Trente et Quarante

第六話:約束/5

 長い夢から目が覚めると、ルミエールは痛みを感じて頭を押さえた。
 今まで閉じていた記憶の箱が開いたからだろうか、目が冴えてくると自然と痛みはひいていった。
 箱の中には両親の事だけではなく、ソレイユの抱えていたものや、自分の気持ちまで詰まっていた。
 それに記憶喪失というよりは、人為的に記憶を書き換えられたような……。
「ルミエール……」
 名前を呼ばれ身体を揺らし声の方向を見る。
 するとソレイユがベッドの端に顔を埋めて眠っていた。
 彼の髪に触れるとまだ湿っぽい。湯浴みの後すぐここで眠ってしまったようだ。
「ソレイユ」
 ルミエールは再び横になると、彼の髪を弄びながら呼んだ。
 朝に弱く寝起きの悪い彼はこの程度では起きない。だけど身動ぎすらしない事に思わず笑みがこぼれる。
 少し近くに寄ると薔薇の香りがした。それも少し濃い。
「普段は香水なんてほとんどつけないのに……」
 ルミエールは不思議そうに呟いた。
 普通の男性と違い彼は夏でも汗臭くならない。だから何故香水などつけているのか疑問だった。
「これを言うと拗ねるのだけれど」
 中性的な容姿は彼のコンプレックスだ。普通の男性と違うなどと言ったら間違いなく拗ねるし見えない所で落ち込むのを彼女は知っている。
 ルミエールは少し苦笑しながら、今度は彼の手を見た。細くて長い指がとても綺麗だ。
 自分の手を合わせそして指を絡めると、彼の手は思っていたよりもずっと大きい。弟だと思い続けていた所為でほとんど意識していなかった。
 途端恥ずかしくなったルミエールは、絡めた指を解こうとする。
 しかし彼女の手は掴み心地が良かったのか、ソレイユは掴み返し離そうとしなかった。
 ルミエールは少し顔を赤らめると、諦めたように彼が起きるのを待つ。でも起きる様子はない。
 暇を持て余して今度は彼の顔をじっくりと見る。端正な顔立ち、長い睫、髪の色まで肖像画で見た王妃に似ていた。
「うーん、起きない」
 ルミエールは次に頬に触れてみる。滑らかな手触りに溜め息がでると、何だか悔しくなってそのまま頬を突いた。
「んん……」
 ソレイユはさすがにくすぐったかったのか眉間に皺を寄せると、薄らと目を開ける。
「おはようソレイユ」
 ルミエールは挨拶をした。
 使用人曰く凄い剣幕で睨みつけ二度寝してしまうらしいのだが……。
「んー、おはよ」
 ソレイユは無意識に声を識別しているのか、寝ぼけていても声色が穏やかだった。ただ二度寝は本当だったようでまた目を瞑る。
 ルミエールは苦笑した。
 しかし一拍置くと彼は飛び起きる。
「何し……」
 ソレイユは目を瞬かせながら事態を飲み込むと、青褪めた表情で手を離そうとした。
 だけどルミエールはそれを許さない。
「穢いからっ」
 ソレイユは顔を歪ませる。
「嫌」
 それでもルミエールは首を横に振った。
「俺は、貴女に酷い事をした。だから離してっ」
 掴まれた手を外そうと動かしながら、ソレイユは言った。
 ルミエールは首を傾げる。
「いつ? 酷い事って何?」
 身に覚えがないわ、そう続けやはり手は離さなかった。
 ソレイユは意地悪く手を離そうとしないルミエールに少し戸惑う。
「し、しましたよ……」
 目を逸らし語尾を濁す彼に、ルミエールは「嘘」と一言で返す。
 彼の言う酷い事に該当しそうな事は、あまり思い浮かばない。
 一つ目は首を掻き毟ろうとした彼女を結果的に組み敷いてしまった事、二つ目は痕を舐めて痛いと感じさせた事、三つ目はその痕に傷薬をかけた事だ。
 だけどどれも彼女は酷い事などとは思っていない。むしろ助けてくれた上に、気を遣わせたと捉えていた。
「さっきの事なら酷い事じゃないわ」
 ルミエールは微笑んだ。
 微笑む彼女に驚いてソレイユは頬を赤らめる。
「それでは、ありませんっ」
 ソレイユは顔を伏せて言う。
 ルミエールは握っていた手にもう一方の手も添えると「何かしら?」と目を逸らす。彼女にはソレイユが嘘を言っているようにしか見えない。
「記憶、です」
 ソレイユは唇を噛む。
 記憶、覚えのある言葉にルミエールは目を丸くする。しかし簡単に信じる事もできない。
「青の国が何に優れているか、ご存知ですか?」
 ソレイユは質問をした。
「え? ……呪術?」
 青の国が優れているのは目に見える何かではない。呪術のような言わば魔法の類だった。
 武力に優れた赤や黒の国では信用する者が少なく、彼女もあまり気にした事はない。そういうものが存在するという程度の知識だ。
「俺は小さい頃、あの国で魔道書を貰いました」
 ソレイユは顔を背けたまま言う。本当は距離を置きたかったが、手を離してもらう事ができない。
「『赤の王子様の望む事が書いてありますよ』と若い男の人に」
「ソレイユは、呪術の類を信じているの?」
 ルミエールは意外そうに目を大きく開く。
 ソレイユは彼女の目から見ても頭が良い。そういう迷信染みたものは頭から否定するのだと思っていた。
 しかし呪術には知力が必要だと聞いた事もある。だからこそ彼は呪術を信じたのだろうか、彼女は複雑だった。
「実際に試したら効果があったので」
 肯定するとソレイユは少し顔を伏せる。
 ルミエールは彼らしいと思った。
「その魔道書は、記憶に纏わる術がこと細かく記されていました」
 ソレイユはそう告げると少し顔をしかめる。
「だけど陛下は武術ばかりの低脳ですから、物忘れ程度の効き目しかなかった」
「試したのって」
 ルミエールは試した相手が王である事に苦笑した。
 ソレイユは黙ったまま目を逸す。
「ルミエール、記憶が混濁していた時期の事を思い出しましたか?」
 ルミエールは一瞬驚いたが、ソレイユが記憶を書き換えたのなら気付いて当然なのだろう。だから頷いた。
「俺の覚悟が足りなくて、そんな期間を作ってしまった」
 本来は即効性のもの、躊躇しなければ無用な不安を抱えさせる事はなかったとソレイユは説明した。
「覚悟?」
 ルミエールは首を傾げる。
 ソレイユはまた何も言わない。
「とにかく、貴女の記憶を俺は奪った……だから」
 ソレイユは掴まれている方の手を動かした。
 しかしルミエールは更に掴む手に更に力を込める。
「ルミエール……」
 悲しげな表情を浮かべるとソレイユは名前を呼んだ。
 だけどルミエールは首を横に振る。
「でも、私の為でしょ?」
 ルミエールは彼の手を愛おしそうに撫でた。
「覚悟が決まらない程、苦しかったのでしょう?」
 ソレイユは戸惑う。
「私の為に頑張ってくれただけだもの、だからいいの」
 ルミエールは彼の顔を覗きこむようにすると、優しく微笑んだ。
「ルミエール」
 その優しさにソレイユは唇をきつく結ぶ。思わず手が震える。
 するとルミエールは優しく手を握り直す。
「貴女が、許してくれるなら……」
 ソレイユは言うと、悲しげに微笑む。
 彼はこれ以上何かを話す事で、ルミエールを悲しませ傷付けるのが怖かった。

...2012.07.17