記憶の花:06.くちなし

 昨日の儚は何かが可笑しい。一日経って改めてそう感じた。
 だけど今目の前にいる両親にその事を相談しようとは思えなかった。やっと一安心して家に帰れた二人に心配をかけたくない、本当なら休みを返上して見舞いに来ている二人を止めたいくらいなのだから。
 そうして考えていると、段々困ってしまい僕は後ろ髪を撫でた。
 しかし父は僕の考えている事を透かしていた。そして悩みを相談するつもりがない事も。だからか父はまだ面会時間の残っているうちに「帰るか」と切り出した。
 母はそれを批難したが、父の言いたい事を理解したのか、少し渋りながらも「何かあったら連絡しなさいね」と言って病室を後にした。
 僕は二人を笑顔で見送ったが、そのぎこちなさにまた心配された。
「……儚ちゃん」
 一人になった病室で僕は小さく名前を呼んだ。ただ儚の事を考えたかっただけで、返事は期待していなかった。
「はい?」
 期待していなかった返事が返ってくると同時に、病室の扉が開いて儚が顔を出した。
 僕は目を見開き驚いた。しかしそれもすぐ落ち着いた。
「神出鬼没」
 二つ目の呟きに儚は「そうですか?」と笑いながら、病室の中へ入ってきた。
 僕はいつもの儚だと感じて苦笑した。昨日は体調が悪かっただけかもしれない、屋上やフェンスに何か嫌な思い出があるのかもしれない、そう思う事にした。

「土曜日なのに学校だったんだね、無理しなくていいよ?」
 いつもと同じ制服姿の儚に僕は何気なく言った。
「全然、それに今しか余裕がないので」
 儚は少し言葉を濁しながら微笑んだ。
 僕は「そう?」と申し訳なく返した。高校三年生の二学期、確かにこの時期しか余裕がないのかもしれない。
「明日も制服で来ます、色々あって制服着ない日がないので」
 儚は笑顔で答えると、持ってきた画用紙を見ながら「うーん」と唸った。
 日曜も学校なのかと、僕はただ感心した。それだけ真面目に受験に取り組んでいるのかもしれない。
「今日も三枚持ってきました。はい、まず一枚目」
 儚は楽しそうに画用紙を一枚差し出した。
「無理してない?」
 僕は思わず言った。
 よほど心配そうな表情をしてしまったのか、儚は少し困ったような顔をした。
「大丈夫です、それに」
「今しか余裕がないので?」
 僕は彼女の言葉を遮るように先程聞いた言葉を言った。
 儚は「はい!」とまたニコッと微笑んだ。
 気になる事は沢山ある、だけど心のどこかで聞く事を拒んでいた。だから僕は「ならいいんだけど」とだけ返して受け取った絵を見た。
 『のばら』と書かれたそれは、少し地味な木でありながら白い五弁花が咲くと一転して華やかになるバラ科の花。別名『のいばら』。
「花言葉は、『詩・才能』。僕が儚ちゃんの花だねって言った花」
 僕は懐かしさに頬が緩んだ。実際は一ヶ月経っているかどうかなのに、忘れていた事実が遠い昔の記憶のような錯覚を生んだ。
「私が才能なんてないですって言っても、明さんは折れてくれなかったですよね」
 儚は少し唇を尖らして少し不満そうに目を細めながら答えた。
「儚ちゃんには言われたくない」
 僕も意地悪くそう返すとベッと舌を出す。そんなやりとりがしばらく続き、またどちらともなく二人で笑った。
 笑いが収まった所で儚はまた一枚差し出した。
 僕は苦笑しながらそれを受け取り、また絵を眺めた。
 今度はピンク色の花が円錐形に集まっている『おいらんそう』。他にも赤や朱色の花もある。気どりのない花だがそこが庶民的で可愛らしいハナシノブ科の多年草。別名『くさきょうちくとう」。
 僕は絵を見ながらクスクスと笑った。花言葉の『温和』を彼女は前回の事に懲りる事もなく僕の花だと言っていた。
 儚はそれを覚えているのか、僕の様子にムッと頬を膨らませ「絶対そうです」と断言した。
「出会った時もだけど、いつも慌てているのにどの辺りが温和?」
 苦笑しながらさりげなく口にした言葉に、僕は「え……」と口元を抑えた。儚が驚いたように僕を見ていたからだ。
「お、可笑しいな、出会った時の事、覚えてないのに……」
 僕は動揺してぎこちなく笑いながら、自分自身の矛盾を指摘した。
 だけど彼女は否定する事はせず、僕を見るだけだ。まるでそれ以上の言葉を待つかのように。
「僕、慌ててたって事?出会いは最悪だったみたいだけど……」
 僕はまた苦笑いを浮かべながら聞いた。
 儚は小さく頷いて、少し考えると今度は複雑そうに笑った。
「あの状況で落ち着いていられる人はある意味すごいです」
 僕は「そうなんだ」と返し、まだ何か思い出せないかと腕を組み唸った。だけどそれ以上は何もでてこない。
「でも私は、最悪だったなんて思ってないですよ」
 儚は首を少し傾け笑顔で言った。
「……うん」
 出会った時の印象が最悪だったのではないかと、僕は心のどこかで思っていた。だから、まだパズルは終わっていないけれど、すごく嬉しくて、照れくさかった。
「私、止めてくれたのが明さんで良かったって思ってるの、本当ですよ?」
 儚は立ち上がり悲しげに微笑むと、まるで表彰でもするかのように三枚目の画用紙を差し出した。
「止めてくれたって……?」
 僕は差し出された画用紙を受け取る事を躊躇した。これを受け取ったら彼女は帰る、それがわかったからだ。この疑問に答えて欲しかった。
 けれど彼女は答える事はなく、画用紙をそのまま置くと「また明日」と告げて踵を返した。
「儚ちゃん!」
 僕は身を乗り出すようにして名前を呼ぶ。
 すると儚は一回振り返って、またニコッと微笑んだ。しかしそれだけで、手を振りながらそのまま行ってしまった。
 僕は成すすべもなく病室に取り残され表情を曇らせる。答えられないような事なのだろうか、それともただの謎かけなのか。
 考え事をしていると、またドアが開いた。視線をそちらに移すと、そこには看護士が立っている。
 僕は嫌な予感がして、何も言葉にできない。
「夜長さん、大声を出さないでください」
 呆れているような表情で看護士は言った。
「す、すみません」
 予感が当たり、僕は俯きながら謝罪した。
 素直に謝ったのが良かったのか看護士は「気をつけてくださいね」とだけ言って去っていった。
 僕は胸を撫で下ろし盛大に溜め息をついた。自分の失態を怒られるなど目も当てられず、早く退院したいという気持ちがより強くなった。
 恥ずかしさを紛らわすように、自分の膝の辺りに置かれたもう一枚の画用紙を手に取った。それを眺めていたらまた頬が緩み、次第に顔が熱くなる。だから、彼女の前でこうならなくて良かったと思う事にした。
 その花は実が熟しても口を開く事はないから『くちなし』と言う名が付いた。絵は六弁の一重咲きだったが、一重とは違う表情を見せる種もある白いアカネ科の花。別名『ガーデニア』。

 前半の労働を終えて休憩室に入ると、そこにはもくもくと絵を描く儚がいた。小さい紙ではなく画用紙だ。
 僕はそっと近づいて後ろから覗き込み、儚の肩に手をポンと置いた。
「何描いてるの?」
 笑いながら声をかけると、それに驚いた儚は声のする方向、つまり頭上を見上げるように反り返る。勢いよく反り返った為、儚は僕の腹部に頭突きするような形になった。
「いたぁ!」
「ぼっ、僕の方が、痛いからね……っ」
 僕は悶絶しながら頭を抱えて痛がる儚に言った。
「馬鹿になったら明さんの所為ですよ!」
「痛い上に僕が怒られるの?……まあ、その時は責任を持って勉強見てあげる」
 僕は痛みに顔を歪め苦笑しながら返した。
「ば、馬鹿にならないと見てくれないんですか?」
 儚は少し困ったように、更には残念そうに唇を尖らした。
「ん?受験勉強って事?儚ちゃんが行くような大学は僕じゃダメだろ」
 僕はそう言うとすぐ隣に座る。そして放っていた鞄を手に取り昼食を出した。
「大学受けるって言った覚えはないです、それに私が行くようなって何ですか」
 今度は不満そうな顔をして儚は顔を背けた。
 僕は心の中で「あ、拗ねた」と思った。それを口にすると彼女は不機嫌になるから言わないが、子供みたいに拗ねる所が可愛くて僕は気に入っている。
「機嫌直して?でも大学受けないんだ、専門?」
 僕は機嫌を伺うように顔を覗きこむと、話を続けた。
「何で就職はないんですか」
 儚はジト目で覗き込む僕の目を見た。
「え!就職するの!?」
 僕は驚いて立ち上がる。高校生の時の僕にはその選択肢は見えていなかったから、置いていかれたような気持ちになった。
 しかし儚はこのような反応をするとは想定外だったらしく、少しうろたえている。
 僕は何かがおかしいと感じて首を傾げた。
「いえ、大学ですけど……」
 儚はまた顔を背けると、言い辛そうに呟いた。
 驚きのあまり立ち上がってしまった僕に言い辛いのは当たり前だろうと思う。
「えっと、うん、勝手に驚いてごめん」
 僕は申し訳なさそうな儚を見ながらゆっくり座った。
 だけど変な空気が残ってどちらも口を開かない。
 その空気に耐えかねて僕は「あー、儚ちゃん?」と、とりあえず声をかけた。
 儚は目を伏せたままこちらを振り返る。
「ど、どこの大学受けるかは、決まってるの?」
 早くこの空気を打破したくて僕は内心焦りながら質問した。しかし焦りすぎて話題を変える事ができず、嫌な汗をかく。
「そ、それは……」
 何かを躊躇った儚はまた顔を背け、思わず僕はやってしまった……と頭を抱えたくなった。
 だけど儚はゆっくりこちらを振り返る。うろたえたままこちらを見る儚に、内心何を言われるのかと不安がこみ上げた。
 僕は平静を装いながら「……ん?」と首を傾げた。
「い、家から近いので!明さんが通っている大学を……」
 家を強調し、語尾を濁らせると儚は顔を真っ赤にして俯いた。
 その反応に僕もどうしていいかわからなくなる。「そうなんだ!」と返せばいいのか、「どうして?」と聞くべきなのか考えがまとまらず慌てていた。
「あまり遠いと……お、お父さんが心配するから……!だから現役の明さんに勉強教えてもらえたら、受かるんじゃないかな〜……って」
 いつまでも返事をしない僕にまるで言い訳をするように、儚は言った。
「そ、そうか、なるほどね!」
 僕は話を合わせるようにそう笑いながら返し、自分の後ろ髪を撫でた。儚の言葉を素直じゃないと、更には嬉しいと感じている自惚れた自分を正すにはそれしかなかった。
 儚は「……ね!?」と笑い返すと、少し視界を彷徨わせた。そして自分の描いていた花を思い出し、絵の横に置いていた花の写真を手に取った。
「それより!今日はこの花を教えて欲しいです!」
 慌てすぎだろうというくらい、目の前に差し出され、僕は思わず手でガードした。
「う、うん」
 僕はガードした手でそのまま受け取ると写真を見た。勉強済みの花で胸を撫で下ろす。
「これはくちなしっていうアカネ科の花で、実が熟しても口を開く事がないのが名の由来なんだ。別名はガーデニア」
 儚はまだ少しぎこちなさを残したまま「そ、そうなんですか!」と感心した振りをした。
 僕はそれに苦笑しそうになるのを堪える。
「これは一重咲きだけど、他にも八重咲き種とかあるんだよ」
 儚は少しずつ真剣になってきたのか声には出さず、うんうんと聞いている。
 それに微笑ましい気持ちを覚え、思わず頬が緩んだ。
「花言葉は、『私は幸せ』」
 花言葉を口にした時、僕はまるで自分の気持ちを晒したみたいでうろたえそうになった。でもこれは花言葉だ、自分がうろたえるのは可笑しいと必死に平静を装う。
 しかしうろたえそうになるという事は、確かにそれは自分の気持ちだからだと言う事で、そう考えれば考える程泥沼にはまっていく。そして何かに気付いた時、自分自身に驚いて顔を真っ赤に染めた。
「(女かっ!僕は女か!?違うだろ!)」
 僕は顔を背けると自分の頭をゴンゴン叩いた。乱心したとか思われてないだろうか、むしろ真っ赤になった顔を見られてないだろうか、振り返るのが怖かった。男らしくないとドン引きされていたりしないだろうか、僕はゆっくり振り返る。
「私は、幸せ……」
 しかし儚は僕の様子は気にしていなかったらしい、花言葉を口にしながら考えごとをしていた。
 僕はというと、ホッと胸を撫で下ろした反面、気にされてない事が複雑で熱が嘘のように引いた。
「いい花言葉だよね」
 僕はそう呟くと、昼食のパンの封を開けた。休憩時間ギリギリだったのもあるが、それ以上に何か空しさを感じて、口に押し込むようにパンを貪った。
「ふう……じゃあそろそろ仕事戻るね」
 強引にお茶でパンを流しこみ、僕は立ち上がる。
 すると儚はいつものように「はい」と返事をするでもなく僕を見上げた。
 何か言いたい事があるのだと察した僕は「ん?」といつも通り返す。
「くちなしって最近の私の花です」
 儚はそれだけ言うと自分の描いていた絵に視線を移した。照れているのか耳が真っ赤だ。
 僕は少しポカンとしたが、また真っ赤になった顔を隠した。
「幸せなのは、良い事だよね!」
 それだけ言うと、僕は居た堪れなくなって休憩室を後にした。

 手繰り寄せた記憶に僕は現実でも真っ赤になって顔を隠す。今までも何度か自惚れそうになるのを抑えようとしていた。
 だけどそれは、どこかでそうあって欲しいと思っていたからだろう。そう考えるとこみ上げてくる羞恥心に、穴があったら入りたい気持ちでいっぱいになる。
「……二歳しか違わなくても、僕は大人なんだからっ」
 自分に言い聞かせるようにブツブツと唱えると、身体を横たえ寝返りをうちそのまま目を瞑る。すると瞼の裏に、記憶の中で儚が描いていた『くちなし』の絵が浮かんだ。
「……あれ」
 僕は飛び起きると今眺めていた『くちなし』の絵を見た。
「記憶の中では描きかけだったけど……」
 その絵は間違いなくあの日彼女が描いていた絵だった。
 無理ではないというのは、描きためた絵を持ってきているからだったのだろうか。それならそれで、心配事が一つ減る。
 だけど彼女は以前、『絵が上手く描けなくて、遅くなっちゃいました』と言っていた。あれは嘘だったのか、それとも、あれは本当にあの日描いた絵だったのか……。
 たいした事ではないはずなのに、僕は言いようのない不安を感じずにはいられなかった。