Trente et Quarante

第八話:狂おしい想い/1

 王の悪政は思った以上に根強く、会議と対策に追われるうちに半年が経っていた。
 だけど目まぐるしく過ぎる時間の中で、ソレイユの頭の中を巡るのは全く違う事だ。
「何故、ノワール様を傷付けなかったのです」
 あの日、城に戻った彼にリオネルは言っていた。
 リオネルの提案はソレイユの望み通りの結果をもたらす。だけどソレイユはノワールを拒絶し逃がした。
「彼女が望むはずがない」
 ソレイユはそう返したが、実際は違う。
 ノワールはルミエールの心を傷付けたかもしれないが、彼女の幸せを脅かす程非道な事をしたわけではない。普通の人間なら誰もがやりかねない事をしただけだ。
 それなのにリオネルの提案を受け入れようとした。それどころか、一歩間違えば殺していたのかもしれない。
 気に入らないから傷付ける、まるで先代と同じだ。ソレイユは自分の中に流れている血を恐れていた。

 一日の終わりにソレイユは湯浴みをしながら、一人でいる事の安心感と一人を恐れる自分の矛盾に頭が可笑しくなりそうだと思った。
 だけど考えないようにすれば今度は自分に流れる血が怖くなる。自分の中にある問題は尽きる事がない。
 ソレイユは震えだした自分の身体を抱きしめる。
「……ふ、今頃」
 ノワールを傷付けようとするより前の出来事を思い出し、自嘲気味に呟いた。自分のした事も忘れているのかと可笑しくなって笑えてくる。
 これ以上考えてもどうしようもない、そう結論が及ぶと湯浴みを終えて浴室をでた。
 着替えを済ませ、今度は満足するまで香水をかける。だけどどれだけ誤魔化しても、彼自身は記憶してしまった香りを忘れる事がない。
 するとまた考えすぎて呼吸が苦しくなり、首を横に振ると真っ直ぐ鏡を見る。随分と情けない顔をするようになった気がして自嘲すると、諦めたように目を瞑り廊下にでた。
「またそのように香りの強い香水を……」
 廊下で待ち構えていたリオネルが顔をしかめる。
「当然のように待ち伏せするな」
 彼を見るなりソレイユも顔をしかめた。
 しかしリオネルは動じない。
「貴方は自然体が一番美しい、なら体臭も素晴らしいはずだ」
「物凄く気持ちが悪い」
 妙な事を言い出したリオネルに悪態をつくと、ソレイユは部屋に向かい歩き出した。
 するとリオネルはすぐ背後について歩き、ソレイユの濡れた髪を乾いた布で優しく撫でる。
「鬱陶しい」
 ソレイユは足を止めて恨めしそうに言う。
「美しくない貴方には価値がありません」
 リオネルは反論する。
 勝手に価値を決められ不満に思うが、ソレイユは何故か溜め息しかでなかった。
「見た目は違っても中身は先代と変わらない、お前はこの血が憎いはずだろう」
 何となくソレイユがそう返すと、リオネルは目を瞬かせてクスリと笑う。
「貴方にはあの馬鹿の者とは違い知性と、強い意志がありますから」
 それを聞いてソレイユは少し顔を伏せる。本当に強い意志があるのなら、今の自分を笑う必要などなかった。
「しかし、最近の貴方は意志が弱りつつありますね……」
 見透かされたように言われ一瞬肩を震わせる。
 それを見てリオネルは頬に手を伸ばす。しかし触れる事はなく、まるで美術品を愛でるように手を滑らせ、堪能し終わると深い溜め息をついた。
 触れられるのは気持ちが悪いが、触れもせずに恍惚とした表情を浮かべられるのも気味が悪いとソレイユは思う。
 しかし今日のリオネルはいつもと違う。息が届く程近く耳元に顔を近づける。
「返ってきているのでしょう?」
 リオネルは小さい声で意味深な発言をした。
 その言葉の意味が分かるソレイユの頬に汗が伝う。
「僕の分も覚えてくれていますか?」
 リオネルは耳元で囁くと、楽しげにまた何かを呟く。
 ソレイユは少し目眩がしたが、すぐに彼を見返した。彼の言うそれを忘れた事など一度もない。そしてそれがなければ、彼がこれほどソレイユを賞賛し仕える理由はなかった。
 それを見てリオネルは満足したのか目を瞑り一歩下がる。
 小さく息を吐くとソレイユは再び部屋に向かい歩き出す。だけどそのまま進ませては貰えなかった。
 リオネルは彼に背を向けて口元を緩めると、クスリと笑う。
「このままだと、貴方はどうなってしまうのでしょうね?」
 ソレイユは思わず身体を強張らせ、振り返る。
 しかしリオネルは彼を嘲笑うようにそのまま行ってしまった。

 部屋に戻ると、ルミエールがやんわりと微笑んだ。
「今日もお疲れ様」
 彼女はソレイユが戻る前に眠る事は少ない。眠っていたとしても戻れば必ず身体を起こして彼に労わりの言葉をかけていた。
「ううん……」
 強張った表情が和らぎ、いつものように首を軽く横に振る。半年間こうしてルミエールが待っていてくれる事だけが彼の救いだった。
 だけどそれは彼自身の幸せで、求めている彼女の幸せとは違う。少なくともソレイユはそう思っていた。だから幸せを感じる分だけ、焦りや不安が大きくなっていく。
「すみません、永遠の別れではないと言っておきながら……」
 王位に付いたのにその約束も果たせず、幸せにもしてあげられずにいるのがもどかしい。
 だけどその機会は自ら駄目にしたのだ、ソレイユは自嘲するしかなかった。
「それは、もういいの」
 ルミエールは悲しげに俯くと、力なく首を横に振る。彼女の想いはもう行き先を替えているのに、彼は今でもノワールに拘っているからだ。
 だけどソレイユは彼女が諦めているのだと解釈すると、唇を噛む。
 両国の関係はあの日以降も何も変わらない。両国の緊張は続いているが、ブラン王が抑止力となり今でも和平を諦めないでいる。
 恐らくノワールは兄には何も話していないのだろうと、ソレイユは思った。
「国同士を仲良しに、それを難しくしたのは私よね」
 ルミエールは自嘲気味に言う。
「それは違いますっ」
 ソレイユは困惑すると少し声が大きくなる。
 自身の所為でルミエールが傷付くのはソレイユには耐えられない。それなら自尊心を捨て、自分の言葉を撤回してでもノワールに縋る方が良い。
「和平は必ず結びます、自分を責めないでください……」
 まるで懇願するようにソレイユは彼女に願いでた。
 ルミエールは今にも泣きそうな顔をしているソレイユに驚き彼の手を触れる。
「貴方こそ自分を責めているじゃない」
 握られた瞬間、ソレイユの手が震えた。
「手を取り合う事を強制はできないわ。必ずなんて約束しないで」
 ルミエールは両手で彼の手を包むと優しく微笑んだ。
「だけどそうしないとノワール様は」
 再びソレイユは表情を曇らせるが、それはルミエールも同じだった。
 ノワールを想う気持ちに偽りはなかったとルミエールは思うが、その気持ちは幼い頃ソレイユに持ったものと同じように姿を変えている。
 だけどソレイユは頑なにノワールの名を紡ぎ、いらない負担を抱えていた。もう彼の事はいいと伝える事すら迷惑をかける事になるのではと彼女に錯覚させる。
「初恋は叶わないというけど……」
 ルミエールは小さく呟く。
「叶います、叶えてみせます! 姉上の願いだから……っ」
 ソレイユはなりふり構わず声を絞りだす。
「姉上って」
 ルミエールは目を丸くし、そしてまた悲しそうに顔を伏せた。
「え、あ、姉……のような存在って意味で……す」
 無我夢中だったソレイユは自分の発言に驚いて訂正する。原因は分かっていたが姉と口走ってしまった事に戸惑いが隠せない。
「そう、ソレイユは優しいわね、小さい頃からそう」
 彼の言葉にルミエールは苦笑いを浮かべた。
「だけど、やっぱり叶わないと思うわ……」
 しかしまた小さく呟くと俯いてしまう。
 それを見てもソレイユは困惑するだけで、彼女が悲しむ理由はわからなかった。

 夜が更けてもソレイユは目が冴えて眠れなかった。
 ベッドからおりてルミエールを見ると、自分の気持ちに何故かいつもとは違う形の罪悪を感じた。
「姉ではない、ルミエールは姉ではない……」
 ソレイユは首を振り、小さく復唱する。これではまた同じ事を繰り返して彼女を傷付けるからだ。
 彼女を傷付けたと感じた分だけ、ますます自分は弱くなる。そうなれば、リオネルの言う通りどうなるかわからない。
「陛下は、どんな男だった? 違うよ、最低な奴だった」
 自問自答して何度も何度も繰り返した。特に家族に纏わる事は入念に確認する。
 だけど無駄な足掻きかもしれない、これは完全に自業自得なのだから。
「ソレイユ……」
 そんな事を考えていると突然名前を呼ばれルミエールを振り返る。起こしてしまっただろうかと不安になった。
 しかしルミエールは眠っている。
 寝言なのだと気付くと楽しそうな彼女にソレイユは思わず顔が綻ぶ。
 だけど夢と寝言は一致しないと言うし、一致するのは危ないとも聞く。だから彼女の夢の中に自分がいない事を願う。
「きっと、この気持ちだけは残るのだろうな」
 ソレイユは胸に手をあて目を瞑る。そしてこの気持ちが自分を更に弱くしてしまうだろうと思った。

...2012.08.14