記憶の花:03.イベリス2

 高校はもう二学期に入って十日目だという、儚は大概の子が休みボケしているような中、毎日来ると言っていたのを知った。しかも絵を持って、本人どころか親御さんにも申し訳ない気持ちになる。だけど現状に甘えていたいと思ってしまう自分もいる。
「弱ってるな……僕」
 何より儚は三年生じゃなかっただろうか。夏休みは花屋に遊びに来ていたと言っていたし、受験勉強しなきゃダメなんじゃないだろうか。
「……どうして僕、儚ちゃんが三年生だって思ったんだ?」
 だけど彼女が高校三年生だと何故わかったのか疑問に感じて、今度はその事を考え始める。もしかして記憶が戻ってきているのかもしれない。
 しかし、眉間にシワを寄せ、唸り声をあげながら何かを搾り出そうとするが、忘れた記憶は何もでてこない。むしろ形もわからないのに探しようがない。
「あ、花を思い起こせばもしかして……」
 ペチュニア、赤い花、順番に絵を見ながら何かを思い出そうと考えてみる。だけど少しズキズキと頭が、それに心が痛むだけで思い出せはしない。この感覚が辛くてやめようかと思ったが、このままではいけないと自分に言い聞かせ、イベリスの絵を見た。
 イベリスの絵を目に焼き付けて、目を瞑る。するとフワフワとした感覚の中で、何かが見えた気がした。
 見えてきた記憶はほとんどが花屋の事だった。しかも相当古い記憶だ。高校を卒業して、この町の大学に通う為に一人暮らしを始めた頃、つまり二年前。花屋でバイトを始めた頃の事や店長の変な武勇伝、思わず笑ってしまうほど可笑しくて大切な僕の思い出だ。
 だけど思い出した記憶の中に儚はいない。それどころか、ここ二ヶ月の記憶は戻らなかった。
「……イベリスは儚ちゃんに教えた花なんだろ?」
 僕は自分に問いかけるように絵を眺め、そしてもう一度目を閉じた。少し頭が痛む、だけどそのまま痛みに身を任せた。

 晴ればれとした夏空、照りつける太陽が眩しくて暑い七月の終盤。
 僕は自転車を漕いでいる。仕事着である黒いエプロンをやたらと気にしているのは、口に咥えているアイスキャンディーのせいだ。垂れそうになる度片手でアイスの棒を持ち遠ざける。
「この炎天下の中、買出しとか……店長の鬼……」
 籠には無造作に放り込んだコンビニの袋。その中には適当に選んだアイスが三つ、それにスポーツ飲料水三本。この暑さじゃアイスはドロドロに溶けきり、飲料は温くなりそうだ。ちなみにアイス一つは開封済みで僕がもう食べている。
「ま、知ったこっちゃない」
 僕は温い飲料を飲む羽目になる同僚や、ドロドロに溶けたアイスを冷凍庫に入れに行く店長の姿を思い浮かべて意地悪く、そして楽しそうに笑った。
 花屋のすぐわきに自転車を止めて鍵を取る。鍵には熱が篭っていて指がジュワッと熱せられる、思わず顔をしかめ急いでそれをズボンのポケットにしまい、籠の袋を持った。
 早く店へ避難しようと駆け足になる、しかし店の入り口の前にお客さんを見つけた。
「やば……」
 僕は慌てて口に咥えたままだったアイスの棒を袋に放り込んだ。心の中で食べきってて良かったと胸を撫で下ろす。
「当店に何か御用ですか?」
 いつも通りの接客用スマイルで声をかける。しかし振り返ったお客さんの顔を見て「あ」と声をあげる。顔見知りのその少女は、正直緊張するしかない相手だったからだ。
「これ、渡したのは貴方です」
 少女は少し仏頂面で僕を見上げている。手元には店で配っていた赤い花のポストカード。僕のお気に入りの花で何枚か貰っていて、エプロンのポケットに一枚忍ばせていた。それを少し前に偶然出会ったこの少女にあげたのだ。
 僕は少女の目的が分からなくて冷や汗をかく。だけど僕は何も悪い事はしていない。だからあくまで大人の対応を心がけようと少し深呼吸をした。
「それで、今日はどうしたの?あ、花を見に来たの?」
 少女はビックリしたように途端赤面した。
 予想外の反応に僕もビックリする。だけど少し安心した。
「なんだ、花を見に来たのか」
「ち、違います!」
 少女は身体全体で否定した。
「じゃあこの間の事を咎めにきたの?」
 普通に言ったつもりだったが、自分の正しいと思っている事が否定されるのは辛い。思わず表情や声色に悲しみを滲ませてしまった。
「…ッ、それも違います!」
 少女は困惑しながらそれを否定した。
 僕は良かったと思う反面、まだまだ大人だという自覚に欠けていると申し訳なく思った。
「ただ、これ、何の花か、知りたくて……」
 少女は頬を膨らませポストカードを差し出した。
 本当にそれだけの理由なのかは分からないけれど、花の事なら花屋で聞くのが一番というのは確かだと思った。
「そうか、ごめんね。でも可笑しいな、確か名前書いてあるはず……」
 僕は少女からポストカードを受け取って名前の書いてあった所を見る。すると見事にその箇所だけ破けてしまっていた。
「ああ……そうかずっとポケットに入れてたから」
 僕はポストカードを返しつつ言い訳がましく呟いた。
 少女は「名前わからないんだ」と残念そうな顔をしている。
「ごめんね、勉強しとくからまた今度聞いてくれるかな?」
 僕はそう困った風な顔で告げる。だけど本当は、その花の名を知っていた。知っているのにあえて教えようとしなかった。
 理由はその花がヒガンバナ科だった事だ。彼岸花は異名が多く、「死人花」「幽霊花」など呼んで日本では忌み嫌われている。欧米では園芸品種が開発されていても、日本は違うのだ。もちろんヒガンバナ科というだけの理由ではなく、彼女との出会った時の事が関係しているのだけれど。
「(ま、店長に聞かれたらそれまでだけど……)」
 僕は後ろ髪をくしゃくしゃと撫でた。納得してくれず店長に聞かれたら、芋づる式に何を思って黙っていたか判ってしまうだろう。それで怒ってくれればいいが、傷つけてしまうかもしれない。それは本意ではない。
「……わかった、じゃあ、あの白い花は?」
 少女はポストカードの赤い花の事は諦めて上を指差す。それは「花屋イベリス」の看板、文字の横に白い花が描かれている。
 僕はホッと一息つく。そして彼女の指差すものを見上げた。
「あれはイベリスだよ」
「イベリスって花なの?」
 少女は看板を見上げながら感心したように声をあげる。
「うん、それと花言葉は、心をひきつける」
 僕は横に立ち看板を見上げながら言う。そして少女の答えを待つように視線をおろした。
 少女は僕の方を一瞬見たが、すぐ赤くなって看板に視線を戻した。
 その仕草が小動物みたいで可愛くて苦笑する。だけど手に持っているものを思い出して、我に返る。
「……とりあえず中入る?君も暑いでしょ?」
 少女は店に入ろうとする僕の腕を掴んだ。思わず「え?」と声をあげて彼女を見ると、少し不満げな顔をしていた。
 こんなに高校生って難しい年頃だったろうか、それともたった二年で様変わりしたのか、とにかく何が気に触ったのか僕にはわからなかった。
「君じゃないです、立木 儚です。夜長 明さん」
 不満げな彼女の口からでた言葉は彼女自身の名前と、僕の胸元にあるプレートに書かれた僕の名前だった。
 僕にはよくわからないけれど、「君」と呼ばれるのが不服だったようだ。とことん難しい子だなと少し苦笑した。
「儚ちゃん……か、うん、覚えた」
 そういえば自己紹介はしていなかったなと思う。するような出会いでもなかったのだけれど。
 扉を開け、お客さんである儚に道を譲る。そして後に続いて店に入り、「ただいま戻りました」と僕は声をあげた。
「いらっしゃい」
 店長は僕より先に儚に声をかける。当然といえば当然だが僕はお辞儀する儚の横から「はい、所望品」と袋を手渡した。そして店内をキョロキョロと見回す。
「……あれ、帰っちゃったんですか?」
 辺りを見回すと同僚の姿がなく僕は不満げに言った。代金は店長が出してくれたものだから別に構わないが、なんとなく腑に落ちない。
「ああ、なんか急用で……よければアイス食べます?」
 店長は儚に僕の買ってきたアイスを差し出した。
「いいんですか?ありがとうございます」
 儚はアイスを受け取ると嬉しそうに微笑んだ。さっきまでとまるで様子が違い、僕は「女って怖い」と思う一方で、これが本来の彼女なんだと気付いて複雑な気持ちになる。
「(まあ僕との出会いは最悪だもんな)」
 そう肩で息を吐くように溜め息をついた。だけど、ある事に気付いて血の気が引いた。
「は、儚ちゃん!ちょっと待って!」
 しかし、僕の制止は間に合わない。彼女はドロドロに溶けたアイスを開封し、洋服を汚してしまった。

「儚ちゃん、もう開けても大丈夫?」
 従業員用の休憩室の扉を僕は遠慮がちにノックして、中にいる儚に問いかける。
「大丈夫です」
 儚から許可を得た僕は扉をそっと開けると、そこには僕が仕事前に着ていた服を着た儚がいた。思った通り随分とズボンの裾が余っているし、袖も長い。見ているとますます申し訳ない気持ちになった。今は夏だ、汗を吸っているだろうし、まして男の服だ。女の子に貸し出すのに抵抗を覚えるのは当然だと思う。
 しかし儚は今の状況を思ったより楽しんでいるらしい、普段着ない服にかなりご満悦だ。
「(何が楽しいのかよくわからん……)」
 僕は口の端をヒクつかせ、苦笑いを浮かべた。
「本当に借りていいんですか?」
 儚は僕の気持ちなど気にせずこちらをキラキラとした眼差しで見た。
「儚ちゃんが嫌じゃないなら、僕がもっと早く気付けば止められたのにごめんね」
 僕は二度目の謝罪をすると、手近にあった自分の鞄から財布を取り出した。そして一枚入れてあったお札を取り出すと、一回固唾を呑む。しかし自分が招いた不祥事の責任は負わなければと覚悟を決める。
「クリーニング代って千円で足りるかな?僕使った事なくてさ……」
 儚は首を傾げる。
「何かクリーニングに出すんですか?」
 僕はずれた返答に、「ん?」と沈黙した。今の話の流れで僕自身がクリーニングに出すようなものはあるだろうか、いや、ない。
「……どう考えても君の服だよ?」
 僕が苦笑しながら答えると、「君って呼ばないで」と儚は唇を尖らせ不満そうにした。
「……儚ちゃんの服を、クリーニングに出さないと」
 僕は何がそんなに不満なんだろうと頭を抱えながら、言い直した。
「あ、そうか、気にしないでください」
 儚はようやく事情を飲み込むと顔の前で手を振った。
 一人暮らしをしている僕からすれば確かに魅力的な言葉ではあるけれど、僕の中でそれに甘えるのは正しい事ではない。
「そういうわけにもいかないよ」
 僕はとりあえず千円札を儚に差し出した。
 儚は差し出された千円札を見つめながら複雑な表情を浮かべると、悲しげに顔を歪めた。
「でも……お金はいいです」
 千円札を差し出す僕の手を押し返すと、儚はクルッと反対方向を向いてしまった。
 僕は戸惑いながらも、彼女を困らせてまで渡す事が正しい事とは思えず腕を下ろす。そして後ろ髪を撫でながら唸る。ただ引き下がる事だけが正しいとも思えない。
「困らせてごめん、でも何かお詫びできないかな?」
 儚の方を真っ直ぐに見つめながら、真剣に聞いた。何をしても不満を抱かせてしまう僕には、彼女にできるお詫びが思いつかなかった。
 儚は小さく「花」と呟くと、こちらを振り返る。
「花の事とか知りたいな、花言葉とか……それ以外にも色々」
 彼女の要望は花屋でバイトをする僕に合わせたような内容だった。
 だけど、「私が来たら、一日一花!」と楽しそうに提案する儚の様子に、僕は自然と笑みが零れた。
「そんな事でいいならいつでもどうぞ」
 僕の返事を聞いて、彼女は嬉しそうに「約束ですよ」と小指を差し出す。
 だから僕も「うん、約束」と、同じように小指を差し出した。