バイトに復帰したその帰りに、鞄の他に買い物袋を持って私は彼の家へ向かった。
学校帰りに家まで送り届けた時に人並みの常識を教える約束をしていたからだ。
私が心に刻んでいる常識がどこまで正しいのかなんてわからないけど、
それでも今の状態よりずっとマシだと思う、だから了承した。
「のる!」
呼び鈴を鳴らすとリツ君は勢いよく扉を開けた。
この間までの狂気に満ちた表情はなく、まるで子供のように邪気がない。
「ダメだよ誰かもわからないのにドアを開けちゃ!」
だけど私は早速注意してしまった。
リツ君自体が危険人物である事を考えると不思議な感じだが、
誰かも確認せずドアを開けるのは危険な事だ。
「でもちゃんとのるだったじゃない」
リツ君はそう頬を膨らませた。
「あのね、もし危ない人だったらどうするの?それにね、しつこい勧誘はドアを開けたら終わりだよ!」
私がそう力説する。
「ふーん、のるは勧誘を避ける時居留守使うんだ」
リツ君はそう楽しげな表情であげあしを取った。
「しつこいんだもん仕方ないでしょ!」
私は顔を真赤にして反論した。
玄関での会話をやめ中に入ると、中はぐちゃぐちゃとしていた。
以前来た時の片付いていた部屋が嘘のようだ。
恐らく洗濯や片付けるという概念がないのだろう。
「服は洗濯してお外に乾すんだよ、あ、でも今日見たいな雨の日は家の中にね」
私はそう大雑把に説明すると散らばっていた服を洗濯機に入れた。
リツ君はそれを物珍しそうに見ながらうんうんと頷いた。
だけど服が散乱しているという事は着替えというものは分かっているという事だ。
何もしらないのも厄介だが、思いついた事を手当たり次第に教えていても仕方ないという事で、
これは難しい問題だと思った。
「リツ君ちゃんとご飯食べてる?」
私は終わった洗濯物を家の中に乾しながら聞いた。
「うん、一応」
「一応ってなんか怪しいんだけど……」
リツ君の微妙な返答に私は怪訝な表情を浮かべた。
「僕自身は何も作れないから……あいつが……」
少し言い難そうにリツ君は言葉を濁らせた。
私は誰か食事を作ってあげてた人がいるんだとわかった。
そして大体見当もつく、恐らくリツ君のことを気にしていた夜観之君だろう。
「そうなんだ、今日も来るの?」
だけどあえて名前は出さずそう質問を返した。
「今日はいいって連絡した」
リツ君は悪びれた様子もなくきっぱり言い切った。
私は少し夜観之君に悪い事をした気がしたが、「そうなの」と答えると台所に立った。
こんな時間まで夕飯を食べていないという事は、私に食事は作らせるつもりだったのだろう。
「いつも作りに来れるわけじゃないからご飯の炊きかたくらいは覚えてね?」
米をとぎながら隣で様子を見ていたリツ君に言った。
「うん」
嫌がるかと思ったが、リツ君は楽しそうに返事をした。
料理する様子を見た事がないのかもしれない。
同時に夜観之君が頑なに見るなと拒否する姿が目に浮かぶ。
それかお弁当を差し入れていたのだろう、その手のゴミはなかったからどちらかはわからないけれど……。
「今日はカレーだよ、わかる?」
私は買ってきておいた材料を取り出しながら聞いた。
「知ってるけど、カレー不味い……」
先ほどまでの楽しそうな表情が一変、渋い顔でリツ君は言った。
「え……カレー嫌い?」
私は思わずショックを受けた。
律君に作った時は美味しそうに食べてくれたし、辛い物も特別苦手ではなかった。
律君と一緒にするのは間違ってるのかもしれないが、同じ身体なのに味覚が違うというのが不思議だった。
「うっでも、生焼けの野菜が入ってて、粉っぽいのに辛いから苦しいし、黒くて苦いし……」
リツ君は私がショックを受けているのに気付いて一瞬たじろいだが、
記憶しているカレーの残像を思い起こして受け入れる事はできないようだった。
だけど私はそのカレーの像を聞いて唖然とした。
夜観之君はここで料理をした、そして出来栄えは最悪だったという事だろう。
市販のカレー粉を使ってたらそこまで酷くはならないと思うのだが、
リツ君の記憶のカレーが言い方は悪いが偽物みたいなもので安心した。
「なんだ大丈夫だよ、本当のカレーは美味しいから」
リツ君は私の言葉に不思議そうに首を傾げた。
こうして子供のようなリツ君と一週間が始まった。
十一月十日木曜日、リツ君とは学校でも話すようになった。
一応以前の彼を思わせる態度を取るが繊細さが足りない、それでも一生懸命振舞うリツ君が少し微笑ましかった。
しかし、私とリツ君がまた普通に話すようになってしまえば、被害にあった人達はまた私にも怯えた目を向けるのだ。
それには少し心が痛んだ。
だけどここでリツ君をつきはなすような真似はできない。
今また一人にすれば、きっとまた被害を生み出すだろう、
そして何より私の「更生して欲しい」と思うようになった気持ちが嘘偽りになってしまう。
それだけはどうしても嫌だった。
リツ君が席を立ち、私は一人になった。
以前なら普通に過ごせていたものが、今は場の空気が痛い。
誰も口にはしないが、きっと誰もが私を共犯者と疑っているのだろう。
「なあ、何かあったのか?」
不意に後ろから声がして振り返るとそこには夜観之君が立っていた。
「何が?」
私は首を傾げた。
「何って……お前、えー……あいつと、最近険悪だったろ?」
夜観之君は言葉を選びながら質問をした。
どうやら昨日の今日でのこの変化に夜観之君は戸惑っているらしい。
だけどここで話す事はできない、だから放課後に約束を取り付けた。
放課後約束通り夜観之君と屋上へ向う、リツ君は先生に呼び出されていない。
私の胸の内を彼の前で話すのは少し気がひけたから丁度良かった。
「どういう心境の変化だ?あいつも……ずっとムスッとしてたのに」
夜観之君は困惑しながら私に質問をした。
決して今の状態が悪いと思っているわけではないようだ。
「気付いたんだよ、彼は人が当り前のようにわかってる事や……常識が欠けてるって」
私は昨日の出来事を言うでもなく、ただ自分の感じた事だけを打明けた。
夜観之君は黙って私が答えるのを待ってくれている。
「だから、その当り前や常識を教えてあげられたら、更生できるんじゃないかって思ったの」
私はそこまで言い終えると「私の常識も間違ってるかもしれないけどね」と苦笑した。
「……そうか」
夜観之君はそう返事をすると同じく苦笑した。
「夜観之君はわかってたんじゃない?知識が欠落してるって……」
私は苦笑する夜観之君に聞いた。
ずっとリツ君を気にしていた理由はそれだったんじゃないかって……。
だけど夜観之君は一瞬驚いたように目を見開くと、「うーん」と唸り始める。
「そんな事は考えてねーな、ただ……」
「ただ?」
私は意外な言葉に首を傾げた。
「いやいいや」
夜観之君は話をはぐらかす。
「それより、本当に更生できると思うか?」
私は夜観之君の問いに思わず顔を歪めた。
「三人を殺害し更に殺人教唆と数十名に毒物で脅迫した事実は変わらないんだぞ」
夜観之君は前髪の一部をクルクルと指で弄びながら、リツ君の犯した罪を言い連ねた。
私は黙ってそれを聞く。
「未成年とはいえ今頃自首しても、あいつは死刑を待つ事になるんじゃないか?」
夜観之君は髪を弄るのをやめると真剣な表情で事実を突きつけた。
私はすぐに言葉を返す事ができず俯いた。
難しい話だと思う。
リツ君がどんなに改心しようと事実は変わらない。
改心すれば後悔という苦しい枷をはめる事になるだろうし、
罰も受けるだろう。
それによってリツ君は死ぬ事になるのかもしれない。
だけど、このままでいいはずはないのだ。
だから私は昨日の自分が考えていた事を、ありのまま夜観之君に伝えればいいのだと、顔をあげた。
「でも私は、あのまま人を苦しめて生きてるよりずっと良いはずだと思うんだ」
私は夜観之君にそう軽く微笑んだ。
夜観之君はしばらく口を噤んでいたが、
すぐ小さく溜息を付いた。
「……確かに、それが一番なのかもな」
申し訳なさそうな悔しそうなそんな表情を浮かべているが、
それ以上は何も言わない。
ただこの話を誰かに聞かれていた事に、私達は気付いていなかった。
「のる、今日も何か作ってくれる?」
学校の帰り道、リツ君私の顔を覗きこんでニコニコと聞いた。
私が「うーん」と軽く唸るとリツ君は不安そうに見つめ返してくる。
「冗談、でも昨日のカレーまだ残ってるでしょ?」
私は苦笑するとそう聞き返した。
「残ってるけど、他の物も食べたいんだよ、朝も食べたし……」
リツ君はそう口を尖らせる。
普段同じメニューを続けない人には飽きるだろうかと少し思った。
だけどカレーがあるのに残すのは勿体無い。
「じゃあカレースパとか、あ、カレーうどんにしようか」
私はニッコリと笑顔で答えた。
「それカレーじゃないか!」
リツ君はブーイングする。
「そんな事ないよ!パスタとうどんは麺類だもん!」
私はこのよさをわからせようと反論した。
また喧嘩してしまっているが、この間までの喧嘩とは違う事が少し嬉しかった。
「それとも、カレー美味しくなかった……?」
私は少し間を置くとそうしおらしげに聞いた。
昨日は美味しいと食べていたから、不味いと答えたら喧嘩になるのはわかっているだろう。
それでも他の物を作らせようというのか、ちょっとイジワルしたくなった。
「……わかった食べるよ、でもパスタ、で朝用にうどんも作って!」
リツ君は一瞬たじろぐとそう答えた。
「うどん伸びたり千切れたり溶けちゃったりしちゃうかもよ?」
私なら多少つゆに溶けはじめてるうどんでも食べれるが、リツ君も大丈夫なのだろうかと思わず聞いてみた。
「いい、多分食べれる」
リツ君は威張るように答える。
だけどその威張ったような態度の中に、決意のようなものを感じた。
その決意と「多分」って言葉が気になったけど、それでいいならと私は了承した。
十一月十五日火曜日、リツ君と和解してからもう六日目。
彼は喜多野君に手を出す事もなく、きちんと学園生活を送っている。
私や夜観之君と普通に会話もするし、六日前に比べて知らない事も大分減った。
何もなく出会っていれば良い友達として過ごせていたとさえ思う。
ただ彼から殺人ゲームをやめるという言葉を聞く事はできずにいた。
自首は今すぐでなくてもいい、いずれそれを決意してくれればそれで……。
このままただ待っていてはいずれゲームの被害者は全員死んでしまう。
それでは彼を更生させようと和解した意味がない。
だけど私は和解した意味と更生させる事をイコールで結ぶ度、少し心が痛んだ。
リツ君は悪い知識に踊らされているが、心は純粋なように感じる。
その純粋さにつけこんでいるようで、これはきっと罪悪感だろう。
「のるのる!今日家に来てくれる?」
学校帰りにリツ君はまるで小動物のように小首を傾げながら聞いてきた。
「昨日も一昨日も、むしろ毎日リツ君の家通ってるけど?」
私は意地悪く言った。
すっかりこのやり取りが定着していて、律君の時とのギャップに少し笑える。
「う、でも今日は、大事な話があるから!」
リツ君はそう叫ぶと先に走って行ってしまう。
そして辛うじて見える位置まで行くと立ち止まりこちらを振り返る。
何かを言おうとしてるのに気付いて私は耳をすました。
「やっと決意したんだから……絶対来てよ!絶対だからね!」
リツ君はそういうとそのまま先に帰ってしまった。
一体何を決意したのだろう。
良い事だろうか?あの様子は悪い事ではないと思うけど。
「……何だろう?」
でも予想するような事ではない。
リツ君が話したい事だと言っているのだからそれを待てばいいのだ。
だから私は今日のお夕飯の献立を考える事にした。
一度家へ帰り着替えを済ます。
そしてスーパーで買い物をするとそのままリツ君の家へ向かった。
インターホンを押すとスピーカーから『はい、どちら様ですか?』とリツ君の声がする。
私が教えた事をきちんと彼は守ってくれていた。
「私だよ私」
私は試しに名前を名乗らずそう答えてみた。
『俺俺詐欺みたいだよそれ』
リツ君は扉を開けずにインターホン越し言う。
「偉い偉い、私、坂滝でーす♪」
私は楽しそうにそう答える、するとリツ君は扉を開けた。
「わかってるよ、覗き窓で顔確認したし」
ベロッと舌を出す。そして「いらっしゃい」と家の中へ招き入れた。
室内も六日前と違い整然としていた。
片付いてる事が常識だというわけではないが、リツ君の中ではそれが一番良かったのだろう。
リツ君は「その辺に座って待ってて!」とそのまま自室のある二階に駆け上がっていった。
私は「うん」と返すとその後ろ姿を見送って、彼が付けっぱなしにしていたテレビに目をうつす。
テレビの中では出演者が楽しくトークをしたり、ちょっとしたクイズをしたりしている。
あまりテレビをみない私は物珍しかったのか思わず見入ってしまった。
しばらくして完全にテレビの虜になって油断していた私の視界が塞がれ、我に返った。
正確には目の前に何かを差し出されたというべきなのだろう。
目の前に大きな包装紙の塊があるのだ。
私はとりあえずそれを受け取ると後ろを振り返った。
「誕生日おめでとう、のる」
リツ君は少し照れ臭そうに「九日も前の話だけど……」と呟いた。
「え、あ、これって……」
私は包装紙と、リツ君を交互に見つめながら思わずその包装紙を抱きしめた。
抱きしめた包装紙はすごくやわらかい。
「ありがとう」
自分の誕生日なんてすっかり忘れていた。
そういう事に敏感だった母も、父に関連してる事件をきっかけに忘れていたほどだ。
でも本当は自分の誕生日を忘れてたのではなく、
誰からも祝ってもらえない誕生日が寂しくて、忘れたフリをしていたのかもしれない。
だからすごく嬉しかった。
「喜んでくれたなら……良かった」
リツ君はッホとしたように微笑した。
相当悩んで選んできたのかもしれない。
直接聞いてはいないけど、きっとそうに違いなかった。
「それで、来週の二十三日、祝日なんだけど……」
彼が途中で言葉を止めたから、私は「何?」というように首を傾げた。
「バイトがあるのは判ってるんだけど……一緒に行きたい場所があるんだ……」
リツ君は少し視線をずらした。
私は少し驚いた。
バイトの事を気遣われた事ではなく、二十三日の事。
それは律君と初めて小さな遊園地に出かけた日だ。
ただの偶然なのか、私はリツ君を見た。
「できれば初めて出かけたその日に、僕の最初で最後の、思い出が作りたいんだ……」
リツ君は切なげに表情を歪めて言う。
その表情の中に、学校帰りに感じた決意のようなものが見えた。
「最初で、最後?」
私は思わず聞き返す。
彼が何を思ってそう言ったのか、なんとなくわかっていたのに……。
「……聞いてたんだ、のると七瀬の会話……」
リツ君はそう小さく呟くと、項垂れた。
「のるは言ったよね、酷い事をするから嫌われるんだって……」
「う……うん」
私は思わず言葉を詰まらせた。
たった一週間だけど、彼は何かに気付いたのかもしれない。
その酷い事以外、とても純粋だった彼には言い難い事を。
「酷い事って記憶深く刻まれる、その人が酷いと感じればどんな些細な事でも」
彼は最近見たニュースで報道された事件の話を始めた。
些細なわだかまりが原因で人の命を奪った男の話だ。
「些細なわだかまりが、人を殺そうと思うまでになった……じゃあ僕は?」
私は何も言えなかった。
彼の抱える恨みや怨念は、比べるのはおかしいが比較にならない程大きい。
「今頃足掻いても、僕が傷つけた人達は誰もが僕を恨み続けるだろう」
彼はそう苦しそうに微笑む。
「殺してしまった人だって生き返らない、今頃普通になっても意味がなかったんだ……」
私は首を振る。
罪の重さを理解できただけでもまだ良かったのだと、そう思いたかった。
「だから、僕決めたんだ……」
こうなるのが彼の為だと思っていた。
だからこれでいいはずなのだ。
だけどそれはこんな形じゃない、
ちゃんと自分が説得しなきゃいけなかったのに……。
夜観之君とのあの会話から五日、彼はずっとこの事ばかり考えていたのではないだろうか、
悩んでいたのではないだろうか。
私はいつもこの「あさぎり りつ」という人が言い出すのを待ってしまうんだ。
「僕、自首しようと思うんだ……」
望んでいたはずの言葉は、心が締め付けられるようだった。
だけどそんな彼の気持ちを嘲笑うように、酷い明日がやってくる。
...2009.07.01