記憶の花:09.ゼラニウム

 不安に支配され、身体が限界になるまで寝付く事ができなかった。その為柄にもなく昼寝をしていた。夢の中で儚に顔を覗きこまれるまでは。
 僕は飛び起きると、儚がいつものように座り僕が起きるのを待っていた。
 寝顔を見られた恥ずかしさに「いつ!?」と訳のわからない事を口にした。本当は「いつからそこにいたの」と言いたかったのだが、寝ぼけてて上手く口が回らない。
 儚は僕の言いたい事を見透かしたように、「一時間くらい前?」とクスクス笑った。
「そんなに!?」
 僕はますます恥ずかしくなって思わず布団を目元まで被ると、「起こしてくれればいいのに……っ」と呟いた。
「だって明さんが本当に無防備なのって始めてだったから」
 儚は笑いながら答えた。
 僕は「……ん?」と少し布団から顔を出す。本当に、という事は本当じゃない無防備があったのだろう。だけど出掛かっていても答えを引き出す事はできない。
「大丈夫です、そのうちわかりますよ」
 儚は僕の考えている事を読んだかのように言うと、今日持ってきた画用紙を取り出した。昨日持ってきた物のように薄汚れた物もあれば、綺麗な物もある。色んな所に隠されてしまったのかもしれない。そう思うと心が痛い。
「見つかってないのはあと四枚だけですから、気にしないでください」
 儚の言葉に僕はドキッとする。それほどまでに僕は分かりやすいのだろうか。
「あと四枚……で、もうここには来なくなるって事?」
 僕は思わず表情を曇らせた。永遠の別れというわけではない、はずなのに……。会えなくなるかと思うとどうしてか辛かった。
「……今日は三枚で、残りは……あと十三枚です」
 儚は笑みを浮かべ答えた。今日の儚はよく笑う。今のだけ空笑いなのが気になるけれど、本当によく笑う。
 僕は何故無理して笑うのかわからず、戸惑いが表にでる。
「あのね、今日はね、ここまでで一番嬉しかった花なんです」
 儚は僕の事に気付いているだろうけど、あえて触れずに今日持ってきた絵の話に移した。
 絵を見て嬉しそうに微笑んでいる彼女を見たら、これ何も言えないし、何より彼女は答えないだろうと仕方なく気持ちを切り替える事にした。
「『ヘリオトロープ』!私本当に嬉しかったんですよ?」
 まるで「信じてくれますよね」というように儚は言うと絵を差し出した。
 いつものようにそれを受け取り「疑ってないよ」と僕は微笑んだ。

 儚が学校で恐喝まがいのイジメに遭っている。
 そう知った翌日、僕は休憩中無気力に机に伸びていた。彼女自身の心配と、彼女が店に顔を出すかの心配をしていた。
 イジメにも色々ある。クラス全体が加害者なのか、加害者は単独なのか、単独だとしてもクラスや先生は見て見ぬ振りをしているのではないか、恐喝以外に何かされていないか、物を壊されたり、心だけでなく身体まで傷付けられたりしていないか、二学期からは学校に行けないのではないか、ここにももう顔を出さないのではないか、またあのような事をしようとするのでは……。
 僕はガバッと身体を起こすと、学校に、ご両親に、儚に、店長に、自分の両親に、とにかく誰かに相談しなければいけないような感覚になり、頭の中でグルグルと色んな言葉が入れ替わり差し替わり現れた。
「何してるんですか?」
 不意に扉が開くとそこから声が聞こえた。
「……儚ちゃんっ!」
 僕は今、すごい情けない顔をしているのだろう、儚が呆れたような目でこちらを見ながら溜め息をついている。
「昨日の事なら、耐え忍んで見せます。もう六分の一しか残ってないんですから」
 儚はそう言うと僕の立っているその隣に腰を下ろした。
 だけど僕は「六分の一」と言う言葉に顔が歪む。つまり二年と半年をそうして彼女は過ごしてきたという事だからだ。
「でもあと半年です。……あの時みたいな事、私、すると思いますか?」
 まるで「信じてくれますよね」と言うように彼女は言う。だから僕は「疑ってないよ」と申し訳なく返した。
「それより、明さん、今日は何の花を教えてくれるんですか?」
 儚は足をぶらぶらさせる。
 僕は「はいはい」と苦笑すると、少し唸る。一日一花とこだわらなくても教えられるくらいには頭に入れてある。だから今最も伝えたい花言葉を思い浮かべた。
 僕は思い浮かべた花の写真を本から探し出すと、儚の前に差し出した。
 小低木で美しい形の尖った濃緑色の葉、一センチに満たない濃紫色の小花、形も色もバランスのとてもいい花の写真だ。
 それを気に入ったのか儚の頬が緩む。
「この花はヘリオトロープと言って、バニラ香っていう深みのある甘い香りがします」
 儚は説明をいつにも増して真剣に聞いている。
「別名『きだちるりそう、こうすいぼく』……花言葉は『献身』」
 僕はそこまで言うと儚を真剣に見据えた。
 僕の視線に気付いた儚は、花言葉の意味も合わせて目を丸くした。
「儚ちゃんが我慢しなければいけないなんて、可笑しいでしょ」
 僕は真面目な表情でそう伝える。そんな僕の言葉を儚は黙って聞いてくれている。
「僕に何かできる事ないかな、頼りないかもしれないけど……力になりたいんだ」
 儚は唇を噛み、何かを耐えるように僕から視線を外した。
 僕はまた困らせてしまっただろうかと、でもこの女の子の為に何かをしてあげたいと思う気持ちは止められない。
 だけど次の瞬間、儚の目からは涙がポロポロと零れていた。
 困るどころか嫌がられたのだろうか、僕は衝撃を受け焦りで言葉が上手くでてこなくなった。
「ごめん!泣かないでっ困らせるつもりは……っその!」
 慌てて弁解すると、儚は首を横に振り、涙を流したまま僕を見て嬉しそうに笑った。
 その嬉しそうな笑顔は僕が都合よく解釈したものかもしれない。でもこの瞬間、その笑顔を見て、僕は本当にこの子の事が好きなのだと自覚した。

 儚はいつものように僕が目を覚ますのを待っていた。最近では少なくなっていたのに、今日は思い出している間眠りについてしまったようだ。
「(眠ってしまう事ないのに……)」
 僕は不満そうに起き上がる。
 儚はこちらを見て「おはようございます」と微笑んだ。
 僕は「おはよう……」と少し照れながら返す。だけど今まで誤魔化そうとしていた気持ちを自覚したからか、少し余裕がある気がする。
「僕、どのくらい寝てた?」
 目を伏せて聞くと、儚は「三十分くらい?」と時計を見て答えた。
「暇だったでしょ?ごめんね、寝てばっかりで」
 自分が嫌になる。一緒にいられる時間をこうして削るなんて、儚はわざわざ来てくれているのに。
「いえ、明さんの本当に無防備な姿、それを見られて楽しいです!」
 儚は目を輝かせながら答えた。
 僕は寒気が走る。「弱みでも握る気か」と言いたくなるくらいの怪しい笑いを嬉しそうに浮かべていた。
「はい、これ次の花」
 儚は僕の様子など気にも留めずまた絵を差し出した。
「『ヒマラヤゆきのした』でしょ?」
 僕はそれを受け取りながら自分の浅はかさに呆れながら答えた。
「え、もう思い出したんですか?」
 儚は少し驚いたように首を傾げる。
「これだけはね……」
 僕は俯き絵を見ながら答える。肉厚でつややかな大ぶりの葉に対して、可憐な花を咲かす。太い花茎、先端にはピンクの五弁花の集まり、まるで華やかなかんざしのような見た目をしている。別名『大岩団扇』。
「花言葉は、『秘めた感情』。明さんには珍しいですよね?」
「……ふぇ?」
 僕は思わず変な声を出た。
「いつも状況に合った花言葉の花を教えてくれてましたよね?」
 儚は首を傾げ僕に聞いてきた。
「そうだっけなー……」
 嘘は苦手だ。これも状況、もとい自分の心情に合わせて選んだ。今はまだ儚への気持ちは秘めておかなければいけない。一応大人と子供、そんな理由ではない。彼女の抱える問題を取り除きたい、余計な感情を挟んで一緒にいられなくなるのは困る。そう当時考えこの花言葉にしたのだ。
「そうですか?うーん、じゃあ次の絵に行きましょうか」
 儚には珍しく簡単に引き下がり、本日最後の一枚を差し出した。
 僕は内心ホッとした反面少し複雑な気持ちが残る。
 赤や紅、ピンク色の花、茎は硬そうな色合いをしている。茎は木質化、草丈の高いものは半低木状になる事もある『ゼラニウム』。葉は魚臭く虫がその匂いを嫌うという。別名『天竺葵』。
「天竺葵は儚ちゃんが写真を持ってきたんだよね」
 僕は思い出に頬を緩ませながら聞いた。
 儚は「はい」と楽しそうに答える。
 だけど僕は花言葉を思い出し少し考えこむと、何かを決めたように儚を見た。
「あのね、儚ちゃん、ヘリオトロープの話をした時も言ったけど……」
 儚は黙って聞いていた。
 真剣に話を振れば黙って待ってくれる、すごく安心した。
「僕、出来る限り助力するよ、……間違ってる事を放っておいていい筈ないんだから」
 押し付けがましいかもしれない。先程の話を蒸し返しただけかもしれない。だけどゼラニウムの花言葉の前で、儚が送った花言葉の前で情けない事を言いたくはなかった。
「……本当は儚ちゃん、ゼラニウムの事知ってたんでしょ?」
 儚は目を丸くすると、すぐ苦笑した。
「『尊敬と信頼』、ピッタリですから」
「勿体無い言葉をありがとう」
 尊敬されるような存在か、信頼できるような人物か、そのような事を自己評価しても仕方ない。ただ儚が僕をそう見てくれるのなら、その言葉に恥じないような人間になれるように努力したいと思った。
「明さん、頑なすぎです」
 勿体無いと評した事に儚は唇を尖らせて言う。
「儚ちゃんには言われたくない」
 僕はすぐ苦笑した。それに合わせて儚もクスクス笑う。
 ひとしきり笑うと、どちらともなくそれが止んだ。すると儚が悲しげな微笑を浮かべた。
 僕は首を傾げ「ん?」と声をあげる。
「自分の考えを、何があっても曲げないでくださいね」
 儚はそう言うと立ち上がる。
 時計を見てみれば想像よりはるかに時間が経っている。また儚と別れる時間が来たのだ。
「うん、頑固だから大丈夫なんじゃない?」
 僕は悲しみを隠し面白おかしくそう返した。本当は、簡単に割り切れない事が待っているのだろう。だけど僕はそれから目を逸らし、儚からも目を逸らした。
「絶対、変わらないでくださいね」
 何かを念押しするように、儚はずっと「僕に僕であれ」と願う。
 それを約束できるのかわからなくて、約束したくなくて、辛くて、僕は俯いた。
「明さんが好きなの、だからそのままでいて欲しい……」
 一瞬頭が真っ白になり、次の瞬間僕は逸らした目をすぐ儚に向けた。自分は今すごく情けない顔をしている、それがわかるくらい心が乱された。
「儚、ちゃん……」
 小さく声をあげるのがやっとで、それを見て儚は苦笑すると、いつものように手を振って病室をでていった。
「どうして今頃……っ」
 心の底に引っかかって取り出さない記憶が、僕にその言葉を呟かせた。