Genocide

 午前を回り今は十二月十八日日曜日。 二年の教室の中に鮮血が散り、夜観之君の身体は仰向けに倒れた。
「……ッ夜観之君!!」
 私は駆けよると彼を抱き起こした。
 夜観之君は苦しそうに刺された部位を抑え歯を食いしばる。 こんなに寒いのに額に汗が滲み、声にならない声をあげた。
 その様子を見て私は涙が溢れてボロボロ零れ落ちた。 出血が酷いこのままじゃ死んでしまう。 失いたくない……というより、一人にしないで欲しい。 この期に及んで酷い女だと思う。 気が動転して思わず夜観之君の腹部に刺さったナイフに手を伸ばした。
「抜いちゃダメだよ」
 リツ君の声が私の行動を止めた。
「本当に……死ぬよ?」
 彼はそう冷たく言い放つと電話を切り、三つボタンを押した。 淡々とした声で何かを言ってる。 だけど私の耳には自分の嗚咽しか入ってこない。
「バイバイ……」
 携帯を切るとリツ君は教室をでていった。 彼に罵声の一つも浴びせる事ができなかった。 ただ夜観之君が死んでしまう。 彼がした事よりその事実が重くて悲しくて……。
「……ごめっ……ごめ、んっ」
 薄らと開かれた夜観之君の瞳が私を捉え、息も絶え絶えにそう謝罪した。
 私は首を振る。 謝って欲しくない。 私が謝りたいくらいなのに……。
 携帯を取り出そうとする私を夜観之君は止める。 ……苦しそうに息を吐きながら続けた。
「ずっと、騙してた……だから、聞いて欲しいんだ……」
 切実な言葉に私は思わず折れてしまった。 警官はまだ来ない、争いはすぐ収まった事、防音対策がしっかりなされてた事があだになったのだろう。
「俺……本当は毒なんか飲んでない」
 私は何を言っているのか判らず耳を疑った。
「今頃……今頃だ……もっと早くこうしてれば……」
 夜観之君に刺さったままのナイフには律君の指紋がついている。 最終的に彼を逮捕する手段になるはず、そう考えたのかもしれない。
 彼は「いつでも裏切る事はできた」とか「最低なんだ」とか自分を否定した。 死を覚悟すると自分のした事を告白してしまう人が多いというけど、 まさに夜観之君はその状況に陥っているのだろう。
「でも夜観之君はできる範囲で協力してくれてた……っ」
 私は彼を否定などできるはずがなかった。 律君がああなって……どれだけ夜観之君の存在に救われたかわからない。
「……っ脅されてるわけでもなく、あいつに協力してたんだ」
 夜観之君は自分を否定して欲しいかのようにそう言った。 母親に仕返し?母親が律君へした事への罪悪感? ……全部、なんだろうな。
「でも私の為に怒ってくれた……助けてくれた……それは事実だから」
 だけど私は目尻に涙を溜めながら、微笑んだ。 聞く人が聞いたら私は最低な女だろう。 だけど、夜観之君という人を知ってる私に彼を否定する事はできなかった。
 夜観之君は空いてる手で顔を隠すと「……バカッ」と小さい声で呟いた。 泣いてるのがわかったから、私はそれ以上何も言わない。
 私は改めて携帯を手に持ったが、すでに救急車のサイレンの音がこちらに響いてきていた。
「良かった……救急車来たみたい……」
 私がそう口に出すと、夜観之君は「え……?」と疑問の声をあげた。 そして何事かに気付いたように私の肩を掴む。
「……ここを、離れろッ……」
「そんな事できないよっ!」
 私は首を横に振り彼の言葉を拒んだ。
 だけど夜観之君は退かない
「これは……っ罠だ……ッだから……"お前らは死なない"ってクラスの奴にッ」
だけど最後まで言い切る前に彼は意識を失ってしまった。
「夜観之君……!」
 私は名前を呼んだが返事はない。 だけどかすかに息をしてる、まだ生きてる。
 彼の傷口に当らないようなんとか担いで教室の外へでると、やっと警官が私達を見つけてくれた。
「夜観之君を助けて……っ!」
 緊張の糸が切れたように私は無我夢中で懇願した。

 その為に待ち受ける罠に気付く事ができなかった。

28.毒の洗脳

「容疑者」
 おかしなことを言うなと、そう思った。 でもそれが私の事だと理解するのに時間はかからなかった。
 夜観之君を運ぶ救急車を見送り、私は不名誉な理由でパトカーに乗せられた。 正直自分は潔白だと、突きつけられた言葉を否定していいのかすらわからなかった。 ただ母がどうなるのか、それが気がかりでならない。
 留置所に入れられてからは人が来るたび夜観之君の容態を聞いた。 取り合ってなどくれなかったが、それでも聞かずにはいられない。 それに夜観之君が最後に言った「お前らは死なない」これはどういう意味だろう。 あの時は無我夢中で聞けなかったが、実は私達も毒を飲んでないという事? いや、それなら・・・最初に言うはずだし、私には症状だってあった。 私は天井を見て溜息を付いた。
 母は酷い目にあってはいないだろうか、 先生はどうしているだろうか、 それに……リツ君は今どこで何をしているのだろうか。
 取り調べを受けてしばらく、状況が少し読めてきた。 理由は取り調べの刑事さんの持ってきた写真。 私が生花の代わりにと、あの暗く冷たい部屋から出してあげられる日がくるまでと……佐々川君達の元に供えた造花だ。
 ただそれだけが見つかってもこうはならないだろう。 恐らく佐々川君達の遺体が発見された。 いや、発見させられたのだ。 誰の仕業かは私には判らないが恐らく私に罪をきせる為に……。
 しかし自分どころかクラスメイトの毒はまだ解毒されていない。 この状況で私が全てを白状しても大丈夫なのだろうか。 不安で言葉がでない。 自分だけのことを考えるなら、このまま大量殺人犯の汚名を着せらて死ぬより、全てを話して死ぬ方がいい。 だけど他の生徒は助かるかもしれない望みを捨てる事にならないだろうか……。
 ニュースではきっとクラスメイトの犯行とか、余罪があったとか、色々言われているのだろう。 これだけの事件だ、メディアがほっとくとは思えない。 まして神童と呼ばれてた律君がいる学校、更にその彼がいる学年の話だ。 容疑者逮捕でヒートアップしてるに違いなかった。
 本当の犯人はニュースを見て私が計画通り捕まったって笑っているのかな? 律君……いやリツ君。

 十二月十九日月曜日。 外の光が天井付近の小さな窓から差して目がさめた。
 なんだかバタバタと忙しない音がする。 何かったのかと思い私は鉄格子に触れて外を覗きみようとした。 だけど急に辺りが暗くなる、どうやら目の前に誰かいるようだ。
「母さん……」
 私は目を疑った。
 母は無言で鍵をあけると付いてくるように私に命じた。 声が枯れていて酷く疲れた表情をしていた。 だけど私の手を繋いだその手は怒っているものとは違う。
 黙ってついていくとそこはテレビのある部屋だった。 周りの大人は私をあまり歓迎していないようだが、どうやら呼び出された理由はそのテレビにあるらしい。
「リツ君……?」
 テレビに映っているのは建物に二階から見下げる形の彼だった。 同じくらいの背のアナウンサーを連れている。 よく見えないけど、ナイフを突きつけられて脅されているようだ。 この映像がテレビで流れてるという事は、 報道陣が"事件に巻き込まれた神童"を取材しようとしたのだろう。
『……解放してくれました?』
 彼はそう言って微笑んだ。
 それをアナウンサーが聞くと部屋にいた警官が喋り出した。 どうやら現場とこちらで電話が繋がっているようだ。
「今隣にいる!人質を解放しなさい!」
 リツ君は表情を一変させる。 ナイフのはらをアナウンサーに当てた。
 アナウンサーはそれに驚いて悲鳴をあげる。
『解放の意味、わからないの?』
 彼は冷たく言い放つ。
 応対していた警官は言い返せず、唇を結ぶ。
『警察、無能……』
 リツ君は懐から何か紙の束を取り出すと二階からそれをばらまいた。
『誤認逮捕、罪人は野放し……挙句謝罪なし』
 それは冤罪事件や時効になってしまった未解決の事件の記録だ。 ばらまいた事件の記録を一つ一つ紙を見ず読み上げていく、 こうして犯人を作り上げたとか、こうして犯人を逃したとか……。
 そして数件の事件を読み上げ終わると彼は現実に引き戻されたかのようにゆっくりカメラを向いた。
『拷問に近い尋問はもはや洗脳と同じだと思わない?』
 アナウンサーは口篭もる。 だけどリツ君は気にせずアナウンサーの持ったマイクを奪い取った。
『恐怖で縛って自供させて……冤罪被害者は増えるんだ』
 リツ君は笑った。 まるで警察をバカにしているかのように。
「何が言いたい!」
 言い返せずにいた警官が重い口を開く。 言われたままで黙っていられるはずもない、 それに私自身彼が何を言いたいのかわからなかった。
『無能と言いましたけど?』
 リツ君はまた警察を煽るような発言をした。
『だって拘束された子は……』
 部屋にいた人達が一斉に私を見た。
『僕が最も酷い目に合わせた子なんだよ?』
 部屋が凍りつく。
 違う……酷い目にあったのはみんなだ。 殺された人達だ。 毒を飲まされた人達だ。 夜観之君だ。 千草先生だ。 私じゃない……私じゃない。
 リツ君は自分の記憶に自分の知りえない情報―律君の記憶を少しずつ引き出し、それを交えて淡々と説明していった。
『佐々川君が殺された夜……その子は偶然それを見てしまいました』
 水を撒き散らすような音……夜中に水撒きなんて可笑しいようなと近付いた廃墟。 大好きだった彼が、赤く染まった日……。
『困った僕は、その子に"酷い事"をしました』
 頬にあてがわれてナイフのはら、佐々川君の血がベッタリ付いていてヌチャッとした感触……。 思い出したくなくても毎日毎日思い浮かぶ佐々川君の無残な姿。
『恐怖に怯えるその子に毒を飲ませて、今度は僕の部屋に閉じ込めました』
 私の役は先生に告発する目的……その殺人ゲーム参加の条件。 最後まで自発的には飲めなくて……彼が口移しで飲ました毒。 目の前が真っ暗になって眩暈と痺れに意識を飛ばして、目が覚めたら彼の部屋だった。
『翌日、窪谷さんを殺した後でまた僕は"酷い事"をしました』
 私を一人残し家を抜け出した彼は窪谷さんを殺害して戻ってきた。 彼の母親―朝霧 波子の部屋で"検体""記録"と書かれた研究書を見た日だ。
「"のるはお人形になるの?自由に生きられるのにそれでいいの?"」
 彼のした事に罪悪感を感じて、泣きつかれて無気力になって、行動しようとしない私に彼が言った言葉。 今思えば、少しずつ自分を失って行く彼自身を比べての発言だったのかもしれない。
『毒の恐怖だけじゃなく、毎日血生臭い男の傍にいる恐怖は相当のものでしょうね』
 リツ君はそう言ってクスクスと微笑した。
 私は自分の肩を抱き身を強張らせる。 彼が怖いからじゃない、周りの視線が怖くてだ。 だけど周囲にはそうは見えなかったかもしれない。 彼に私がされた事を想像して哀れんでいるのかもしれない。
『これも一種の洗脳……警察に駆け込めなくできました』
 この部屋の中で今一番驚愕しているのは恐らく母だろう。 彼の一部しか知らない母には"悪人が娘を酷い目にあわせた"という事実しかないはずだ。 微笑む彼も私に優しくする彼も全部演技だと、そう思ってしまうはずだ。
 それと娘が我が身可愛さに事件を隠していた事への無念さも入り混じってる事だろう。 警察の娘なのに……そう、警察の娘なのに、どうして私は……。
『でも……その子は先生やクラスメイトには理解を求めたんですよ』
 彼の対戦相手として、先生に彼が人を殺したと話したのは窪谷さんの殺された翌日の事。 クラスメイトにその話が回ったのは先生が私を陥れようとしたからだった。
『まあ誰も信用してくれなかったけどね……ククク……』
 これもまた事実で、私に協力してくれたのはたった一人……夜観之君だけだった。
 彼は一連の事件を説明していった。 彼と私にはそれぞれ加害者と被害者という位置付けがなされるように……。
 私が容疑者になるように仕組んだのはリツ君じゃない。 そう思ったら途端恥かしくなって涙が零れそうになった。
「それが本当なら解毒剤はあるのか?毒の被害者はこの子だけなのか!?」
 黙って聞いていた警官は問うた。
 私は受話器を持っている人物を見つめる。 私だけじゃない……クラスメイトの半分以上が毒を飲んでる。 だけど涙を堪えるのが苦しくて仕方なくて、言葉が上手くでない。
『あるに決まってるよ……被害者はクラスメイトのほとんどかな』
 彼は得意げに笑った。
 それを聞いた警官達は苦虫を噛み潰したような表情をした。
 ただ彼の言葉は可笑しかった。 彼は解毒剤はないと曽根君が死ぬ直前に言っていた。 なのにある?私に嘘を付いたのだろうか……。
『ただ手元にはもうない』
「なんだと!?」
 警官の一人が悔しげに机を叩いた。 その音を聞いてリツ君は「あはは」と楽しげを装って笑う。
『だって……"毒液"と一緒に飲ませたから』
「え……!?」
 それを聞いて今度は私が驚愕した。 毒は水だと思ってた液体の方じゃないのかという話はあった。 でもあの錠剤が……解毒剤? だけど「"三ヶ月かけて全身に回ってく"」って……毒の症状だって毎週毎週。
『やっと声が聞こえた、本当に隣にいるんだね……驚いてるみたいだけどこれは事実だ』
 一瞬リツ君は優しい微笑みを浮かべた。 本当に私の身を案じていたのだろう、だけどすぐ表情を作った。 悪に徹するつもりなのだろう。
 だけど私は彼の気持ちに気付いてもただ唇をきつく結んで黙っている事しかできなかった。
『三ヶ月間度々起きる眩暈や痺れの所為で毒が回ってると錯覚したんだろうね』
 彼は哀れむような表情で語る。
『でもそれ……解毒剤の副作用なんだ』
 私は打ちのめされたような気分だった。 全員毒が怖くて黙っていたのに、この苦しみは全部解毒剤の副作用だと言われたのだ。 ずっと感じなくてもいい死の恐怖を感じていたという事なの……? つまり夜観之君の言った「"お前らは死なない"」っていうのは、
『全員、僕に騙されたんだよ』
 私達は毒というものに騙されているという事だったんだ。
 高らかに笑う彼の声が遠くに聞こえる。 じゃあ私は……騙されているとも知らず母を騙してた?
 現実を突きつけられて私は膝を折った。
『とにかく、その子は解放してくださいよ』
 彼はそう告げるとマイクをアナウンサーに返そうとした。 しかし返事がないことに疑問を感じ不信感から行動を止める。
 一人の警官が応対している人に耳打ちしていた。 耳打ちされたその人は驚いたように私を横目で見てモニターに向き直る。
「だが君達は恋人同士だったというじゃないか……」
『……!』
 どこから漏れたのかわからないが紛れもない事実、中学の時からの付き合いだ。 今の彼にその長さはわからないだろうけど……。
 その事がなくても警察からすれば、執拗に私を解放するよう要求してくる犯人の行動は怪しいはずだ。
「君は今騒動を起こしているが……この子を庇っている可能性はないのか?」
「そんな……ここ数日間の犯行は娘には無理です……!」
 母が抗議の声をあげる。
 それを一瞥し、警官の一人はまたモニターを見た。
 私の疑いは晴れていない、だけど最近の犯行のほとんどは私が家にいる間に起きている。 それは警官が見張りをしていた事からも証明できる。 更に遺体は移動している、この事も私には難しいと判断されていた。
 だけど佐々川君達の件や夜観之君の件は別だ。 佐々川君達の遺体と一緒に私の指紋がついた造花がでている。 それに夜観之君に刺さったナイフには彼の指紋以外に抜こうとした際についた私の指紋が・・・。 一連の事件としてはいるが、全てが同一犯の犯行とは限らない。 そういう考え方も確かにある。
「それか、二人は共犯者なんじゃないか……?」
 彼はそういう考え方は盲点だったというように宙を見て深い溜息を付いた。 警察の娘をここまで疑えるとはさすがの彼も考えなかったのだろう。
 警察は私を解放する気はない、恐らくこの騒動が落ち着けばまた留置所に戻る。 彼の行動は全部無駄だったんだ。
『もういい……』
 彼はマイクをアナウンサーに押し付けるとアナウンサーを二階から蹴り落とした。
 幸いアナウンサーは障害物が幾つかあったお陰で擦り傷程度で済んだが、 辺りは更にざわめきを増していた。
『今日中にクラスメイトを一人殺す……』
 ざわめきの中でも彼の声はしっかりと音声を拾われていた。 それを確認する事もなく彼はそのまま屋根伝いに逃亡する。 警察はまだ現場についていない、報道陣だけでなくアナウンサーを人質に取った事で野次馬が集まってきていたからだ。
 しかし彼を追うカメラが野次馬の人だかりを映した時、野次馬の一人が彼を追って走っていくのが見えた。 先生だ。
「浜中洋子さん……っ恐らく彼は彼女を狙ってます……!」
 私は電話を切った警官に話し掛けた。 何度も何度もメモした紙をボロボロになるまで見てたことで頭の中にその名前、二十六番目の彼女がいた。
「やはり君は共犯者なのか?何で彼が狙う相手を知ってる」
 しかし私の発言は自分の立場を危くしただけだった。 思わず「それは……」と口篭もる。
 警察が取り合ってくれないならもう先生に頼るしかない。 先生なら彼が狙う相手を、スケジュールの二十六番目を知っている。 先生しかいない。
 だけどもし……夜観之君みたいに先生も刺されたらどうしよう。 しかもリツ君は以前先生に対して「"本当なら殺してる所だ……"」と悪態を付いた事がある。 先生には容赦しないかもしれない……それこそ生きて会えないかも……。
 想像したら恐ろしくて、涙がボロボロ零れた。 自分の中にある命のおじいちゃん、その人がお父さんに殺されたらどうしよう。 私はお腹を優しく擦った。
 ふと、背後気配を感じて振り返ると母が苦しげな、ほのかに怒りすら感じる表情で立っていた。 母が私を怒っている、そう思った。
「お腹の子って……そういう事なの……?酷い事……?」
 ブツブツと何かを呟きながら私の肩を掴んだ。 ただ母の怒りは私に向けられたものではないらしい。 それに、あくまで母は私を信じていた。 私が人を傷付けるはずがないと信じていた。 ……だから、なのだろう。
「卸すでしょ……卸すのよね……?」
 母は人が変わったようにその言葉を繰返していた。 警察としての坂滝 彩音ではなく一人娘の母がそこにいる。
「"るんがしたいようにしなさい"」
 でも妊娠が判ったときにそう言ってくれた母はそこにはいなかった。
 私は首を横に振った。 母の様子が怖かったのと、無意識に拒絶の意味を込めて。
「どうして?どうしてっ!?そんな子供産んだって不幸になるだけよ!!」
 肩を揺さ振られる力が強くなる。 こんなに取り乱した母を見たのは初めてで、私は思わず言葉がかけられなかった。 それに子供の事を否定されてしまった事がショックでならなかった。
 その異常さに気付いた周りの警官が母を取り押さえ、私は呆然とした。 母が泣いてる。 疑われる私の所為なのか、罪人の子供を身篭ってるからなのか……。 母の気持ちなのに、何だか私にもよくわからない。 ただ一度に全ての情報を詰め込まれた母にはショックが大きすぎたみたいだ。
 妊娠四ヶ月、もう四ヶ月。 でも四ヶ月前は普通だったんだよ。 律君がいて私がいて、それだけで毎日楽しかったんだよ。 こんな事になるなんて、想像もしてなかったんだよ……。
 でも普通って、何だろう。 本当に普通だったのかな……だって彼は神童って呼ばれて有名人だった。 彼の額の傷が実はとんでもない実験の痕だなんて知らなかった。 本当の人格を抑え込んで、良い子を演じさせられてるなんて知らなかった。
「(本当は彼と出会った事自体普通じゃなかったのかな……)」
 私はその場に座り込む。 そして"やっぱり家には帰れないんだ"と、そう悟った。

...2010.03.30