Genocide

 十一月十六日水曜日の夕方……いや、もう夜だろうか、 私は冷たい床の上に倒れていた。
「(どうしてこうなっちゃうんだろう……)」
 私は薄れていく意識の中で、今日一日を振り返ってそう思った。 擦れた視界に映るのは粉々に砕かれている携帯電話と、血溜まりに倒れる喜多野君だ。
 昨日、複雑な心境ながらもやっと終止符が打たれたと思った殺人ゲーム。 だけどそれはただの小休憩みたいに、簡単に再開を許してしまった。 だから、あの殺人スケジュールの通りに喜多野君も死んだ、殺された。
 リツ君は倒れている私を見下ろしながら泣いていた。 血塗られた凶器は床に落ちてカランカランと音をたて、 同時に血塗れの両手で顔を覆い隠す。 その所為でリツ君の顔は血で汚れていく。 彼はまた殺人を犯してしまったのだ。
 私は虚ろな意識の中でそれを見てる。 見てるけど、声をかける事はできない。 罵倒する事も、慰める事も、何もできない。 ただズキズキとした痛みが脳を支配しているようだ。
「うぅ……うぐっ」
 リツ君は力が抜けたように膝を付くと、床に顔を伏せて泣きじゃくった。 また同じ事を繰り返した事にだろうか、それとも……。
 しばらくして人の足音がしてきた。 大勢じゃなくて一人分、きっと夜観之君だろう。 私はもう目を開けている事もできず、音だけの世界にいた。
「これは……っ」
 夜観之君はその部屋の惨状を見て口を抑え顔を歪めた。
 喜多野君の死に方はきっと今までで一番酷いのかもしれない。 薄れゆく意識の中にもハッキリとわかる程、鈍い音が何回何十回と響いていた。 あれは骨が砕ける音だろうか、あれは血が飛び散った音だろうか、 断末魔の中響く何かを叩きつける音、見えないけど恐ろしくて……何より悲しかった。
「……のるん!?」
 夜観之君は苦しげに顔を歪めていたが、細く開けた瞳に映った私を見るなり全てを忘れたように叫んだ。
 いつもみたいに「のろ子」ではなくてちゃんと名前を呼んでいる。 よほど心配をかけているのかもしれない。
 私は口を少し動かした、だけど何も答える事はできず、そのまま完全に意識を失った。

 次に"私"が目を覚ますのはいつの事だろうか……。

20.忘却

 十一月十六日水曜日の朝、私は窓の外を見ると広がる光景は快晴だった。 だけど心は曇ったままだ。 リツ君の決意は私の望んでいたもののはずなのに、酷く暗い気持ちだった。 なんてわがままなのだろう、私は自分が嫌で仕方なかった。
 洗面所で寝不足の顔を二回くらい叩く。 スッキリはしないけど、それで何とかスイッチを入れ身支度を整える。
「……来週休めるか聞かなきゃ」
 不意に今日すべきことを思い出して目を瞑る。 たとえその先に死が待っていたとしても、それを受け入れる事にしたリツ君。 そんな彼にこんなに暗い顔を見せていいのかと自分に問う。 そして無理矢理笑顔を作った。
 重い道のりをえて学校に着くと、すぐに夜観之君を呼んで屋上へ向かった。 夜観之君に昨日の事話す為に……。
 夜観之君は事情を説明すると「そうか……」と少し苦しげに微笑んだ。
「これで、良かったのかな……」
 だけど私はこの期に及んでそんな事を口走る。
「どうだろうな、でも……これがあいつの為って思ったのはお前だろ?」
 夜観之君の言葉が心に突き刺さる。
 私は簡単な気持ちで彼は自首をすべきだと言ったわけじゃない。 だけど彼が決意した瞬間に揺らぐ程度の気持ちだったのかと情けなかった。
「のろ子が気に病む問題じゃねぇって」
 夜観之君は私を気遣うように頭をポンポンと叩いた。 きっと酷い顔をしていたのだろう。
 私は小さく頷くと目尻に溜まった涙を拭った。
 夜観之君はよしよしと言うと軽く笑う。
「あいつが決意したなら俺も考えないとな」
そう言って夜観之君は背を向けた。
「え?」
 私は意味が判らず首を傾げた。
「俺は言わば……・共犯者みたいなもんだからな……」
 夜観之君はそう言って苦笑すると気を紛らわせるように自分の髪の毛を弄った。
「だってそれは、脅迫されて……!」
 私は夜観之君に詰寄る、だけど後の言葉は夜観之君に制しされた。
「だが警察に駆け込んでれば誰も死なずに済んだ」
 夜観之君は真剣な眼差しでそう呟く。
「だから俺も自首する、死んだ奴等に悪いだろ?」
 だけど私は納得がいかない。 それに私だって同罪だ。 彼に言われた通り先生やクラスメイトにしかその事を訴えてこなかったのだから・・・。
「だったら私だって……!」
 私は先に行ってしまいそうな夜観之君の腕を取って見上げた。
 そんな私を見て夜観之君はまた軽く笑う。 だけど今度は少し悲しげだ。
「お前と俺、実は全然違う駒だったんだよ」
 夜観之君は小さく呟くとこれ以上反論は許さないというように、軽く口付けて私の唇を塞いだ。
 私は驚いて夜観之君の腕を放すと真赤になって口を抑えた。
「餞別に貰っとく、適当に忘れていいから」
 そう言うと夜観之君はすぐ屋上を後にした。
 その餞別に色々と考えてしまうとすごく恥かしくて心臓も激しく脈打つ。 今までずっと友達として接してきて、抱きしめられた事だってあるし、何より夜観之君を家に泊めた事だってある。 だけどもしもこの餞別に深い意味があったとしたら、 すごく悪い事をしていた気がして、恥かしさで予鈴がなるまでその場を動けなかった。

 昼休みはリツ君と屋上で過ごすのが日課になっていた。 リツ君は先生に呼び出されている、だから私は二人分のお弁当を持って一足先に屋上へ向かう すると扉越しに見た屋上で人影を見つけた。
「(もう終わったのかな?)」
 私は不思議に思いながらも声をかけようとした。 しかし振り返った相手の顔を見て言葉を飲み込んだ。
「ああ……こんにちは、坂滝さん」
 私を見初めて挨拶をしたのは喜多野 敏也だった。
 私は戸惑いながらも「こんにちは……」と返す。
「君に質問があって待ってたんだ、ちょっといいかな?」
 喜多野君はニコッと微笑むと私に歩み寄る。
 私は断る事もできず「……はい?」と返した。
 喜多野君はかけている眼鏡を軽く直すと私の目を真っ直ぐ見てきた。 その目が実は笑っていないと気付いた時、私は少し寒気がした。
「実はこの間さ、俺屋上に居たんだよね……」
「は、い……?」
 私は言葉を詰まらせた。 「屋上に居た」とは何が伝えたいのだろう。 私達の会話を聞いていたという事なのだろうか。 だったらそれはいつのことなのだろうか。 「この間」というからには今日の事ではないのだろうが、 こうして考えを巡らせるほど私は嫌な緊張を強いられてしまった。
「……後ろめたい事があれば緊張するよね」
 喜多野君はクスクスと笑いながら言った。
 私の身体がドンドン強張っていく、一体何を聞きだそうとしているのだろう。 喜多野君は殺人ゲームのターゲットであるのと同時に、 彼を監視してた研究員の一人だ。 私から聞きだそうとしている事が、この一連の事件を良い方向へ運ぶとは到底思えなかった。
「君と七瀬君が話しているのを聞いちゃったんだ」
 喜多野君は言うとまた一歩私に歩み寄り俯いてしまっている私の顔を覗き込む。
 私は逃げ場のないその状況に思わず青褪める。 悪い事が外に漏れるのが怖いからか、 リツ君の決意が崩れ去るような、そんな予感がしたからか……。
「話の流れからして、朝霧君の事だと思うんだけど……」
 喜多野君は完全に私を支配したように勝ち誇った表情だった。
「自首だの死刑だの……一体どういう事なのかな?」
 私は何も答える事ができず、ガタガタと震えていた。 邪魔になった人間を簡単に消すような組織に、事件の事がばれるのは恐ろしかった。
「実は学校以外でも付き合いのある奴がクラスにいてね……」
 喜多野君がそこまで言って言葉を切ると、私は途端身体が震えた。 それを確認すると顔を見なくてもクスクスと小さく笑うのがわかる。 完全に私は誘導されてしまっていた。
「佐々川君と窪谷さん、あと桐島さんなんだけど、連絡が付かないんだよね……」
 私はもうばれてるとしか思えなかった。 耳を塞ぎたい、だけどそれは許されない。
「もしかしてこの三人、殺されてるのかな?」
 喜多野君は私に問うた。
 だけど私はどう答えていいのかわからない。 喜多野君を見上げて口をパクパク動かす事しかできない、声がでない。
「殺人教唆は星垣さんと原田君の事かな、そして変な態度の奴等全員グルか」
 喜多野君はそうあっけなく言った。
「違う!その人達は脅迫されて何も言えないだけで……っ」
 私は「グル」という言葉に今まで出す事のできなかった声がでた。
「そういえば毒物で数十人を脅迫してるんだっけ?忘れてたよ」
 喜多野君はそう微笑すると私の顎を掴んで引き寄せた。
「もっと君に話が聞きたいんだけど……先生もそろそろ限界だからさ」
 私は何をされるのかわからず抵抗する事もできずただ怯えるしかなかった。
 喜多野君は弱い者を支配する事を楽しむように満足そうに笑う。
 その表情に、私は悔しさを感じずにはいられなかった。
「放課後……君が先生に言ってた廃墟で会えないかな?」
 喜多野君が私の耳元でそう囁くと私は思わず身体が震えた。 息を吹きかけられたような感覚が気持ちが悪くて、私は頷いてしまった。
「じゃあ、待ってるよ」
 喜多野君はそう言い残してその場を後にした。
 私はその場に蹲ると心の中で自分は馬鹿だと罵った。 リツ君がここに来れば、嫌でも喜多野君は私を解放しただろうに……。 何で耐え切る事ができなかったんだろう。 あの口ぶり……先生から話を聞いているに違いない。 どうして喜多野君に先生がその話をしたのかは疑問だが、恐らく二人は何か繋がりがあるのだろう。 そして何より問題はそこではない。 あそこには佐々川君と窪谷さん、そして桐島さんの遺体が眠ってる。 生々しい血痕も残ったままだ。 きっと喜多野君は全部知っているとしか思えなかった。
 しかしそう結論を出してまた疑問が浮かんでくる。 どうして全てを知っているのに私をわざわざ呼び出す必要があるのだろう……。 何か嫌な予感がしてならなかった。
「ごめんのる、昼休み半分も終わって……」
 しばらくして屋上にやってきたリツ君は私の様子を見て首を傾げた。
「何でもないよ、大丈夫」
 私はそう強がりを言うが、我慢しきれずリツ君に抱きついた。 喜多野君の件をどうしていいかわからない。 相談するべきかも考えたけど、リツ君はもう自首を決意しているのだからこの一件は黙っているべきな気がした。 私が一人でやり過ごすしかないと、そう思った。

 放課後、喜多野君に言われた場所に足を踏み入れた。 正直一人という心細さと、バイトに間に合うのだろうかという不安があったが、 何が起きるかわからない不確定な要素を放置する気も起きなかった。
 半壊した建物は何度みても不気味で、その中ではおぞましい事が何度も何度も起きている。 だけどあれから約二ヶ月も経っているのに異臭がするような事は今までに一度としてなかった。 彼が何か細工をしていたのかもしれない、それかもうそこに遺体がないのか……。
 私はその予測が間違っている事を確かめる為に、彼が遺体を遺棄した扉を開けた。
「……嘘」
 中は空っぽだった、私が手向けた造花すら残ってはいない。 リツ君や夜観之君が場所を移したのだろうか、 しかしそれでは彼が私に仕掛けたゲームは成立しない。 血痕だけでは証明にならない、遺体がないこの場所を先生に探させても意味がない。 これでは私が本当に……。
「本当に君には虚言癖があったんだね」
 不意に後ろから声がして私は驚き振り返る。 そこには喜多野君がいた。
「先生にここで朝霧君が人を殺したって言ったんだよね?」
 私は頷く事ができない、だってここに遺体はないから……。
「確かにこの血痕はここ数ヶ月でついたもののようだけど」
 喜多野君はそう呟くと白い手袋を取り出し固まった血に触れた。
「ふーん……君、このガレージ以外に踏み入れた場所は?」
 何かを確かめるように私を尋問する。 本当の刑事がこんな事をするのかはわからないが、 まるでそれは刑事の真似事のような印象を受けた。
「二階の……子供部屋に……」
 私は隠す事はせず正直に言う。 喜多野君が何をしているのかは考えないようにするしかない。
 二階に場所を移すと、喜多野君は手袋を付け替えて一ヶ月も経たない血痕に触れた。 その手袋に血を付着させたいという事だけが見て取れる。
「これだけの出血量だ、殺人は本当かな……でも何故遺体がないの?」
 喜多野君は私を試すように挑戦的な表情で言った。
「わからないよ……だって確かにこの間まで……っ」
 私は消えてしまった佐々川君達の遺体が今どうなってしまったのか想像するだけでッゾとした。 自首を決意した彼が今頃遺体を隠すはずがない、そう信じている。 だけど、ならどうして遺体は消えたのだろう。
「わからないんじゃなくて、本当は君が隠したんじゃないの?」
 喜多野君の言葉に私は耳を疑った。 そんな事をして言ったい私に何の特があるというのだろう。
「どうして……」
 私は意味がわからなくて思わず呆然としてしまった。 でも本当はどんな答えを求めてるのかわかっていたんだ。 ただ、そんな事を思われているという事を信じたくなかっただけで……。
「本当は君が犯人なんだよ、いや、そうあるべきなんだよ」
 喜多野君は私の思った通りの言葉を放った。 ただそこには"違うという事が嘘でなければいけない"と取れる言葉があった。
「私は人を殺してなんてない……!」
 私は全力で否定した。無駄な事でもそればかりは抑える事ができない。 だけど今にも喜多野君に掴みかかりそうになった時、私に異変が起きた。
 その取り乱した一瞬をついて、喜多野君は鞄から一枚の布きれを取り出し、 私を押さえつけるとそれを口にあてがった。 少し湿っぽくてすぐその匂いが私の意識を持っていってしまうものだと気付いた。 だけど抵抗も空しく私はその場に蹲る。 辛うじて意識はあったが、グラグラとして視界も定まらずとても動けない。
「さあ、君の中の真犯人をここに呼ぼうか……まさか実験が失敗だなんてね」
 喜多野君は私が抵抗できなくなったのを確認すると、携帯電話を取り出した。 真犯人というのは恐らく律君の事なのだろう。 ただ一つ不可解な事があった。 実験は失敗だと喜多野君は認めている事だ。 なのに何故別の犯人を仕立てる必要があるのだろうか……。

 意識が大分回復してきた時、もう外は暗くなっていた。 それでも身体が痺れてまだ少ししか動けない。 だけどリツ君がここに来るのだ、逃げる事はできなかった。
 バイトはもう遅刻だ、いや、きっと行く事はできないのだろう。 ただそれ以上に、リツ君が心配だった。 言葉巧みにここに呼び出されたが、喜多野君に彼は失敗だと判断されている。 これがこのプロジェクトを取り締まる人の耳に入ったら……彼はどうなってしまうのだろう。 もし以前彼の言っていた事が本当なら、彼も警察の目の届かないように殺されてしまうのだろうか……。
「思ったより早いね」
 廃墟全体に響くような音を聞いて、喜多野君はそう言った。 その視線の先は子供部屋の扉の前。 そこにぜーぜーと肩で息をしているリツ君がいた。
「リ……く……ん」
 私はゆっくり頭を動かし、視線を上に向ける。 しかしリツ君の表情を見て全身に寒気が走った。 冷たくて、まるで"リツ君"に出会った時のような瞳だ。
「三人も殺してるならもう気付いてるんでしょ?俺達が君を観察していたの」
 喜多野君は臆する事なく笑顔でそう聞いた。
 リツ君は何も答えない。
「君をこれ以上野放しにはできないからさ、"先生"のとこ戻ろうか」
 それでも喜多野君は自分の話を続けた。
「やっと気付いたんだ……でも、一つ言っていい……?」
 リツ君は反論する事はなく、でもギリッと歯を軋ませた。
 喜多野君は彼を煽っているかのように「何ですか?」と微笑む。 それが彼の神経を逆撫でするとわかっているのにだ。
  「何でのるがここにいるんだ」
 リツ君はそう言って喜多野君を睨みつけると「彼女は関係ないだろ」と続けた。 その目は酷く据わっていて、何をするかわからない雰囲気だ。
「何でって、犯人が捕まらないと後処理ができないでしょ」
 そう言うと喜多野君はクスクスと笑った。
「僕は自首をする、後処理なんて必要ないし"七瀬博士"のとこに行く気もない!」
 リツ君自分の誓いを喜多野君にぶつけた。
 その時私は唐突に律君に自首を迫ったあの日の事を思い出した。 彼は「あの証拠が消えてしまう」と言っていた。 それが果たして"自首"する事と関係しているのかはわからないけれど、 この状況はその"証拠"に深く関係しているような気がした。
「自首されるのは困るんだよ、あの研究所今度こそ終わってしまうだろ?」
 笑顔で喜多野君はそう答えた。
「逆に、都合がいいんだよ坂滝さんはさ」
そう続けると喜多野君はしゃがみ私の顎を掴んで見せた。 私は力の入らず抵抗する事ができない。
「のるに触るな!」
 その行動にリツ君は今にも飛び掛りそうになっていたが、 私との約束が枷になって踏みとどまる。 それに私は少し安堵したが今のこの状況が打破できたわけではない。
 喜多野君は何もできないリツ君を見て再びクスクスと笑う。
「朝霧君の前の人、浅木さんだっけ?坂滝さんのお父さんなんだってね」
 その言葉に私とリツ君は驚愕した。 そんな事まで調べているなんて思わなかったというより、浅はかすぎたのかもしれない。
「法的な処置はなかったとはいえ、殺人は殺人だからね……」
 私の耳元で喜多野君は呟くとそっと私の顎から手を放す。
「"実験の所為で殺人を犯した父親の事を恨んで娘が復讐"……都合がいいでしょ?」
そこまで言うとケラケラと笑い再び携帯を取り出した。
 父は殺人の汚名を着せられただけだ。 実際はその"七瀬博士"……夜観之君の母親と律君の叔父さんが犯人なのに……。 どうしてこんな事を言われなければいけないのか……。 そしてどうしてそんな事を笑いながら言えるのか、私にはわからないし何より悔しかった。
「……してやる」
 リツ君は何かを呟いたが、同時に鈍い音が響いて喜多野君には伝わらず首を傾げた。 だけど私には聞こえた。 恐ろしい言葉が……。
 私は身体を起こそうと壁に掴まるが、瞬間喜多野君の身体と携帯が宙を舞う。 辺りに血が飛散しその身体は床にたたきつけられる。 喜多野君は声にならない悲鳴をあげ左腕をおさえる、サビた鉄屑が腕に刺さっていてそこから出血したようだ。
 リツ君を振り返ると彼の手には鉄パイプが握られていた。 先ほどの鈍い音は廊下の壁に伸びたそれを折った音のようだ。
「け、けいっい……携帯!!」
 喜多野君はキョロキョロと辺りを見回し自分の携帯を探した。 しかし見つけたそれを手に取る前に、リツ君がその鉄パイプを携帯に叩きつける。 何度も何度も……その形が携帯ではなくなるまで粉々に。 喜多野君は手を引くと恐る恐るリツ君を見上げる。
「……殺してやるから死んで詫びろ!お前もあいつらも七瀬博士もな!!」
 床に蹲る喜多野君は怯えるだけで立ち上がれず、奇声にも似た悲鳴をあげながら後退していく。 しかし壁際まで追い詰められ、リツ君に見下される形になった。
「恨んでいいよ、僕は憎み続けるから……」
 怯える喜多野君の前でリツ君は一度目を瞑った。 まるでその悲鳴を聞き納めるかのように……。
「地獄で再会したらその度、殺してやるから!」
 リツ君は目を見開くと鉄パイプを喜多野君目掛けて振りかぶる。
「ダメ……リツ君っやめて……」
 私はその腕に掴まり訴える。 大きな声が出せないし彼の腕を掴む力も心もとなかった。
「放してくれのる!こんな奴……こんな奴ら!!」
 リツ君は私を振り払おうとするが、私の青褪めた表情をそれをやめた。 今の私は立っている事すらままならなかったから……。 その代わり今にも泣き出しそうな面持ちだった。
「ダメだよ……約束したじゃない……っ」
 この先喜多野君にどうわかってもらえばいいかなんて今は考えてなかった。 ただリツ君がこれ以上罪を重ねないように、約束を守ってもらえるように……。
 だけどそれしか考えてなかったから、ダメだったのだろう。
「あああああああ……!!」
 喜多野君は私達が見ていない隙に壁を使い少し立ち上がると、 リツ君のすぐ横……私の居る側目掛けて飛び掛ってきた。 混乱していると言っていいかもしれない。
 彼に辛うじて掴まっている状態の私は急に横から力をかけられ簡単にはねのけられた。 床に頭を強打し、先ほどとは比べ物にならない程意識が朦朧とした。 頭を打った所為か身体中に痛みを感じ、どこが痛いのかすらわからない。 ただ感じるのは意識が遠のく事だけだった。
 リツ君は呆然と私を見下ろしていた。 粉々になった携帯に足を滑らせて喜多野君が転倒した音が響く。 それから一分と経たないうちに、"朝霧 律"は四回目の殺人を終えた。

「どうして娘は目を覚まさないんですか!?」
 暗い世界で母の声が聞こえた。 それを窘める大人の男性の声、口ぶりから察するに医者だろうか……。
「俺がもっと注意してれば……こんな事には……っ申し訳ございませんっ」
 どこかで聞いた男の人の声が母に謝ってる。
「いえ僕が悪いんです!お母様の代わりに僕が守らなければいけなかったのに……っ!」
 あ……この声は律君。 声が擦れてる……泣いてるの? だけど声だけではわからない。
「っあ……貴方達は悪くない、わ……むしろ連絡をくださって……ありがとうっ」
 母が涙声で御礼を言っている。 だけど声だけでは状況がまるで読めない。 私はゆっくり目を開けた。
「……!!るん!」
 母は私がゆっくり身体を起こしたのを見ると抱きしめた。
「バイト先から貴女が来てないって聞いて……っすごい心配したのよ!?」
 私は驚いて、思わず「ごめんなさい!」と謝った。
「貴女の携帯からっ彼らが私に連絡をくれて……っ」
 母は私を抱きしめたまま言った。 でもまだよく状況が読み込めない。
 私は母に抱きしめられたまま辺りをキョロキョロと見回した。 何だか見慣れない部屋、ここは……病室?
「ごめんねっごめんね!!貴女の事ずっとほったらかしにして……本当にっ」
 母は涙でぐちゃぐちゃになりながら私に謝ってる。 何を謝ってるのかわからない。
「お母さん……どうしてそんなに泣いてるの?」
 私は笑顔を作って聞いた。
 母はそれでも子供のように泣きじゃくる。 私はその大袈裟と感じる反応にクスクスと笑いが込み上げてきた。
「もう、"昨日一緒に出かけたじゃない"」
 その言葉にあたり静まり返り、母は戸惑った表情を浮かべて私の手を取った。 私何か変な事を言っただろうか……。
「え……何?律君も……私何か変な事言った?」
 私は戸惑いながらも何とか笑みを作って聞いた。
「何って……昨日は、僕と一緒にいたんだよ……?」
 律君は青褪めた表情で言う。 動揺してカタカタと震えている。
「あれ……昨日じゃなかった……かな?」
 私は会話が噛みあわない事に動揺して苦笑いを浮かべた。
 律君は何かに気付いたように隣にいた人物の手を引いた。 その人物は律君以上に動揺していて、私に近寄りたがらない。 だけど律君と目が合うと渋々了承し私に歩み寄った。
「彼、誰だかわかる?」
 律君はそう私に尋ねた。  私は不思議に思いながらその人物を見た。 だけどすぐ誰かわかって、何だかッホとした。
「もう、わかるに決まってるでしょ?」
 そう言って思わず苦笑した。 だけど誰もそれを信用してくれない。 その本人すらも……。
 私は首を傾げ少し考えると何かを思いついてその人物を見上げた。
「……この間ぶちまけた荷物拾うの手伝ってくれたよね?"七瀬君"」
 私の言葉を聞いて七瀬君は酷く悲しげな表情を浮かべカタカタと震えていた。 律君は何かを悟った表情を浮かべ顔を歪め、 母はまた涙を流していた。
 お医者さんと二人きりにされて、診断を受ける。
 私が悪漢に連れ去られた所を二人が見つけて助けてくれたらしい。 だけど頭を強く殴られていて中々目を覚まさなかったと……。 心当たりがなかったが、お医者さんには「当然でしょうね……」と言われ、 私は何かを悟った。
 しばらくして母と二人、病室で診断結果を聞いた。
「るんが、記憶……喪失?」
 私は大事な事をたくさんこの数時間前に置いてきてしまったそうだ。

...2009.08.01