Trente et Quarante

第七話:決別/6

 ノワールと出会ったあの日以来、一度も踏み入れなかった湖にソレイユは一人佇んでいた。
 ルミエールとノワールの思い出の湖は、今のソレイユにとって忌むべき場所でしかない。彼女を傷付ける可能性の芽を潰さず、彼女の望んだ通りにさせてしまった事が悔しかった。
 ルミエールに対して共通の感情を持ちながら、ノワールは自分とあまりにも違う。ノワールは国も父も大切に想っているが、ソレイユはどちらにも情など持ち合わせていない。
 ソレイユはノワールの気持ちを理解するなど無理なのだろうと感じる。しかしそれでいいと思った。
「光の花、か、俺には一生縁がないだろうな」
 木に寄りかかり湖を眺めながらソレイユは呟く。
 争いのない所に降るという光の花を、彼は見た覚えがないし見たいとも思わない。だから今日という満月の夜を指定し、光の花が降らない現実に確信した。
 ノワールと手を取り合う事はないのだろうと。

 約束の時刻が訪れ、黒の国の方角から木々を掻き分ける音がした。
 一人の音にしては随分とうるさく、それが待ち人だけのものではないとソレイユは思う。
 そして予想通り、姿を現したノワールはすぐ後ろに数人の供を連れていた。
「お一人、ですか?」
 供を従えず一人で佇むソレイユを見て目を丸くする。
「ええ、ノワール様は随分と用心深いようですね。私が信用できませんか?」
 ソレイユは笑みを浮かべながら言う。しかしこれは自嘲ではなく嘲笑だ。
 ノワールは嘲笑に耐えかねて少し目を逸らす。
「この者達は勝手に付いてきたのです」
 直後、ノワールに睨まれ従者達は渋々来た道を戻っていく。
 ノワールはそれを溜め息混じりに見送り、ソレイユに向き直る。
「一国の主になられたのでしょう。もう少し用心深くあるべきなのでは?」
 王になる予定のない王の弟と、世継のいない王とでは明らかに立場が違う。
 だからノワールは思ったままを言い返すが、皮肉など言い慣れていない彼はどうしても目が泳ぐ。
 ソレイユは辺りに自分達しかいなくなったのが分かると、クスリと笑った。
「俺は何も変わるつもりはない」
 ノワールは再び目を丸くする。
 小さい頃丁寧に話をする事が苦手だったノワールは、同い年でありながらそれをこなすソレイユに劣等感さえ感じていた。むしろそれが素なのだろうかと考えた事さえあるのに、今彼は口調を崩している。
「どうして今頃、俺に素を見せるのです?」
 ノワールは聞いた。しかし打ち解ける為などという穏やかな理由でない事はわかる。
 ソレイユは肩を竦ませる。
「もう貴方と比べる目障りな人はいないので」
 父に関心を持たれないようにしていたソレイユにとって、黒の国の王子であり同い年のノワールは比べられる対象だった。
 しかしその父が死んだ今、もう言動に気を配る必要などない、だから笑う。
「小さい頃の言動は、貴方が個人的に優位に立とうとした結果でしょう?」
 ノワールは訝しげに聞く。十年間そう思っていたわけではなく、今の彼の言動で気付いただけだ。
「よくわかりましたね」
 ソレイユは否定せず、目を一時的に逸らしながら髪を弄った。
 自分の方がノワールより優れていると、ルミエールに思わせたかったというのが本音だ。つまりただの嫉妬、これはさすがに格好が悪いと感じたのか彼は口にはしない。
 ノワールは悪びれないソレイユにますます苦手意識が強まるのを感じる。
 しかし月明かりに照らされた彼の指に光る何かを見つけ、思わず歩み寄った。
「その指輪は……」
 ノワールは言葉を濁す。
 ソレイユは自分のはめている指輪を少し眺めると楽しげに笑った。
「これですか? ……婚約指輪です」
 彼の言葉にノワールは目を丸くする。
 彼らは本当の姉弟ではない、だからありえない話ではない。しかし今まで弟に徹していた彼がこうも簡単に指輪を送るとは思えず驚いた。
「冗談ですよ、これは訳があって付けているだけです」
 簡単に騙されたノワールを嘲るようにソレイユはまた笑う。
 だけどノワールは、ただの冗談とは考えられない。
 ソレイユはノワールが思っている事を察して微笑すると、首を少し傾げた。
「小さい頃のように、今も貴方より優位に立ちたいと思うのですよ」
 ノワールは彼の言葉の意味がよくわからず首を傾げる。
 彼女を拒絶した自分など比べようがないほど、彼は今優位のはずだ。それなのに何故、彼は自分より劣っていると感じているのか疑問だった。
 それを察したソレイユは少し目を背ける。
「俺は貴方と全然違う、出会った時から仇の息子で、最初から勝ち目がない」
 ノワールより優位に立てるはずがない、ソレイユは自分の中で勝手に決め付けて諦めていた。
 ソレイユの持つ劣等感は、ノワールの持つものとは違っている。努力しても変えようのないものだ。
 ノワールは思わず息を呑む。
「だから、彼女の幸せ以外には興味がない」
 口元だけ笑ってみせるが、ノワールの表情は晴れない。するとまたノワールを嘲笑するようにソレイユは笑みを浮かべた。
「俺に同情はいらない、ほら」
 懐から取り出した物をノワール目掛けて放る。それは以前握り潰した親書だ。
 ノワールはそれが黒の国からの親書だと気付いて少し驚く。
「読んでみてくださいよ」
 さあ、そう言うかのようにソレイユは勧める。
 しかし読まなくても彼がこの内容に不満を持っているのはわかる。ノワールは戸惑いながら親書を拾い広げた。
「まるであの王と同じだ。ルミエールを黒の国に捧げる生贄にしろと?」
 ソレイユの嫌味を聞きながら、ノワールは大臣の独断に唇を噛む。
「これは、兄の考えとは異なります!」
 ノワールは否定する。
「貴方達の意思がない事くらいわかっていますよ」
 ソレイユは少し表情を落とすと、真面目に答えた。
 彼の様子をノワールは不可解に思い困惑する。
「俺が言いたいのはそういう事じゃない、ノワール様」
 そして名前を呼ばれた瞬間、身体が震えた。
 ソレイユはもう嘲笑すらしない。
「どうしたら貴方は、ルミエールだけを見る?」
 冷たい声でソレイユはノワールに問う。
 だけどノワールは身震いがして何も答える事ができない。
「どうしたらルミエールに縋る? ……ねえ、ノワール様」
 ソレイユは緩やかな動作で首を傾げると、冷たい微笑みを浮かべた。
 思わずノワールは一歩後退り、警戒する。
 ソレイユはクスリと笑うと腰の剣を抜いた。細身の刀身が月明かりに照らされてきらめく。
 ノワールは驚き目を見張った。
「俺に勝てたら、和平でも何でも好きにしてくれて構いませんよ」
 どうしますか、まるでそう聞いているかのようにソレイユは挑発する。
 挑発に乗りたいわけではないが、ノワールは慣れない剣を抜く。ここで引き下がれば和平は更に難しくなると彼は感じた。
 ソレイユは再びクスリと笑うと、それ以上は何も言わずに地を蹴る。中性的で軽い彼はその一蹴りでノワールとの距離を詰めた。
 すぐ目の前に飛び込んでこようとしているソレイユを防ごうとノワールは身構える。
 しかしソレイユは着地する前に身体を捻り、大きく振りかぶった。
「っく!」
 全体重をかけて斬り込まれたノワールはよろめく。
 ソレイユはそれを見逃さず、そのまま一回転するように彼を蹴りつける。
 剣を防いだばかりで横からの衝撃に耐え切れなかったノワールは膝をついた。
「もう膝をついてしまったのですか?」
 そう口にしてソレイユは軽やかに着地する。まだ勝負は始まってすらいない。
 ノワールは力の差に愕然としていた。
「貴方の和平への想いもその程度なのですね」
 ソレイユは嘲笑するとノワールの眼前に剣を突きつける。
 ノワールが剣先から彼に視線を移すと、蔑むような表情で見下ろしていた。
「小さい頃から、お前が目障りだったよ」
 ソレイユは冷たく言うと、ノワールが手にしていた剣を払う。
 痺れを感じてノワールは剣を持っていた方の手をもう一方の手で押さえる。そして戸惑いを露にして彼を再び見た。
「お前がいたから、陛下の関心を完全には絶てなかった」
 再びソレイユは彼に剣を突きつける。
 その言葉にノワールは使者の話を思い出した。関心を絶つ事、それは恐らく王妃の代わりになるという話に関係があるのだろう。
「陛下の事を聞いたのか? だろうな、あの使者は口が軽そうだった」
 ソレイユは皮肉ると軽く笑う。
 しかしあらゆる出来事が頭の中を巡り長くは笑えない。ソレイユ自身、王妃に関心を持たれるなと言われた理由を知ったのは黒の使者と同じ日だ。
「だけど本当に目障りだったのは、俺の事じゃない……」
 一瞬宙を見て、ソレイユは言った。
 クスリとも笑わなくなった彼にノワールは寒気が走る。
「ルミエールに関心を抱かせた事だよ」
 ソレイユは告げた。
 ノワールは先程とは異なる口ぶりに困惑する。
「どれだけ危ない事かわからないだろう、お前の環境では」
 顔を歪ませソレイユはなおも続ける。
 しかしノワールは少しずつ彼の言いたい事が分かってきた気がした。
「それでも、彼女が望むなら、俺はそれを叶えるだけだった……」
 結果を知ってしまえば自分達のしていた事はすごく危険な事だったのだとノワールは理解できる。それを彼は十年間も隠し続けていたのに、知れてしまった上に彼女を拒絶した。
 ノワールは身体を強張らせ目を固く瞑る。
「なのにまさか、お前が彼女を傷付けるなんてな!?」
 ソレイユは声を荒げるとノワールの腕を踏みつけた。
 踏みつけられて痛みを感じるのに、彼女どころか彼の気持ちも踏みにじった事実にノワールは声をあげる事すらできない。
「赤は敵なのだろう? 黙っていないで何か言えよ」
 歪んだ笑みを浮かべてソレイユは言うと、更に踏みにじる。
 だけどノワールにはその歪んだ笑みが泣いているように見えて、抵抗する気すら起きなかった。
「ルミエールには言えたのだろう? 言えよ!?」
 怒りに身を任せノワールを蹴り飛ばすと、彼の身体が仰向けに倒れる。
 しかしノワールは同情のような哀れんだ表情を浮かべ、ソレイユを見ていた。
 それが更に怒りを増長させ、遂にソレイユは彼の腕に剣を突きつける。
「お前から全てを奪えば、ルミエールに縋るのか?」
 何をしようとしているか何となく察しが付くのに、ノワールは抵抗する気が起きない。
 抵抗しないノワールに何かを見透かされている気がして、ソレイユは怒りを抑制しきれなくなり剣を振り下ろした。
 ノワールは痛みに備えて目を瞑る。
「……っ」
 剣を突きつけた音が響く、しかしノワールを待っていたのは痛みではなかった。
「ルミエールの為に全てを捨てられないお前なんか、願い下げだ」
 悔しさを滲ませてソレイユは苦言を吐く。
 剣は腕から僅かにずれた位置に突き立てられていた。
「彼女より国を選んだ……奪おうともしないお前なんかっ」
 ノワールは身体を起こしソレイユを見るが表情が読み取れない。しかし酷く身体が震えている。それを見て、自分自身の行動を恐れているのだと思った。
「まさか……ソレイユ様」
 今のように誰かを傷付けたのではないか、ノワールは悟る。そしてそれが事実なら、恐らくその人物は……。
「行けよ、そしてこのふざけた親書を寄越した奴に言っておけ、俺は王位自体には何の興味もない」
 ソレイユは言いよどむノワールを無視し、顔を伏せたまま言った。
 ノワールはよろめきながらソレイユに背を向ける。しかしそれをどう伝えればいいのかわからない。傷は隠せても、自分の気持ちまでは隠せる気がしないからだ。
 その後姿になのか、それとも自分に対する戒めか、ソレイユは口を開く。
「俺の望みは、過去の痛みを忘れるくらい……姉上が幸せになる事だけだ」
「え?」
 聞き捨てならない言葉が混じり、ノワールは彼を振り返る。
 しかしソレイユは彼を振り返る事はなくふらつきながら行ってしまった。

 街道を歩きながら、色々な気持ちが頭を駆け巡りソレイユは今にも倒れそうだった。
「姉、上……?」
 自分の発した言葉に自ら否定するように首を振ると頭を押さえる。
「違う、違う」
 ソレイユは言い聞かせるように繰り返すと、不意に胸が押しつぶされるように痛んだ。
 王位を手に入れても、彼女の望みを何一つ叶えられない。
「何故、俺では駄目なのだろう……」
 彼の問いが虚しく響く。しかし答える者は誰もいなかった。

...2012.08.07