記憶の花:10.ひまわり

 病室で儚が来るのを待ちながら、僕は彼女に貰った絵を眺めていたが、昨日の事を思い出してぼうっとしていた。そしてまた、返事の有無より先にここに来るだろうかという心配が先行していた。
 しかし昼を過ぎた頃、儚はいつもの調子でここにやってきて、普段通りに絵を手渡してきた。
 僕はそれに流され昨日の事を切り出せず、ただ話の流れに身を任せる。
 しかし今日の花一枚目はわかっている。基本色は赤・黄・白、マーブル模様や斑模様の入っているものばかりで花の大きさはまちまちなラン科の花『オドントグロッサム』だ。これも昨日の天竺葵と同じ、儚が選んで写真を持ってきた。
「……花言葉は『特別の存在』」
 僕は花の名前を読み上げる事はせず花言葉だけ口にした。
「天竺葵と同じだよね、オドントグロッサムも知っていたでしょ?」
 儚はそれを聞いて照れたように、そして嬉しそうに微笑む。
 尊敬と信頼も、特別の存在も、すごく嬉しい言葉なのに、何故か素直に喜べない。彼女の送ったこの言葉通りの存在になりたいと思うのに、心の底に隠れている自分がその言葉を否定している。
「どうかしました?」
 僕の様子が可笑しい事に気付いたのか儚は首を傾げた。
 僕はどう返していいのかわからなくて、「ううん、ちょっと照れくさいだけだよ」とぎこちなく笑う事しかできない。
「次は、僕が選んだ花だったよね」
 思い出話をすると次の花が自然と脳裏に浮かぶ、彼女の絵に頼らなくても全てを思い出せるような状態なのかもしれない。
「思い出せたんですか?じゃあ、これはいらない?」
 儚は手に持つ画用紙を見ながら言う。
「いらなくない、頂戴?」
 僕は首を横に振り、手を伸ばした。
 それだけですぐ笑顔になる儚を可愛いなと思う反面、どうして笑えるんだと戸惑いを感じずにはいられない。表にいる自分と心の底に隠れる自分がまるで別の人物のように考えを変える。
「儚ちゃん……今の僕も、あの頃と同じ?」
 僕はたまらず聞いた。
 絵を差し出してくれた儚はまた首を傾げる。
「やっぱり、どうかしたんじゃないですか?」
 心配そうに顔を曇らせる儚に僕は後ろ髪を撫で「いや、何でもないんだけど……」と返す。その言葉に儚が納得するはずもない。だけど咎める事はなく、微笑んだ。
「何も変わってないですよ、記憶があるかないか、だけです」
 儚は「元気だしてください」と言うと絵を僕に押し付けるように渡した。
 それは僕が、儚に合うと感じて送った花。根本から伸びた枝には沢山の小さい白い花を咲かせる落葉性低木『ゆきやなぎ』。別名は『小米花』。
「儚ちゃんは可愛いなって思って選んだんだ。花言葉は『愛らしさ』だったから」
 当時と同じ言葉を言うと、またあの時のように儚は顔を赤く染めた。いつものように頑なな態度で否定するような事はせず、小さく「ありがとうございます……」と呟いた。
「次はこれ、ですよ!」
 儚は僕の顔面目掛けて絵を押し付けると、下を向いてしまった。耳まで真っ赤になっていて、思わずこちらも照れてしまう。そして何より可愛いと頬が緩む。
 しかしずっと見ていると機嫌を損ねるかもしれない。だから仕方なく絵に視線を戻した。
 画用紙一杯に描かれているのは、いつも太陽を見ている黄色い頭花『ひまわり』。それだけ聞くと別名の『にちりんそう』も納得なのだが、必ずしも太陽に向くとは限らないらしい。
 僕はそれを眺めながら儚のように頬を染めた。これもまた気持ちを込めて選んだ花だからだ。花言葉は『光輝』。
「もう一つは、『私はあなただけを見つめる』」
 口に出して言うとより一層恥ずかしさが増す。夏休みはほぼ毎日彼女を見つめていた。最初は情熱的な花言葉には見合わなかった。だけど、いつしかそれが変わったのだ。
「あの、儚ちゃん、昨日の事なんだけど……」
 僕は遠慮がちに顔を伏せながら声をかけた。今答えないと昨日の事がうやむやになりそうで、返事をしておきたかった。
 『どうして今頃……っ』と呟かせた心の奥の自分は、返事をした所で良い事などないと訴えている。だけど理由など思い出したくはないと、心の目を、耳を塞いだ。
「ごめんなさい……。探し物が終わってないので、帰りますね」
 しかし儚は身体を一瞬震わせ、言い難そうに、そして拒むように立ち上がる。
「探し物って……絵?今行かないとダメなの?」
 珍しく食い下がる自分に戸惑いを感じながら、儚に尋ねる。絵を探すのも結局僕に渡す為で、苦労して探す必要などない、ここに居て欲しい、そうしないと彼女は……。そんな我儘な感情が僕自身のポリシーや生き方を奪っていた。
 儚は悲しそうに顔を歪め、もう一度「ごめんなさい」と口にすると背を向ける。だけど、もう一度こちらを向いた。
「『自分の考えを、何があっても曲げないでくださいね』」
 昨日の言葉を復唱し、彼女は今日も去って行った。
 僕は何も言えなかった。今の自分は彼女が好きでいてくれた自分じゃない、それを痛感したからだ。自分自身これほど我儘な自分がいるなど、知らないまま生きてきた。その自分が、何故表にでてくるようになったのか、それは心の奥の自分が知っている。だからまた、考えるのをやめた。




 どれほど抑えても、心の奥の自分は僕の思い出をドンドン送り出していく。最初は儚との思い出が戻ってきて嬉しかったけど、今は思い出を取り戻すのが怖くてたまらない。怖い理由はわかっている。ただ目の前に掲げられた答案を見ないようにしているだけで、チラチラと視界に映る。それが怖い理由、逃げ出したくて仕方ない理由だ。
 酷い考え事が僕から眠る事を奪い、睡眠不足で体調が悪かった。その体調の悪さを理由に打たれた点滴が痛い。我慢しなければいけないのはわかっているけれど、煩わしくて今すぐ外したいと思う。だけどそのような事をすればまた注意される。それはもっと煩わしいからやめた。
「自分が自分でないみたいだ……」
 僕は思わず呟いた。
 身体を起こし窓の外を見る。青い空、白い雲、いつかの夏空を思わせる風景に安堵した。あの時は、このような想いを抱える事になるなど想像もしていなかった。毎日自分なりの生き方をしていたあの頃は……。
 どれほどそうしていただろう。扉をノックされ、そちらに顔を向ける。すると扉から儚が顔を出して満面の笑顔を見せた。
「明さん、こんにちは」
 僕は何かを我慢するように唇を噛んだ。自分でも気付かないうちに、昨日の事を気にしていたのかもしれない。近頃の自分がわからない。儚の笑顔は普段よりぎこちなかったけれど、それでも僕を気にして普通に振舞おうとしてくれているのが嬉しかった。
「うん、こんにちは……」
 僕もぎこちなく笑顔を作ると、儚は苦笑したが顔が悲しげに歪む。
「明さん、どこか悪いの?」
 儚は点滴を見て言う。それを聞いて僕は少しほっとした。
「たいした事じゃない、ただよく眠れなかっただけ……大袈裟なんだ」
 僕はそう言って笑うと「座らないの?」と椅子を勧めた。
「なら、いいんですけど、明さんに何かあったら私……」
 心配してくれるのが嬉しくて、不謹慎に歪む顔を伏せる。
「僕は無事だよ、だから大丈夫」
 記憶を失ってから初めて会った時のように言うと、儚は軽く頷いて椅子に座った。

 いつもの調子を取り戻すかのように他愛ない話をすると、自分の想像より簡単に普段通り談笑できた。
 儚もいつの間にか普段通りの自然な笑顔をしていて、それが嬉しくて、これ以上心配をかけたくない、ただそう思った。
「八月二十日、覚えてますか?」
 儚は不意に言う。
 僕は少し考え、「うん」と答えた。
「その日は『にちにちそう』だったね?」
 儚は「正解です」と告げ、まるで御褒美と言うように絵を渡した。
 日本で一年草として扱われている夏の花。ややねじれた付き方をする花びら。絵は濃紅色、他に淡紅色と白がある。単色以外にスポットが入ったものなどもあり多彩な花だ。別名は『そのひぐさ』、『ビンカ』。
「もうすぐ夏休みが終わるから、花言葉の『楽しい思い出』だったんだけど……」 
 僕は苦笑した。今ではこれも楽しい思い出だが、当時は「夏休み、終わるのが怖い」と呟きながら俯く儚に困惑した。
 だけどそれ以上に、自分の当時投げかけた言葉に、僕の言葉の浅さを痛感した。
『怖くないよ、一人でどうにもならないなら、周りを頼ればいい』
 当時、彼女は友達もいると言っていた。一人で全てを解決できるなら、確かにそれが一番いいのかもしれない。だけど、誰しもがそうできるわけではないのだ。だから友達を頼ればいいよと、そう心から思ったのだ。
 しかし本当に心からそう思ったのなら、『見てみぬ振りをするのが友達だっていうのか!?』と、声を荒げた自分を否定する事になる。矛盾になる。
『それに大人、先生や両親も頼っていいんだよ』
 当時自分の話したこの言葉も、三日前とは大きく違う。それが儚を悲しませる原因になったのかもしれないと思うと胸が痛い。
 だけど『大人が、気付いてあげないのが悪いんだ……』と言ったのも自分の本心に変わりはなくて、それを否定すれば、今度は自分の言葉に無責任になってしまう。
「ごめん……。以前言った事と、全然違って、どうしたんだろ、僕は……っ」
 そのうち涙腺も緩むようになるのではないだろうか、僕は自分が虚しくて、卑屈な微笑をした。
「いえ、仕方ない事ですから、気にしないでください」
「そうか……ありがとう」
 仕方ないとは一体どういう意味だろう。気になるけれど、僕は余計に悲しませない為に堪える事にした。その心が、まるで次の花言葉のままで笑えてくる。本当は、儚の事が好きだけどそれを隠したいという意味で、自分の為に伝えた花言葉だったのに。
「次は『ほていあおい』だね」
 僕はそう言って微笑み、嬉しそうに絵を渡す儚に「ありがとう」と御礼を言う。普段の自分はこうだったはずだと、記憶頼りに演じた。嘘ではないけれど、もう一方では、これ以上記憶を取り戻して、失うのは怖いと恐れる自分がいる。それを彼女を悲しませない為に抑えこむ、僕は大人なのだからと我慢した。
「(やってる事は当時と同じだ……大丈夫だ)」
 自分に言い聞かせ、彼女の絵を見た。
 寒さに弱いほていあおい、葉柄に空気を含んでいて水面に浮かぶ浮水植物。淡紫色の六弁花、上弁には濃紫色のすじ、そして黄色い斑点が入る花。別名は『ほていそう』。
「花言葉は『揺れる心』です」
 儚はそう告げると少し俯き、だけどすぐ顔をあげ悲しげな笑顔を見せた。そして何かを決意したように立ち上がる。
 心が揺れている僕は、下手な言葉をかける事ができなかった。だからただ、彼女の手を取り、首を横に振る。そして最後にぎこちない笑みを浮かべた。今は、こうしていて欲しいという願いと、もう無理しなくていいよという想いを込めて。
 儚は驚き瞬きを繰り返す。だけどすぐ、その願いを聞き届けてくれた。掴んだ手を握り返してくれた。
 もう一度椅子に座る儚に安心して、でも手は放さず、彼女を引き寄せる。そして彼女の前髪を避け、額に親愛の口付けをした。
「ずっと好きだったよ。もう見つからなくてもいいから……、今は」
 自分でもわからない言葉を並べながら、隠していた気持ちは伝え、割り切れない気持ちは行動に表した。彼女はもうすぐ、ここに来られなくなるのだから、今日だけは何も考えず、一緒にいられるように。
 儚は顔を赤く染め真っ直ぐにこちらを見つめると、幸せそうに頷いた。