Trente et Quarante

第五話:深紅の花嫁/5

 深夜、城の中はまだ就寝していない王の為に明るかった。
 その中を歩くその人は、すれ違う誰もが振り返るほど美しい。
 威圧的で派手な装いのウェディングドレスに身を包んでいたが、そのような装飾もその人の前では美しく飾る道具でしかなかった。
 ヴェールから僅かに覗く顔の造形に、長年城に仕えていた年老いた使用人は、『王妃の亡霊』と口にした。

 王妃の亡霊は、会議室の前に立ち止まると自身の手を見つめた。
 ドレスに埋もれて指先しか見えない、その事に安堵すると、その手を胸に当て軽く深呼吸をする。
 そして何かを決心すると、手を軽く握り優しく扉を叩いた。
 室内から声がする。だけど招かれざる客人になかなか扉は開かれない。
 王妃の亡霊は再び扉を叩く。
「何だ、貴様……!?」
 家臣の一人が扉を開け、怪訝な表情を浮かべて声を荒げる。しかし王妃の亡霊を見た途端、言葉を失った。
 他の者達も口々に王妃の亡霊と呼び、その人の為に道をあける。
 王妃の亡霊は何も言わず、会議室の中を進む。
「お前」
 道の先にいる王が目を丸くして王妃の亡霊を見ていた。
 しかしその表情は恐怖ではない。かつて異常に欲した女性が再び目の前に現れた事による歓喜の表情だ。
「こうしてまたお前に会えるとは、その顔をよく見せてくれ」
 王妃の亡霊の傍に歩み寄ると、その手をヴェールに伸ばした。普通に考えればそのような得体の知れない存在に手を伸ばすのは愚かだ。
 しかし王は、王妃を支配していたという絶対的な自信を持っていた。その所為で思考が正しく働いていないのだ。
 王妃の亡霊はきつく唇を結ぶ。
 そして王がヴェールをめくりあげた瞬間、亡霊が着ていたウェディングドレスに赤い斑点が飛び散った。
「ひ……っ!?」
「ひあああああああああぁぁぁぁぁぁっ!?」
 家臣達は目の前の光景に絶叫する。
 王妃の亡霊は王の喉にナイフを突きたてていた。
 傷口から飛び出す鮮血を浴びるその人を見て、家臣達は恐怖に震える。
 王はみっともなく口を開くと、浜に打上げられた魚のように口を動かしていた。取り込めない空気が裂かれた喉から漏れ出ているが、それでもしぶとく生きている。
 王妃の亡霊はヴェール越しに冷たく彼を見つめると、突き立てたナイフでその首を落とした。
 首を無くした王の身体は鮮血を撒き散らして倒れる。王の首は家臣達に見える位置に転がった。
「ぎゃああああぁぁぁぁぁっ!?」
 胴と引き離された首を見て、家臣達は我先にと会議室から逃げようと走り出す。
 しかし扉は開かず、『王妃の呪い』と恐れた。
「わ、私達は王がやれと言うから従っていただけで!」
「そうですっ! 許してください王妃様あああっ!」
 口々に許しを請い、亡霊に懇願する。
 王妃の亡霊はどうでもよさそうに王の髪を掴むとその首を持ち上げる。
 抜け切らない血がボタボタと垂れているのを黙って眺めた後、家臣達目掛けてその首を投げた。
 家臣達は悲鳴をあげ王の首を避ける。
 誰も受け止めない首は扉に当たり、まるで何かの合図のようだった。そしてまた床に転がる。
「王妃様……お助けを……っ」
 家臣達は怯えを含んだ涙声で言った。
 王妃の亡霊はヴェール越しに冷たく家臣達を見る。
 ナイフを持ったまま迫りくる王妃の亡霊に、家臣達は悲鳴をあげながら扉から離れる。そして王がいた部屋の後方に集まった。
 扉付近に誰もいなくなると、王妃の亡霊は扉を叩く。すると扉は開かれ、また一人の男が会議室に姿を現した。
「お、お前……っ!」
「では、この方は!?」
 家臣達はその男を見てガタガタと震える。
 どれだけ懇願しようと、王妃の亡霊は許してくれないだろう。それを確信させる存在だった。
「従っていただけの貴方達は悪くない、そう言いたいのですか?」
 今しがた家臣達が叫んでいた言葉を自分なりに解釈すると、男はクスリと笑う。
「被害者には、そのような事は関係ありません」
 男は彼らを皮肉る。
 そして床に転がる王の首を見つけると、今まで見せた事がないくらい口角を上げて笑う。そして靴が汚れるのも気にせず家臣達目掛けて首を蹴り飛ばした。
 家臣達は飛んできた首を見てどうなるのかを悟ると、もう泣き喚く事しかできない。
 男は絶望する彼らを見て微笑む。
「どうぞ」
 男は王妃の亡霊に跪き一振りの剣を手渡す。それはその人の愛用している細身の剣だった。
 王妃の亡霊は受け取った剣を抜くと、鞘と血塗られたナイフを男に手渡す。
「あなたの剣舞を拝見できる日がくるとは、僕は幸せ者です」
 ナイフと鞘を受け取ると男は微笑みを浮かべた。
 しかし王妃の亡霊は男の微笑みには目もくれず、震える手を隠す。生唾を飲み込み、何かを祈るように宙を仰ぐ。だけど覚悟する必要はなかった。
 軽やかに地を蹴ると悲鳴が前奏のように響く。白いウェディングドレスが残虐でありながら華麗になびき、その人を飾るように鮮血が部屋に舞い散る。そして舞曲の役割を断末魔が果たしていた。
「訪れる事のない新郎を待ち、赤い花と共に踊る純白の花嫁」
 その光景を男は恍惚とした表情で眺める。
「いや、もう純白ではありませんね……だけど」
 男は数年ぶりに得る快楽に我を忘れ、舞い散る鮮血の中に身を投じた。
「僕の望みを叶えてくれるあなたは、とても美しい……」
 血が髪や頬、それに服を穢しても、それすら男には快感でしかない。彼は目の前で起きている出来事を長年望み続けたのだから。
 だけど王妃の亡霊にそのような気持ちは微塵もない。心を殺し、感情を捨てて、誰もいない舞台で踊っているのと同じだと、ヴェール越しに見る世界を遮断した。
 ただ幼い日の約束を果たすために……。

 生存者が二人だけになった時、花嫁は深紅に染まっていた。

...2012.07.03