ソレイユの所有する別邸は王族のものとしては小さいものだった。
元の持ち主は財のない貴族、彼の母の生家。母が死去してすぐ祖父母も後を追うように亡くなり、ソレイユが屋敷を貰い受けたのだ。
使用人は置いていたがほぼ放置に等しかったその屋敷を、こんな形で利用する事になるのは複雑だった。
屋敷に着くとルミエールを一人部屋に残し、ソレイユは使用人達に事情を説明する。すると昔からこの屋敷に仕えていた誰もが、亡き王妃を重ねて心を痛めた。
自分の祖父母、それに母は随分と慕われていたのだと彼は少し安心する。
しかし自分は彼らにとってどのような存在だろうか、そう考えると居た堪れない。だからソレイユは後の事をリオネルに任せた。
部屋の前まで来ると、いつも通りノックをして「入りますよ」と声をかける。ルミエールがそれに答えない事はわかっていた。だから返事を待たずに扉を開く。
部屋に入ると、ルミエールはベッドの隅で蹲っていた。だけどそれだけでは説明できないような、不審な動きをしている。
「ルミエール?」
名前を呼ぶとルミエールは振り返り少し笑顔を見せた。
「ソレイユ」
だがソレイユは笑顔に不釣合いな光景に言葉を失う。
ルミエールは王に付けられた痕に爪を立て、強く掻きむしっていた。傷付けられた白い肌には彼女の血が伝い、手も、服も、シーツまで、赤く染まっている。
だけどそれでも満足できないのか、今度は首筋に手をのばす。
「ルミエールッ!」
ソレイユは我にかえると、彼女の手を掴み上げてベッドに押さえつけた。
「ひぅ……っ!?」
結果的に組み敷くような形になり、ルミエールは酷く怯えた目をして暴れる。最終的に泣き出してしまう。
泣かせたくないのに、ソレイユは悔しさに顔を歪める。だけどこの手を解放したら、彼女はその首を掻きむしり自分自身を傷つけるだろう。
ソレイユはどうする事もできず、その体勢のまま顔を背ける。泣いて暴れて、そして疲れて眠る事を心の中で祈った。
「貴方まで……っそういう事、するの?」
しかしルミエールは無情な言葉を投げかける。
その言葉にソレイユの表情が強張る。泣いているのにその涙を拭う事もできず、このような手荒な真似をするしかない自分を無力だと感じた。
ノワールなら、簡単に彼女の恐怖心を取り払えたのではないだろうか。そう思うとソレイユの身体は震えていた。
「……っく」
悟られたくなくて声を押し殺す。すると王の手を取った幼いルミエールの姿がソレイユの脳裏を過ぎった。
二人の後姿を見ながら、彼女を止めたくて手を伸ばすが、届かない。
それを悔やんで泣いているうちに、今度は城からいなくなった彼女を必死に探していた。
あの時の自分は何を思っていただろう、ソレイユは自嘲する。
なんとかするから、だからまだ一人にしないで……。あの時の彼は私情を優先していた。覚悟を決め切れず中途半端だった自分を呪いながら。
この状況は、自分の無力さを嘆いたあの満月の夜と同じだ。
溢れ出した涙がルミエールの頬を濡らすのを、ソレイユは酷く惨めで情けないと思った。
我に返ったルミエールは目を丸くする。
弱まった力に安心してソレイユは彼女を解放すると、背を向けて止まる気配のない涙を拭う。
「泣いているの?」
ルミエールは申し訳なさそうに聞き、手を伸ばそうとする。しかし自分の手についた血を見て、小さく声をあげるとその手を引っ込めた。
ソレイユは何も答えない。
「私がここにいたら……ソレイユを苦しめる」
ルミエールは血に塗れた手で顔を隠した。自身の言動が彼を傷付けた事に気付たからだ。
「私の所為で誰かが苦しむなら、私は一人でいい……っ」
ルミエールも同じように、満月の夜を思い出し再び泣いた。
「嫌だ」
ソレイユは振り返ると、彼女の言葉を拒否する。
止めきれない涙がまた頬を伝いすごく情けない姿だと思うが、それでも彼はその言葉を撤回して欲しかった。
「俺は、ルミエールがいなくなる方が、よほど苦しい……っ」
ソレイユは搾り出すようにそう告げると、ルミエールを抱きしめる。
ルミエールは肌が擦れて痛みを感じたが、彼の心の痛みを前にしたら自然と彼の背に手を回していた。
「ずっと傍にいるから……そうしたら、苦しくない?」
驚いたソレイユの身体が震える。
だけどルミエールはいつもこうなのだ。あの夜も彼を慰めるように頭を撫でた。
彼はそれに気が付くと、更に強く彼女を抱きしめていた。
お互い落ち着きを取り戻すと、使用人に医者の手配を頼んだ。そして傷薬を片手にルミエールの傷を見る。
綺麗に治るだろうか、傷薬はしみるだろう、何もかもが心配で仕方ない。そして何より彼女の首筋の痕、彼にはそれが最も心配だった。
今は普通にしているが、ふとした拍子に掻きむしったりしないだろうか、ソレイユはそれをどうしても避けたかった。
「嫌だったら突き飛ばしてください」
ソレイユは考えた末にそう告げると、その痕を上書きするように少し強めに口付ける。
ルミエールは驚いて一瞬身体が強張ったが、すぐクスクスと笑い出した。
「くすぐったいわ」
唇を離したソレイユは、予想外の反応に困ったように顔を赤らめる。
「上書きです。掻きむしったら俺、傷付きますから」
少し拗ねたような態度でソレイユは告げた。
ルミエールはよほど可笑しかったのかまだ笑っている。
「他は上書きしてくれないの?」
彼女は聞いた。
ソレイユは更に顔を染める。
「口内は雑菌の温床です」
確かにその通りなのだが赤面しながら言うソレイユの態度に、ルミエールは更に笑いがこみ上げてきた。
「傷じゃなかったら上書きしてくれたの?」
「えっ!?」
確かに今の発言は誤解を招くかもしれない、言われてから気付いたソレイユは変な声をあげうろたえる。
それを見ていつものソレイユだと思うと、ルミエールは安心した。
「でも最後は消毒するのだから大丈夫でしょう?」
ソレイユは硬直する。
普通に考えれば血の痕に口付ける気にはならないだろう、そんな事は彼女にもわかっていた。
ただあまりに普段と変わりない彼で、少しからかいたくなっただけだ。
しかしソレイユは彼女の冗談を真に受け唸っている。
「ソレイユ?」
ルミエールは首を傾げると、調子の良い自分を反省した。
「ごめんなさいソレイユ、私……」
困らせた事を申し訳なさそうにルミエールは口を開く。
だけどそれはソレイユの行動に阻まれ、最後まで紡がれる事はなかった。
「痛っ」
ルミエールは小さく呻く。
ソレイユは彼女の痛ましい傷に唇を寄せていた。
血の痕を舐めとると口の中に鉄の味が広がる。しかし彼はそれを不快とは思わずやめようとはしない。
「上書きでしょう?」
ソレイユは少しだけ唇を離して言った。
それを受けてルミエールは、言葉に責任を持たなければと腹を決めると、胸元に顔を埋めるソレイユの頭を抱きしめる。
ソレイユは少し戸惑うが、すぐにまた彼女の傷に唇を寄せた。記憶にある古傷を抉るような行為だったが、彼は自身に関心はない。
ルミエールは痛みとくすぐったさに思わず泣き笑う。しかし彼の髪が肌を擦り、次第にくすぐったさが勝っていった。
「ふふっくすぐったいっ」
堪えきれず笑い出すとソレイユの髪に指を絡めて撫であげる。
「ひっ!?」
驚いたソレイユは変な声をあげると、顔を再び真っ赤に染めて飛び起きた。
ルミエールは柔らかい髪の感触が離れてしまい、少し寂しく感じる。
それを見てソレイユは少し目を細めると、傷薬を彼女の眼前に差し出す。
嫌な予感にルミエールは苦笑いを浮かべた。
「消毒、しましょうか」
ソレイユが意地悪く笑う。
予感が的中したルミエールは、痛みに悲鳴をあげた。
ソレイユはルミエールを使用人に頼むと小さく一息つく。同時に自分をからかえるくらいにルミエールの元気が戻った事に安堵していた。
しかしリオネルと鉢合わせた瞬間、少し恐怖が蘇る。
「すまないっ」
ソレイユは彼女を一人残した事を謝罪した。
リオネルは特に何も言わず、己の目尻を指差す。
「涙の痕」
そして一言呟いた。
ソレイユは目を丸くして自分の頬に残る痕に触れる。
「残っています。それに、ソレイユ様が謝る事ではありません」
リオネルはいつも通りの調子で告げると、腕を組んだ。
彼はとても有能だ。だから今の状況、そして今後の事を考えているのだとソレイユは気付いた。
そしてソレイユ自身も、このままではルミエールを守れないという所まで計算できている。彼女を匿っても、いずれ家臣達に連れ戻され王の生贄にされるだろう。
王がいる限り、王を恐れる民すら敵だ。王にならなければ、味方となりえる存在はいないに等しい。ソレイユは頭を抱えた。
「代わりはお前でも構わない、か……」
ソレイユは王の言葉を呟く。
「何の話ですか?」
リオネルは訝しげに聞いた。
王と交わした会話はソレイユにとって気持ちの悪い内容だ。
しかし武力ではまだ王には敵わない以上、利用できるものを際限なく使うべきだろう。だから大まかに説明した。
話を理解したリオネルは明らかな嫌悪を顔に浮かべ爪を噛む。
「赤の王、本当に気持ちの悪い男だ」
ソレイユも同意見だ。
しかしルミエールの為なら手段を選んではいられない。
「そのような話を受けてはいけません」
ソレイユは自身に関心がない。それを理解しているリオネルは、彼が何を考えているのか気付いて釘を刺す。
「支配欲と独占欲の強いあの王は、所有物にした貴方を次期王にするでしょうか?」
リオネルは冷たい目で告げる。
ソレイユは彼が何を言いたいのかすぐわかった。
もし王になれなければ、彼の代わりに新しい世継が必要になるだろう。そうなれば誰かが王の子を産み落とさなければいけない。
「貴方は一度約束を破られているのですよ、それに……」
リオネルは跪き、壊れ物を扱うようにソレイユの手を取った。
「貴方の美しさをあのような下劣な者に奪われるなど、ありえない」
「お前も大概気持ちの悪い男だな」
この状況で何を言っている、ソレイユはそう言いたげに怪訝な顔をすると手を払う。
ベルナーも同じような事を言うが、リオネルにはからかう素振りがない。笑顔の有無だけというにはあまりにも違う。
「事実ですから」
リオネルは言い切る。
「それは気持ち悪い事が、か?」
「いえ美しさです」
クスリと笑うリオネルに、ソレイユは「おい」と更に不満を露にする。
ベルナーにリオネルを紹介された頃は、野心を隠そうともしない姿勢が面白いと思った。そして呼び寄せるべき人物だと考えていた。
しかし実際に赤の国に呼び寄せてみればこれだ。野心を無くしてはいないようだが、どうも彼は頭が可笑しい。
「貴方が美しくあり続けるのなら、僕は望みも捨てられます」
リオネルは目を輝かせ、ソレイユを賞賛する。
「やはり気持ちが悪いな」
ソレイユは顔を伏せた。
「わかりませんか?」
リオネルは可笑しいなという風に首を傾げる。
ソレイユから言わせれば可笑しいのはリオネルの方だったが、反論はしない。
「美しいものを手折ろうとするあの王は、昔と変わらぬ馬鹿の者だという話です」
リオネルはここにいない王を嘲笑する。
ソレイユは言っている意味がわからず目を細めた。
「美しいものは美しく飾られるべきなのですよ、穢す事など許されない」
こんなに綺麗なのだから……、恍惚とした表情で告げるとリオネルはまた壊れ物を扱うように彼の頬に手を伸ばす。
ソレイユは一瞬警戒したが、触れられる事はなかった。
リオネルはまたクスリと笑う。
「そういえば……」
今度は何だ、ソレイユは頭を抱えため息をついた。
リオネルは切り替えが早い。まるで先程まで話していた事がなかったかのように話をすり替える。
「ソレイユ様にはお話していませんでした」
「何を」
ソレイユは呆れたように聞いた。
「どこから聞き及んだのか」
リオネルは、数時間前ルミエールに話して聞かせた事、『王はルミエールをたぶらかしたノワールに怒り、黒の王を殺害した』を今度はソレイユに聞かせた。
ソレイユは突然の話に目を見開く。
「何だ、それはっ」
身近にいたが、彼は嫌疑をかけられていた事しか知らない。
しかし黒の王が急死したあの日、赤の王は城にはいなかった。だから彼は早めに彼女を迎えに行く事ができたのだから……。
リオネルはそれ以上何も語らずただ微笑する。
「ルミエールの全てを傷付けた……」
ソレイユは自分の手の平を見つめ、強く拳を握る。
そんな彼をリオネルは満足そうに眺め微笑んだ。
...2012.06.26