顔を顰めたが、軽く首を振ると握った手はそのまま立ち上がる。
「わかりました。……じゃあ、僕行きますね?」
ニコッと微笑むと茜の返事を待たずに握っていた手を放した。
 背を向けた遥を思わず追いかけるように茜は立ち上がるが、すぐ我に返り再びベンチに腰をおろす。 だが茜の不安はより一層深くなったようだ。 でも遥にはこれ以上何もできなかった。
 呼ばれた方向へ向かって行くと駿と目が合う。 何かを心配する顔、何かを申し訳なく思う顔、何かを歯痒く感じている顔、色々な気持ちを混ぜたような表情をしている。 それを見た遥は自分の表情が険しくなるのを感じた。
 遥は無表情でその横を通り過ぎようとする。
「遥……」
しかしそう呼び止められては止まらざる得ない、遥は思わず歯をきしませた。
「なんですか」
遥はイライラしながらそう返した。
 この男を見ると母の事を思い出してイライラするのだ。 みんなが寝静まった頃に何かを話す為に母さんの元を訪れていたのを遥は知っている。 何度かこっそりと遠巻きに見ていた事もある。 小声で話しているから会話までは聞き取れなかったが、決まって母は泣いていた。
 この男が帰っても、何かが悲しくて母の涙は止まらない。 色々な知らない名前を呼びながら泣いていた。
 だけど次の日、何事もなかったかのように母は笑うのだ。 心配をかけないように、無理をしているように遥の目にはうつった。
 だからこれ以上、憎しみが増えるような事を遥は止めて欲しかった。 もう自分に関わらないで欲しかった。
 だが母が死んで駿への憎しみが増しているのに、駿は遥に関わりつづけている。
「その、気をつけろよ……」
「はあ?」
遥は表情を険しくして聞き返した。
「……いや、気にするな」
だけど駿はそう呟くとその場を後にした。 意味のわからない行動に遥は拳を握る。
「(何を気をつけろと言うんですか……)」
検査は魔力を持っていれば必ず発動するようにできているはずだ。 気をつけようがない。 そもそも何故自分がそんな事を言われなければならないのか、 そう考えると遥はますますイライラした。
「(あんな人に心配されるなんて……!)」
だがこんな所で当り散らすわけにはいかない。 遥は怒りを必死に堪え、塔の中へ入って行った。

...2008.10.13/修正02