記憶の花:11.みせばや1

 今日はなるべく早めに行くと儚は言っていた。あまり長居できない分早めにという事だったが、毎回もう来ないのではないかと少し不安になる自分はその方が嬉しかった。
 予告通り儚はいつもの何時間も早くやってきた。少し視線を彷徨わせる仕草に僕は首を傾げたが、すぐ昨日の事を思い出し、目を伏せる羽目になった。
「ご、ごめんね、いきなりあんな事……」
 僕は顔を赤く染めると思わず謝罪した。
 儚は首を横に振る。
「すごく、嬉しかったです……」
 そう告げると儚も顔を赤くする。唇を噛んで居た堪れなさを我慢しながら椅子に座った。
 あまりに照れくさくて儚の様子にクスクスと笑うと、儚は唇を尖らして怒ったような態度を取った。
「ごめん、儚ちゃんまで赤くなるから、なんか照れくさくて……」
 僕は抑えて抑えてと言う風に両手で儚を制止する。そしてどちらともなく笑いあう。
「じゃあ明さん、今日の花は何だかわかりますか?」
 機嫌を直した儚は画用紙を掲げながら言う。
「『大切なあなた』、僕の気持ちだね」
 僕は悪戯を楽しむ子供のようにそう言って笑う。
「花言葉を先に言わないでください!それにそれは、私が持ってきた写真の花ですよ!」
 儚は顔を真っ赤にして捲くし立てると最後にはまた拗ねたように唇を尖らした。
「そうだっけ?説明したのは僕だから覚えてないな」
 それでも意地悪く言うと、今度こそ儚は本気で怒り出しそうだったから「嘘です、ごめんね?」といつもの調子で謝る。
 そのいつもの調子が良かったのか、儚は目を大きく開いた後すぐ機嫌を直した。
「(単純で可愛いな)」
 そのような事を考えていると、見透かしたように目を細め訝しげに儚が見ていた。だからすぐ首を横に振り何も考えていないというアピールをした。そしてすぐ話題を変えようと考えを巡らせる。
「儚ちゃんは『みせばや』の花言葉、知ってたって事だよね?」
 僕がそう言って笑顔を見せると、照れた儚は持ってきた絵を僕の顔に押し付けグリグリ押し付けた。絵がくしゃくしゃになりかねないので「ごめんごめん!」とすぐ謝り、緩んだ所でその絵を奪うように手に取る。考えが足りないようだと思わず心の中で反省した。
 一通り反省を終え、絵を見ると、そこには三枚ずつ輪生している肉厚で扇形の葉。球状の花序をつくる花はおしべが長くふんわりとして、一見毛玉のような印象を持つ、みせばやの花が描かれていた。別名が『たまのお』というのも、なんとなく納得するそんな見た目だ。
「儚ちゃんは本当に絵が上手いな、僕じゃただの丸になるよ」
 僕は苦笑しながら儚の絵を絶賛する。どんなに絵心がない僕でも、本当に上手だと感じる画力を彼女は持っている。
「褒めたって何もでませんから!」
 儚は顔を赤くして顔を背けた。
 どうやら先程の数々のご機嫌取りが裏目にでたようで、簡単には信用してくれそうにない。だけど本当に何もでないのだろうか。
「でも儚ちゃん、もう一枚持ってるよ」
 僕は何気なしにあげあしをとった。
 すると儚は、おもむろにその画用紙を二つ折りにしようとした。
 僕は大慌てで「本当にごめん!だからやめて!」とヒヤヒヤしながら画用紙を見つめる。折角儚が描いた絵が汚れていたりするだけでも悲しいのに、彼女自身がそれを傷付けるのは耐えられない。
「帰る時に渡すという事で大目に見ます」
 儚は勝ったというような誇った表情で告げた。
 僕は「ええ、そんな……」とすごく残念で情けない声をあげる。そもそも自分が悪いのだから何も言えないけれど、それでも声を出さずにはいられなかった。
「でも渡したら帰りますよ?」
 儚は頬を膨らまし腰に手を当てて言う。
「後でいいです……」
 簡単に敗北した自分を「ヘタレ……」と自虐する。完全に儚にペースを握られていて二歳も年上なのに情けない。だけどそのお陰でまだもう少し儚といられるのだと考えたら、自然と笑みが零れた。

「儚ちゃんとの思い出、忘れたりして、本当にごめんね」
 帰り際、唐突な謝罪に儚は目を丸くした。
 だけどきちんと謝りたいとずっと考えていた僕は、表情を崩さず彼女を見た。
「もう、何度目ですか?」
 儚は苦笑する。
「これは一回しか謝ってないでしょ?」
 僕は首を傾げた。謝罪自体は何度もした覚えがあるけど、記憶の事は一度謝ってそれきりだったはずだ。
「一回で十分ですよ」
 儚はそう言って笑う。
「僕は一回じゃ足りなかったから……しかも軽かったし」
 最後に小さく呟くと、儚は「そんな事ないですよ」と微笑んだ。
「それに頭を強く打ったのだから、仕方ないです」
 こういう優しさも好きだなと考えていたら、思わず顔が緩んだ。だけど僕はそれを振り払う。
「話してなかったけど……僕の記憶喪失は、精神的なものらしいんだ」
 僕はそこまで言って唇を噛む。頭を打った所為なら、仕方ないで済んだ。けれど精神的なものという事は、その記憶から僕は逃げたという事だろう。だから逃げ出した事をきちんと謝りたかった。
 それを聞いた儚は、悲しげに少し表情を曇らせた。
「儚ちゃん……」
 心配になり名前を呼ぶと、儚は少し俯き、お預けしていた絵を僕に差し出した。
 傷付けただろうか、僕は恐る恐るそれを受け取る。儚の様子が気になって絵を見る事ができない。
「きっとまた、忘れたくなると思います……」
 顔をあげた儚は今にも泣き出しそうな顔で言った。
 その言葉に驚いた僕は目を見開き、彼女を見上げた。
「……どうして」
 だけど儚はそれには首を横に振るだけで答えようとしなかった。
 僕は唇をきつく結び、俯いた。
「また忘れちゃったら、それを見てくださいね」
 儚は泣きそうな顔のまま微笑むと、そのまま背を向けた。その瞬間、涙が零れたのが見えた。
「それじゃあ、明日ね」
 涙を拭い、振り返ると、そう告げて行ってしまった。
 僕は「あ……」と声をあげるが、彼女を引き止める事も、「また明日」と声を描ける事も叶わなかった。それが悔しくて、絵を置いてベッドから降り、松葉杖を頼りに病室の外にでた。
 廊下にはもう儚の姿はなかった。
「ロビーの方にまだいるかもしれない……」
 ありえない事を願いロビーへ向かうが、儚の姿はそこにもなく思わず溜め息を付く。そして頭を冷やそうと外の空気を吸いに少し外にでた。

「夏の空気、なんか落ち着くな……」
 まだ少し暑い九月の夕方。夕焼けを眺めながら僕は呟いた。だけど先程までちらほらと人がいたが、もう僕しかいない事に気が付いた。
「……戻るか」
 短い息抜きだったなと溜め息を付き、元来た道を引き返した。
 自動ドアが僕を認識して扉を開くと、受付が騒がしく軽い人だかりができていた。
「なんだろ……」
 僕は首を傾げ、騒ぎの中心に近付いていく。
「お願いします、会わせてください!」
 騒ぎの中心は夫婦と思われる二人の男女。誰かの面会に来たようだが、この様子だと断られているようだ。男性が黒の額縁を何度も掲げ懇願している。その装いだけで何となくわかる、あれは遺影なのだろう。女性は通らない願いに涙しハンカチで顔を覆う。
 僕はビクッと身体に震えが走った。そのハンカチに見覚えがある。前に似たようなものを見た気がする。それは、誰かに差し出された、交換したハンカチだ。
「誰か……ハンカチ?」
 思い出しそうで思い出せない記憶に触れ、僕は戸惑いながら小さく呟いた。
「そういえば……」
 僕は何かに気が付いてポケットを弄る。母が一週間分、僕のアパートからハンカチを持ってきていた。その中の一枚を携帯していたはずだ。
「あった……」
 取り出して見ると、それはその女性の持つハンカチと同じものだった。男の僕が持つには不釣合いな暖色のハンカチ。どういう経緯で僕の手元にあるのかまでは思い出せない。
「貴方それは……」
 不意に声をかけられ「え?」と顔をあげた。
 いつの間にか騒ぎは収まっていたらしい。夫婦はお互い手を取り合い、帰ろうとしている所だった。
「貴方が……夜長明さん!?」
 女性は僕の手にあるハンカチを見て、僕に詰め寄ってきた。同じものだから声を掛けてきたというには、あまりに様子が可笑しい。
「あの、どうして、僕の名前を……」
 あまりの血相に僕は戸惑いながら聞いた。
 その言葉で確信したのか、夫婦は顔を見合わせると、見つけたというように女性は泣き出し、男性は僕の手を取ると頭を下げた。
 僕は目を丸くし自分より小柄なその男性を見下ろす。
「夜長さんは現場にいたのでしょう!?お願いです!娘の為に証言してください!」
 男性の願いに、目の前が白くなって感じた。
「娘……?」
 遺影を持ってきている夫婦が、僕の証言を求めている。つまりこの人達の娘は亡くなっているのだろう。現場というのは、恐らく僕の事故の事だろう。僕以外にも死傷者がいたという事なのか。
「すみません、僕、記憶が……」
 協力したいのは山々だがまだ僕は事故を思い出すには至っていない。今証言するのは無理だと断るしかなかった。
「どうして……!?貴方しか、見ていた人はいないんですっ!」
 男性の手に力がこもり、僕は痛みに顔を顰めた。相手の必死さに声が震えてでてこない。
その眼が恐ろしくなり視線を逸らすと、いつの間にか僕らを囲むように人だかりができていた。
 自分を囲む人達を目の当たりにして、汗が噴出し頬を伝う。今と違う状況だが、僕は以前にも人だかりの中心にいた事がある。その記憶は恐らく僕が、最も思い出したくない記憶で、それを呼び起こそうとする状況を、拒否するように立眩みを起こした。
「!夜長さん……!?」
 男性は驚き僕を支えると、大きな声で呼びかけた。
 騒ぎに気付いた看護士は僕の担当医を呼び、人だかりは看護士達の為に道をあけた。そして男性に支えられて立っている僕を見て「大丈夫ですか!?」と声を掛けた。
「大丈夫、です。すみません……」
 僕はフラフラしながら自力で立つと、男性から引き離された。頭がズキズキと痛い。
 駆けつけた医師は僕の様子を見て状況を察したのか、夫婦に「困ります!」と一喝した。
「彼の記憶喪失は精神的なものだと、以前申しましたよね?無理に思い出させようとしないでください!」
 普段温厚な医師が声を荒げる様子に、僕は驚き以上に申し訳なさを感じた。僕が記憶を失っていなければ、このように注意される事もなかったはずだ。だけど何も言い出す事はできない。
 医師の言葉をただ聞いていた夫婦は俯き、女性はまた泣いていた。男性の持つ遺影がチラチラと視界をかすめ、それを繰り返せば繰り返す程、動悸激しくなっていく。
 僕は胸に手を当て落ち着かせようと目を瞑る。だけど目を瞑ると心臓の音を感じ、同時に呼吸が荒くなっていく事に気付いて逆効果だった。
「夜長さん、病室に戻りましょう」
 僕の様子に気付いたのか看護士がそう声を掛けた。
 このまま黙って離れるのは気が引けたが、このままでは倒れかねない。そうすればもっとあの夫婦に迷惑をかけてしまうかもしれない。だから黙って従った。
 しかし廊下に差し掛かった時、僕は立ち止まる事になった。
「じゃあ……っ、どうやって『儚』の無念を晴らせって言うんですか!」
 泣き叫ぶ男性の言葉の中に聞こえた名前に、全身が痙攣しているみたいに震えた。まるで否定するように首を横に振り、松葉杖を持たない方の手で流れる汗を拭う。
「あの……お二人の、苗字は……」
 僕はすぐ隣を歩いている看護士に聞いた。
 だけど看護士は言いよどみ、僕はその態度で確信してしまった。
 あの夫婦は僕の知る『儚』の両親で、何度も視界をかすめたあの遺影は……。思い出したくない、そう思い続けた記憶が心の奥底から解放された。
「あ、ああああああ……っ、儚あああああああぁぁ……っ!?」
 僕は気が可笑しくなり、自分の視界を覆うようにして顔を隠す。放した松葉杖がカランと音をたて床に倒れた。その場に立ち続ける事ができなくてフラフラと後退し、いう事を聞かない右足が壁際に誘導する。壁にぶつかると手は本能的に倒れる事から自分を助けようと手すりを掴み、僕は焦点の合わない瞳を晒してズルズルと床に座り込んだ。
「夜長さん大丈夫ですか!?夜長さん!」
 聞こえているのにまるで聞き取れない看護士の声、虚ろな目にその人を映してもその人の表情すらわからない。
 僕の異変に気付いて駆けつけた医師が僕の容態を見ているけど、何をされているのかよくわからない。
「夜長さん!思い出したんですか!?儚の事……事件の事……!」
 儚の両親は気の可笑しくなった僕に縋る。それを「いい加減にしてください!」と医師が引き剥がすけれど、何もかも意味がわからない。
 だけど右足の痛みだけは切り離せる事はなく、痛みに纏わる記憶が頭の中を駆け巡る。以前この痛みと共にこの目で見た光景の、赤で彩られたあの光景の幻覚を見た。
「知らない、僕は知らない……」
 無意識にそう呟くと、僕の視界は真っ白になって、そのまま気を失った。