Genocide

 十一月十七日木曜日。 記憶喪失と診断されても外傷のなかった私は、母が止めるのを押し切って学校へ向かった。
 私にとっての学校は決して楽しい所ではなかったけど、それでも彼に会いたかった。 それに昨日はもう夜も遅く、彼と七瀬君は診断結果を聞かないで帰っていた。 だから助けてもらった御礼を改めて言いたいと思った。
 残った記憶の中では公園の辺りで彼に会う。 だけど今日はいない。 たまたま運が悪かったのか、彼が時間を変えたのか、それとも……。 自分が失った記憶の中にその理由のわかる事があるのではと、私は少し心配になった。
 学校への道のりを私は駆けていく。 余裕を持って行動しているのにこれでは学校で暇をする事になってしまうかもしれない。 でも彼が学校に居るような予感がして、ない記憶の不安を早く打ち消したくて、私は急いだ。
 肩で息をしながら学校の門をくぐる。 職員室の電気はついているが他の教室は誰もいないのか明りがついてない。
「律君、まだ来てないのかな……」
 私はガッカリして俯いた。
 彼は真面目だからいつもこんな早い時間に学校に向かうのかと思っていた。 だけど本当は私に合わせてただけなのかもしれない。 今こうして彼がいないのは、この記憶のない期間の間に私達は別れていたりしたからなのでは……。
 しかし自分の覚えていない事をあれこれ考えていても仕方がない。 だから私は首を横に振り自分の顔を軽くパンパンと叩き、教室へ向かった。
 二年の教室がある廊下まで辿り付くと、誰かが話している声が聞こえてきた。
「(……七瀬君?)」
 私は聞き覚えのある声に首を傾げた。 誰もいないと思ってた教室に七瀬君がいる、そして誰かと話してる。 普通なら気にならない事なのに何故かすごく気になった。
 ゆっくり忍び足で教室へ向かうと、声は鮮明に聞こえてくる。 どうやらすごく真剣な話をしているようだけど、 七瀬君が一方的に話しているだけで相手まではわからない。
「全部忘れてるなら……全部なかった事にしちゃえよ」
 教室を覗く事もできず私はただ扉の前に立って聞いていた。 盗み聞きなんて趣味が悪いって言われそうだけど、何だか自分に関係のある事な気がした。
「なんでっ?隠した奴の見当は付いてる……俺が上手くやれば……」
 もしかしたら七瀬君は携帯で話しているのだろうか、そう思ってしまうくらい相手は喋ろうとしない。 だけど聞こえてくる音は七瀬君一人とは思えない、やっぱり誰かと話している。
「お前約束したんだろ、それを破った事どころか約束だって、"お前の事"だって覚えてない……」
 七瀬君は一度間を置くと、相手が小さく「……だけど」と声をあげる。 この声は律君だ。
 だけど会話には不自然な点が多すぎて今の私には理解できない。 私が律君を忘れてる……七瀬君ではなく? 何だかすごく頭がズキズキする、大切な人を二人も忘れてる……そんな気分だ。
「……本物がなければ偽りは真実になれる」
 七瀬君はそう言ってこちらに向かってきた。 私は慌てて隣の使われていない教室へ逃げ込む。 七瀬君は教室を一歩でて立ち止まると彼をもう一度見た。
「今はお前が朝霧 律だ」
 この意味は今の私にはまったくわからないけど、だけどすごく苦しい気持ちになった。 何が苦しいのか、何が本物で何が偽りなのかもわからない。

 こうして私は偽りの時間を過ごし始める。

21.偽りの時間

 教室に一人残された彼の元に私は何食わぬ顔で歩み寄る。 会話を聞いていた事を言うべきか悩んだが、今の私には何もわからない。 だから黙っていた。
「おはよ、のる……診断結果はどうだった?」
 彼は少し苦しげに微笑んだ。 七瀬君との会話の所為なのか、昨日の事を気にしているからなのか、 それとも私が聞いていた事に気付いていたからなのか……。 原因はわからない。
「おはよ、あのね……ここ二ヶ月の記憶がないみたい……ごめんね」
 私は記憶障害の程度を話すつもりが思わず謝っていた。 自分でも不思議だったけど恐らく夏休みのあの日の所為だろう。 あんなに苦しそうにしていたのに、彼を支えてあげなきゃいけなかった日々を私は忘れてる。 だから私は申し訳無さを感じているんだと思う、きっとそう……。
「謝らないで、のるは痛い思いをしたんだ……」
 彼はそう言って私を抱きしめた。
 私はその温かさが嬉しくて彼を抱きしめ返す。 だけど何かが違う気がする。 彼に感じていた温かさとはまた違う温かさを感じた。 これが記憶がないと言う事なのだろうか……。

 ここ数ヶ月の記憶を失っている私を千草先生は訝しげにジロジロと眺めていた。 何か言いたげなのはわかるのだが、それが昨日の事なら何を聞かれても答えられるはずがない。
 予想通り、私は放課後呼び出しを受けた。 正直先生と二人にはなりたくなかった、特別記憶はないがそれでも身体が拒絶していた。 呼び出しは職員室ではなく校庭、明らかに可笑しいが従うしかない。 私は一人、先生の待っている校庭へ向かった。
「……坂滝、喜多野をどうした」
 先生は私を見初めると怒りを滲ませた顔で問うた。
 私はわけがわからなかった。 昨日喜多野君となんらかの関わりがあったという事なのだろうか。 そういえば今日喜多野君は学校に来ていなかった、この事実が何か関係しているのだろうか。 でも私には記憶がないのだから答えようがない。
 だけど頭には浮かんでこなくても身体は何かを覚えていた。 頭がズキズキとして、何故かはわからないけど恐怖に慄いている自分がいる。 怖くて仕方なくて自分の身体を抱きしめて、震える身体を押さえ込もうとするけど効果はない。 そして意味もわからない涙がボロボロと流れてきてしまった。
「どうせ記憶喪失も虚言なんだろう!?喜多野に何をした!」
 しかし先生は私の様子はお構いなしにそう罵った。
 その診断は虚言などではないし私は本当にわからないのだから答えられない。 それに頭痛に身体の震え、そして涙の所為で上手く言葉もでてこない。
 先生は痺れを切らすと「来い」と私に命じた。
 すでに恐怖で思考回路が滅茶苦茶だった私はよく考えもせずそれに従っている。 まるで操られているような気分だ。 そして辿り着いたのは駐車場。
「乗れ」
 先生は二言口にすると本人も車に乗り込んだ。
 私は何も答えず身体を抱きしめながら小さく頷いた。 先生が怖い、みんなが知ってるニヶ月間の記憶を呼び起こすのが怖い。 忘れている事に申し訳無さを感じていたはずなのに、記憶に触れると拒絶してしまう。 とにかく今は誰かに助けて欲しいとそう願ってやまなかった。

 車を路上に止め、立ち入り禁止と書かれた注意を無視して路地裏を進む。 この先に何があるのか、本来の私は知っているのかもしれない。 その所為か足元が覚束ない。 だけどよたよたと歩いていたら先生に腕を引っ張られて無理矢理歩かされた。
 着いたのは何かの廃墟だ。 その何かを私は知っていた気がする、だからすごく怖いし嫌だ。
 先生に腕を取ったまま中へ入ろうとしたが、私が立ち止まった為振り返った。
 私はガタガタと振るえていた。 きっと何があったのか知ってる。 知ってるのにわからないからこんなに怖いんだ。
「……やはり記憶喪失など虚言なんだな?やましい事があるから立ち止まるんだろ」
 先生は勝ち誇ったように、蔑んだ表情で私を見ている。 知ってるのにわからない事、その何かをしでかしたのが私だと疑っている目だ。
 私は恐怖で声がでず、とにかく意志だけ伝えようと首を横に振った。 やましい事なんてない、むしろこれは求めていた事のはずだ。 ただ今頃来ても遅いという事だけが心のどこかにあった。
 中に進めば乾ききった大量の出血痕がガレージにあった。 それ以外は何もないが血痕を見つめ先生はますます私を邪見する。
 でも私はそれどころではなかった。 はっきりとしない記憶が私を混乱させる。 これ以上ここにいたくない、同時に思い出したくない何かがここにあるという事だけがわかる。
 けれど先生は許してくれない、私を引きずってでもこの廃墟を見て回ろうとするのだ。
「……いやっ怖ぃ……怖い……っ」
 私は先生の腕を振り払いたくて空いた手で先生の腕を掴み返す。 だけど大人の男と十代の女じゃ力の差は歴然だった。
 先生は私を見下し力任せに二階へ進んだ。 そしてそこにあった部屋にも大量の出血痕が二箇所、だけどこちらもそれ以外はなかった。
「な、い……っない……ない!!」
 部屋を見た私は狂ったように叫んでいた。 何がないのが自分でもわからない。 ただあったものがないと閉ざした記憶が訴えてる。
「虚言を認めたな、で?一体何がないんだ坂滝」
 先生は私を見下しながらほくそ笑むと何がないのか尋ねた。
 私は首を横に振り「わからない」と連呼する。 自分でもわけがわからない。
「わからないなんて言葉は考えてない奴が使う答えだ!認めない!」
 先生は私の肩を掴んで壁に押し付けると、そう答えを迫った。
 私は首を振る、ボロボロと涙を流す、まるで子供だ。 でも"わからない"けど"ない"、今の私には答えはないから……。 しかし私の態度が気に入らない先生は手を大きく振り上げる。 叩かれる、そう思った。
 しかし私に衝撃が来ることはなかった。 掴まれていた肩から先生の手が外れる時に少し痛みが走った程度だ。 私は何が起こったのかわからなかったが、何かに抱き寄せられて願っていた助けが来た事に気付いた。
「何してやがんだテメェ!」
 頭の上で声がする。見上げると七瀬君が先生を威嚇するように睨んでいた。
「……なっ七瀬……何でここにっ」
 先生は口の端を拭うと一歩後退った。
「ッテメェがの……坂滝に何するかわかんねぇから追ってきたんだよ!」
 七瀬君はギリッと歯を軋ませた。
 抱きしめられている所為で七瀬君の心臓の音が聞こえてくる。 すごく早く脈打っていて、必死に探し回ってくれた事がわかる。 何だか感謝してもしきれなかった。 同時に二ヶ月間の七瀬君の事を忘れている私がすごく憎らしい。
「しかしまぁ、ババァの手先がよくもここに現れたな!」
 七瀬君は私を自分の後ろに追いやるとそう言って先生に近付き見下ろした。
 手先とは一体どういう意味だろう。 気になったけど私は二人の会話に割って入る事はできない。
 先生は歯を食いしばり七瀬君を見上げる。
「お前らだろ!?この廃墟に"あったもの"を隠滅したのは!」
 七瀬君は先生の胸倉を掴むと怒りをぶちまけた。
「な、何の話だ……ッ?」
 先生は苦しげに七瀬君の腕を掴んで聞き返すが、 その様子に七瀬君は更に怒りを露にした。
「しらばっくれんな!テメェら以外に誰が遺……っ」
 しかし七瀬君は途中で言葉を詰まらせる。 そして私を見て口を噤んだ。
 私はすぐ聞かれたくない事だというのがわかった。 恐らく私が忘れてしまった事……七瀬君は私の記憶が戻らない方がいいと思っているようだ。
「とにかくっ坂滝にこれ以上手出すな!」
 七瀬君そう言い捨てると私の手を引いて部屋をでた。
「……隠滅……だと?」
 先生は七瀬君の言葉に戸惑いを覚えたようだった。

 七瀬君に手を引かれるまま彼の家にやってきた。
 私は一瞬首を傾げそうになった。 だけど二学期に入ってからよく一緒にいた、だから二人は家に遊びに行くくらい仲が良いのかとそう思った。
 七瀬君は私の手を放すと携帯を取り出した。 誰かに電話をかけている、この家に来たのだからきっと相手は彼だろう、多分。
 しばらくすると誰かがこちらに駆けてくる。 誰だろう……だけど誰だと認識するより先にその人物に抱きしめられた。 律君だ。
「良かった……っ無事で……っ」
 私は人前で抱きしめられて恥かしくて顔を真赤にした。
「お、大袈裟だよ……律君……」
「大袈裟じゃないっ大袈裟なんかじゃ……っう」
 彼が泣いてる。 八月のあの日も泣いていたけど、以前は私に弱みを見せようとしなかった。 いつも微笑んでいてくれた。 それが嬉しくもあり寂しくもあったけど、何だか弱々しくなっていく彼が心配になる。
「だよな、……坂滝、二人分の命背負ってんだから警戒心持った方がいいぞ」
 七瀬君はそう言って笑う。 そして「そんじゃ」と手を軽く振って去っていった。 その後姿が妙に寂しげに感じるのは気のせいなのだろうか……。
「……二人分?」
 私は七瀬君を気にする一方でもう一つの気になった事に首を傾げた。
 疑問を投げかけられた彼は少し申し訳無さそうな顔を浮かべる。
「子供が、いるんだよ、のると……僕の」
 その事実に私はあまり驚かなかった。 最後の消え入りそうな声が何より気になったからかもしれない。 あとは私が元々知っていた事実だったからか……。
 やっと落ち着きを取り戻すと、彼が家まで送ってくれた。 母と玄関で出くわした時は正直ドキッとしたが、 私の無くした二ヶ月の間に母と彼は面識があった事を知って胸を撫で下ろした。 しかし母から彼に夜中一人になる事を心配して一緒に居てもらえないかと提案したのは驚いた。 何よりいつの間にか母公認になっている現状が少し不思議だった。
 彼はそれをすぐ了承したが、明日使うノートや教科書を取りに再び彼の家に行く必要ができた。 何だか手間をかけさせて悪い事をした気分だったけど、 帰りにスーパーに寄って夕飯を二人で考えるのはとても楽しかった。
 だけど時折見せる彼の申し訳無さそうで悲しげな微笑みを、私は見逃す事ができなかった。

 十一月十八日金曜日、家をでるところからずっと彼と一緒というのがすごく不思議で嬉しかった。 だけど戸惑いもあった。 彼は交際を隠していた。 理由は彼がこの地域では神童と有名で私に変な記者がよりつかないようにする為に……。 なのにいつの間に学校で一緒に居れるようになっている。 そうなった経緯がわからないのはちょっと妙な気分だ。
 しかし学校での空気は前より悪くなってるように思う。 何だかよくない視線を感じるのだ。 これも二ヶ月の間にあった出来事の所為なのだろうか。
 ホームルームではこの学校には珍しい程休みが多い事が気になった。 昨日から佐々川君、窪谷さん、星垣さん、原田君、桐島さん、喜多野君の姿がない。 星垣さんと原田君は事件の加害者と被害者である事を聞いていたけど、 他の人達はどうしたのだろう。 それに今日は規皆 良香さんもきていないみたいだ。
「(事件の所為で学校にこれなくなってるのかな……?)」
 私はそう疑問に思った。
 彼もキョロキョロと教室を見回しながら不可解な顔をしている。 やはりこれだけの人数が休んでいる事実が不思議なのだろうか。
 教室にやってきた先生は彼や七瀬君と視線をあわせないようにしていた。 恐らく昨日の事で二人の視線が怖いのだろう。 その影響で私に目もくれなかった。
 規皆さんが休んだ事に先生は何も言わず「またか」と言っているだけだった。 だけど全体の空気がよどんでいるように思う、 そして私へ向けられる複数の妙な視線……私だけじゃない、彼や七瀬君にも。 これは一体何なのだろう、でも今の私にはわかるはずはない。
 そんな状態が昼休みまで続くとさすがに気分も暗くなっていく。 けれど同じ視線を浴びている彼や七瀬君は平然としていて、 逆に原因がわかっているのではと思った。 しかし原因が判っているならこんな不愉快な状況をそのままにしないだろうとも思う。 だから何も言わず彼と屋上へ行く事にした。
「卑怯者……ッ」
 でも教室を出る時そう言われた気がして、驚いて私は教室を振り返る。 誰もこちらは見ていない、だけど確かにか細い声で卑怯者と言われた気がした。 それは記憶を無くしたから? 何か辛い事が二ヶ月の間に起きて、その苦しみを全て忘れたから? わからない、頭がズキズキと痛む、忘れている記憶がより怖くなっていく。
 私は怖くなってその場から逃げ出した。

 十一月十九日土曜日、今日は本来アルバイトの日だ。 だけど学校で事件があって数週間休みを貰っていた事に加え、 復帰したばかりなのに大事を取ってまた休まなければならない。 だから母と相談して……いや、母に押し切られたと言ってもいいかもしれないが、私はアルバイトをやめた。 これ以上迷惑をかけられない。 何より今回を乗り越えてもまた迷惑をかける日が来る、そんな気がしたから……。
「また早く来すぎちゃった……」
 私は学校を見上げながら呟いた。 原因は一人が怖くて彼に会う事ができないかと早足で通学路を進んだからだ。 はっきり言って自業自得だ。 それに一昨日と同じでまた彼に会う事はできなかった。
 少しションボリとしながら教室に向かうと、また話声が聞こえた。 彼と七瀬君だ。
 私はまた隣の空き教室に身を隠した。
「……昨日の、君がやったのか?」
 彼の声が聞こえる、だけど返事がない。 今日は彼が一方的に話しているみたいだ。
「一昨日の提案に乗ったわけじゃない……だけどこういう意味だったのか?」
 聞いていても意味はわからない、それはいつもの事だ。 ただよくない事についての話なのだと、それだけは判る。 だって二人の声は震えているから。
「被るつもりなら僕はそんな事許さないからな……!」
 彼は声を荒げて何かを掴む。 恐らく七瀬君に掴みかかったのだろう。 だけど「被る」とは一体何を……。
「……お前の為じゃない!」
 七瀬君も声を荒げた。 このままでは取っ組み合いの喧嘩になってしまうかもしれない。 そう思って教室へ駆け出しそうになった。
「あいつが笑ってられる状況を作りたいだけだっ」
 しかしそれは杞憂だった。 七瀬君はそう搾り出すように言うと、彼の制しを無視して教室をでていってしまったから。
 私は一人残された彼の元にも、教室をでていった七瀬君の元にも行く事ができなかった。 グルグルと中途半端に得た記憶に関わる情報が頭を支配する。 けれど記憶を呼び起こす事はできず結局元の木阿弥だ。 だって、今の私は恐怖から逃げ出してしまうから……。

...2009.08.30