ご主人様は猫

 青い瞳を持った黒猫が一匹いた。
 その黒猫は『ルゥ』と書かれた青いリボンを首に巻いている、恐らく名前だろう。
 ルゥは見知らぬ場所への不安から二日間鳴き続け、今は身を縮めてブルブルと震えていた。 本能で自分がどうなるのかわかったからだ。
 ここは保健所。 動物から見たら死を待つだけのただの牢獄だ。
 新たに来た動物達も鳴き続ける。 そして三日目になれば殺されてしまうのだ。
 そんな時、ルゥの入る檻の扉が開いた。 遂にルゥが殺される番が回ってきたのだ。
 しかしそれを恐れたルゥは逃げ出した。 怖かったから、自由になりたかったから逃げ出した。
 でも逃げ出した最大の理由は、もう一度優しい主人に会いたかったからだった。
 だが無情にもルゥは逃げられなかった。 『人を襲う危険性のある動物を逃がす訳にはいかない』 そう決まったこの時代の役員は猟銃を所持していたからだ。
 『ドンッ』という鈍い音と共にルゥの足に激痛が走る。 この小さい身体では普通なら即死だろうか……。
 しかしルゥは生きていた。 蹲って震えていたが、それでも蚊のなくような声で鳴き続けた。
「(もう一度、会いたい・・・)」
 だけどルゥは抵抗する術もなく、そのまま殺されてしまった。

一話:苦しい再会

 ここは薄暗い牢獄。
 一心不乱に叫ぶ人、身を縮めて怯える人、どの人もそれ以外の行動は起こさない。
「毎日毎日増殖してさ、どれだけ人間って動物を不正に殺してるわけ?」
 垂れた犬のような耳を生やした青年が牢を覗きながら言った。 だが言葉とは裏腹に楽しそうだ。
 それを聞いていた猫のような耳を生やした青年は首を横に振った。
「保健所送りにした人間も含まれてるのでしょう?どれだけの人間が殺してきたかなんて、オレにはわかりません」
そう答えるとコホコホと咳をした。 だがそれだけに留まらず足に痛みが走り顔を顰めた。
「"ルゥ"は銃で足を撃たれてから殺されたんだっけ?その恨みここに居る人間で晴らしちゃえば?」
 犬耳の青年はクスクスと笑った。 牢の中にいた人間はそれに恐怖しビクビクと震えている。
 しかし猫耳の青年―ルゥはその人間を一瞥すると首を振った。
「オレは……シェト先輩とは違いますっ」
ルゥはそう言い放つと再び咳き込みながら牢屋を後にした。
 犬耳の青年―シェトはルゥの後ろ姿を眺めながら「ふーん」と軽く笑った。
「折角"生前の恨み"を人間に思い知らせるチャンスなのに、勿体無いね……」
シェトはそう言うと早々に仕事を終わらせルゥの後に続いた。
 ここは動物が支配する死後の世界なのだ。

 仕事を終えたルゥはフラフラとしながら家路を急いだ。
 動物のような耳や尻尾を生やした人のような生き物。 その生き物に連れ歩かれる首輪をつけた人間。 ルゥはそれらとすれ違う度吐気がして壁に寄りかかっていた。
「(気持ち悪い……ッ)」
 飼われている人間達は生前を忘れている。 生前、動物を不正に殺さなかった者達、保健所に送られてる人間達とは違う。 来世まで苦痛なく生きる事を許された者達なのだ。
 彼らは人とも動物とも呼べない中途半端な生物に何の躊躇いもなく従っている。 そして中途半端な生物は生前飼われていた時のように人間を飼う。
 ルゥは自分がその中途半端な生き物の一部だと自覚する度口を抑えた。 口を抑えてなるべくすれ違う者達を見ないように家路を急いだ。

 一人で住むには不相応な二階建ての白い家がルゥの住居だった。
 フラフラとした足取りでどうにか家に辿りつくと、すぐに扉を開け鍵をかけると、すぐリビングに入った。
 広いリビングには白いグランドピアノが置いてあった。 ルゥはそのピアノの前に座ると生前聴いていた曲をひいた。
 最初のうちは不慣れな身体でここまでひける事にルゥは内心驚いていたが、 その音色はいつも悲しげだ。 そしてその悲しげな音色が嫌でルゥは指を止めるのが日課だった。
 頭をピアノに預け、鍵盤に置かれた手にはポタポタと涙が落ちた。
「……もう一度、会いたいっ」
ルゥは嗚咽をもらしながら泣きはじめた。
 叶わぬ願い、叶ってはいけない願いだと判っていた。 だけどルゥは生前の主人にもう一度会いたいと、この気持ちに心が締め付けられた。

 翌日、ルゥはリビングに差し込んだ光で目を覚ました。 ピアノに身を任せて寝てしまったようだ。
「……準備、しなきゃ」
ルゥはそう呟くと浴室へ向かった。
 服を脱ぐたび鏡に映る自分へ違和感を感じずにはいられなかった。 黒い耳と尻尾、そして青い瞳だけを残して、全てが生前とは違う。 人のような見た目だけど人ではない。 人のような見た目だから猫ですらない。
「(じゃあ、一体何……?)」
ルゥは目を伏せた。
 シャワーを浴び終え朝食を取っていると、家のベルが鳴った。 来客だ。
 誰だか見当の付いているルゥには気が重い。 しかし無視するわけにも行かず覗き穴を見る事もせずドアを開けた。
「おや?ルゥってば朝シャンかい?あまり遊び過ぎちゃダメだよ〜?」
 来客は彼の予想通りシェトで、ルゥは訝しげに彼を見ると「そんなんじゃありません」と反論した。
 だが同時に咳き込んでしまいルゥは口を抑える。 そしてシェトはその反応が面白かったのか愉快そうに笑った。
「本当君ってば面白いねぇ、全然猫っぽくない!」
 面白おかしく笑うシェトにルゥは思わず掴み掛かると「オレは……!」と何かを叫んだ。
 しかし、すぐ自信を喪失し掴んだ手を放す。
「オレは……猫、です……」
小さくそう呟くとルゥは固く唇を結びそのまま俯いてしまった。
 シェトは思わぬ反応に少し申し訳無さそうに苦笑した。
「ごめんごめん、猫ってとっつき難い印象があるから、思わずね」
それでもルゥは俯いて肩を震わせている。
 シェトはウッと唸ると、彼の肩をポンポンと叩きながら「ほらほら、機嫌直して〜!」と言った。 からかうのが好きなシェトだが、落ち込まれるとさすがに罪悪感を感じるようだ。
 なんとかルゥは顔をあげる。
「別に、落ち込んでなんか、ないです……」
彼は仏頂面で答えると踵を返した。
 リビングに戻ったルゥは朝食を用意するとそれを黙々と食べはじめた。 とても簡素な食事だ。
 放っておかれたシェトは、反対側の席に座ってそれを眺めていた。
「まだ何か用ですか……?」
 ルゥは思わず訝しげに聞いた。
「ルゥは冷たいなー、大体からかう為だけに来ると思う?」
 シェトがそう返すとルゥは「思います」と言ってそっぽを向いた。
「酷いなー……真面目なお話しにきたのに」
シェトは短い髪の毛をクルクルと弄びながら言った。
「え?」
 ルゥが首を傾げるとシェトは一瞬不敵に笑い、「実はこの間……」と耳打ちした。
「大型旅客機が墜落したらしいよ」
ルゥはそれが何を意味するのかわからずシェトの顔を見るが、 その表情は何かを試しているようで普段以上に苦手と感じていた。 だが普段しないような真面目な口ぶりに、何かよくない話と思わずにはいられない。
「その旅客機に、少女ピアニストとその両親が乗ってたって噂だよ」
シェトはそこまで言い切ると頬杖を付いた。
 ルゥはその言葉を聞くなり目を見開き、みるみる青褪めるとガタガタと震えていた。
「何で……そんな事、オレに言うんですか……?」
ルゥが首を振りそう返す。
「それは後々判るんじゃない?」
 シェトはそう言ってニッコリと微笑むと「じゃあ後でね」と言って帰って行った。
 ルゥはシェトの後姿を黙って見送ると爪が食い込む程強く拳を握った。

 今日の担当はここに来たばかりの人間の点呼だ。 とはいえ、我を忘れて叫ぶ人間達が呼びかけに答えるはずもなく、 担当者が顔写真と照合して確認していくしかなかった。
「(気持ち悪い……ッ、早く終わらせよう……)」
 何かを思い出す度コホコホとでる咳が煩わしい。 片手で口を塞ぎながら一つ一つ牢屋を覗き、手に持った用紙と照合していった。
 目が合う度助けを求めて手を伸ばされ、時には足や服を捕まれたりもする。 それを振り払うしかないとルゥは判ってはいたが、一つ一つの自分の行動に吐気がした。
「(同じだっ……オレも……あいつらと……)」
 ルゥは自分を捨てた主人を思い出し涙がでそうになった。 それを何とか堪えながら残り僅かになった資料に目を通す。 滲んだ涙によく見えず目を凝らすと、見覚えのある顔を目にしてルゥは硬直した。
 それは自分が大好きだった主人とは違う、だけどこれもまた自分の主人のもので戸惑いが隠せなかった。
「(どうして……ッ)」
ルゥは思い出したくない人物がすぐ傍にいる事実に、激しく咳き込んだ。 そんな矢先、何かに気付いた人間の一人がルゥの足を掴んだ。
 驚いたルゥはその方向に目を向けると、その人物の顔を見て背筋が凍る思いがした。
「お前ルゥだろッ俺達が判らないか!?」
「そのリボン"由良"のあげた物でしょう?ルゥ!助けてっ!」
 そう口々に叫んだのはルゥの飼い主夫婦だった。 青いリボンを見て咄嗟に思い出したのだろう。
 だがルゥには夫婦の言葉は届かない。 本当に自分の主人がいる事実に青褪める。 この夫婦が自分を保健所に送った、その事実が脳裏をよぎりとても正気ではいられなかった。
 ルゥは夫婦に話し掛ける事もなく、一心不乱にその場から逃げ出した。
「ル……ルゥ!?」
夫婦の声を無視してルゥは廊下にでると、そのまま化粧室に駆け込んだ。
 再び合間見えた事、違う目線で夫婦を見た事、何もかもが嫌だった。 そして自分を死に追いやった人物を、今度は自分が死に追いやる事実が苦痛だった。
「……っぅ」
 この世界で感じてきた嫌な感情がピークに達したのかルゥは嘔吐した。 吐いて楽になる訳もなく気分は更に悪化し、ルゥはボタボタと涙も一緒に流した。
「吐くのは結構だが扉は閉めてくれないか……」
 その場に居合わせた人物は冷たく言うとそのまま化粧室を出て行った。 だけどルゥにその人物を気遣う余裕はなく、その場にへたり込んだ。
 しばらくそうしていると化粧室の外から「そう言わないであげてください」と聞き覚えのある声がした。
 それを聞いた先程の人物は何も答えず去ってしまったようだが、聞き覚えのある声の人物は化粧室の扉を開けた。 そしてルゥを確認するとそっと近付き背中を擦った。
「大丈夫かいルゥ、君ってばデリケートなんだねぇ」
「シェト、先輩……」
 ルゥは涙に濡れた瞳をそっと向けると、シェトは微笑んだ。
「また僕に借りを作ったね、今度何をしてもらおうかなぁ」
普段通り笑いながら接するシェトを見てなんとかルゥは落ち着きを取り戻した。
 ルゥを連れて休憩室まで来ると、シェトは提案があるという風に彼の顔を覗きこんだ。
「ルゥ、三日くらい休暇を取ったらどうだい、もう会わない方がいいだろう?」
シェトは言い聞かせるようにルゥの手を握って言った。
 ルゥは一瞬戸惑ったが、再びカタカタと震える自分が嫌で弱々しく頷いた。
 自分を死に追いやった者達にこれ以上会いたくなかったのか、 会わない事で罪の意識から逃れられると思ったのか、 それは本人にすらよくわからない。 ただ判る事は、夫婦を見殺しにしたという事実だけだった。

 三日はあっという間に過ぎ、何事もなかったかのように生活が戻って来た。
 しかしルゥは見殺しにしたという罪悪感を感じずにはいられない。
「やられた事をやり返しただけだ、何が悪いの?」
 シェトはルゥの罪悪感にそう返し、クスクスと笑う。
 シェトはすでに元主人である『日賀』という人物を見殺しにしていた。 それどころかいたぶって笑っていた。
 中でも最悪だったのは『日賀』の足を銃で撃ちぬき、 その数日後に脱走者を容赦なく射殺した事だ。 ルゥは足の痛みと脱走というキーワードが重なり激しく取り乱し、 今でも忘れられない苦渋の記憶になっていた。
「そういえば、旅客機墜落事故、生存者ゼロだって」
 背中合わせに仕事しているシェトは不意にルゥに言った。
 ルゥはドキッと心臓が跳ねた。
「救出はされたが運ばれた先で結局死亡したってさ、ある意味即死だった方が幸せだったかもね」
 シェトは冷笑するとすぐ資料に目を戻した。
 ルゥはその言葉の先にある事実に気付きながらもあえて考えるのをやめた。
 もし本当に主人が……会いたかった人がこの世界に来たのだとしよう。 会えると言う事は、同時にその人が命を絶たれたという事だ。 ルゥは会えない事以上にその事が嫌でならなかった。
 今日も死んだばかりの人間を資料と見比べながら照合する仕事だった。 ここには動物を不正に殺した人間しか送られてこない、 だから大好きな主人がここに送られてくるはずはないと、ルゥは少し油断していた。 あの夫婦が自分を保健所に送ったのだからと……。 ルゥはこの世界の基準を知らずにいるのに。
 ルゥは一人一人照合しながらメモを取り一歩ずつ進んで行く、 すると彼の後ろ姿を見つていた赤茶色の瞳が声をあげた。
「ルゥ……?」
 ルゥは突然名前を呼ばれ心臓が跳ねた。 自分の名前を知っている、信じたくなかった。
 怖いものが待ち構えているかのようにルゥはゆっくりと振り返る。 その間も心臓がドクンドクンと脈打ち身体が震え、まるで時間が止まっているような錯覚も覚えた。
 そしてやっとの思いで振り返ったルゥの青い瞳が映し出したのは、優しい薄茶色の髪をした少女だった。
「……由良」
青い瞳は戸惑いを隠す事なく、その少女の名前を呼んだ。

...2008.12.04/修正01