どれくらい時間が経っただろう、私は膝を付いて呆然としていた。
「僕の偽物」というこの言葉が理解できなかった。いや、理解したくなかった。
二人は私を置いてガレージに行ってしまった。
桐島さんの遺体も一緒だ。
またあの場所に、遺体を遺棄するのだろう。
ここで袋詰めにして、ガレージへ運んで行った、二人で……。
夜観之君は彼の言いなりだった。
恐ろしい殺人鬼を前に、善人になる事なんて無理なのだ。
私も彼に逆らう事なんてできなかった。
逆らったら何をされるかわからない、何より解毒ができない。
心のどこかで、自分は悪くない、彼が悪いんだ、そう思ってたに違いなかった。
だけど今日は少し違った。
この苦しい現実を続けるより、全てを話して楽になりたかった。
たとえそれで自分が死ぬとしても……。
「何かいけない事を考えてるでしょ、のる」
私はビクッと身体を震わし、声の方向を見上げた。
見上げた先には冷たい目で私を見下ろすリツがいた。
「監禁生活の方がいいか、そのくらいしないと被害者面できないんだろ?」
リツはしゃがみ込むと私の顎を掴んで顔を覗き込み、クククと喉を鳴らした。
リツは私の知ってる彼じゃない、怖くて恐ろしい存在でしかない。
私は何も答える事ができず、ただ怯えて震えるしかなかった。
「監禁するからには屈辱を味あわせてやる」
リツはそう言うと頬に軽く口付ける、思わずまた身体が震えた。
「被害者になりたいんでしょ?これは仕方ない事だ……」
私の反応それが面白かったのか、彼は微笑すると今度は首筋に口付けた。
だけど先程のような軽い物ではなく、痛みが走る。
「イヤ……!」
私は驚いて彼を両手で押し飛ばすと、口付けられた首筋を抑えた。
唇を噛んで涙を堪えても一度潤んだ瞳は涙を解放してしまう。
それすらもリツの思うつぼのように思えて、空いてる手で自分の肩を抱いて縮こまる事で表情を隠した。
彼は「もっとすごい事してたくせに」と呟くと、面白い物を見たというようにケラケラ笑った。
「貴方じゃないっ貴方じゃないもん!」
私はそう叫んだ。
だけど同時に理解させられた言葉の意味が辛い。
今のリツは同じ身体を使っているだけで、彼とは違う人なのだ。
「……律く、んっ」
私は小さく呟くとボロボロと涙が零れた。
目の前の人じゃない、この間まで自分の前にいたはずの人を思って……。
「何で泣くんだよ」
リツは先程よりずっと低い声でそう聞いた、リツの気分を害してしまった。
私はまたビクビクと震える事しかできず、声がでない。
「どうして泣くんだって聞いてるんだ!」
リツは私の肩を揺さ振るとそう言って激怒した。
思い通りにならない事が面白くない、その様子はまるで子供のようだ。
私は何も抵抗できず、早く解放される事を願うしかなかった。
「もうやめてやれっ」
その時、戻ってきた夜観之君がリツの腕を掴んだ。
「お前まで僕が悪いって言うのか!?」
リツはその腕を振り払うと夜観之君を睨んだ。
夜観之君は悲しげな表情を浮かべて、首を横に振った。
リツはそれでも納得いかなそうにしていたが、ムスッとしながらも落ち着いたようだ。
「帰ろう、高校生が夜歩いてたら補導されかねない」
冷静に夜観之君はそう提案した。
「待てよ、のるを監禁するのに準備するんだよ」
リツはそう楽しそうに言った。
夜観之君は目を見開き、私と目が合った。
そして少し間を空けると、首を振った。
「コイツの母親は警察だ……事件がバレたらどうする?」
夜観之君は私と違って冷静だった。
どうすればリツの機嫌を損ねないか、どうすれば私を監禁せずに済むか。
とても微妙なさじ加減だが、リツは更に不機嫌そうになりながらも「ッチ」と舌打ちする程度に留まった。
「もういい、帰る」
リツはそう呟くと私達に背を向けてそのまま階段を降りようとした。
しかし何かに気付くとすぐ振り向いた。
「警察に口外なんてしてみろ、毒より前に殺してやるからな」
私への警告だった。
リツの見開かれた目は少し血走って見え、笑う口元は繊細な顔立ちには似合わないくらい醜く歪む。
もはや見た目すら、まったくの別人に思えた。
「ただで死ねると思うなよ、酷い目にあわせてやる……」
リツは少し考えると、面白い事を考えたというようにクスクスと笑う。
「赤ん坊を引きずりだして抱かせてやるよ、そして目の前でぐちゃぐちゃにしてやる……!」
恍惚というような表情を浮かべてリツは高笑いをあげると今度こそその場を後した。
残された私達はすぐには動けなかった。
リツの言った事は、とてもえげつなくて、それでいてとても子供じみていて、恐ろしかった。
「自分の子供を引きずり出すって……」
青褪めた顔で夜観之君は口を抑えた。
何故そんな事が言えるのか、信じられないのだろう。
「あの人のじゃない……律君の子供だよ……」
私はあのリツの子供である事を認めたくなくて、そう夜観之君に言った。
私は植え付けられた自我、その人を愛していたのだ。
外はもう夜になっていた。
だけど私は立っていられない。
腰が抜けたのか、恒例の毒の作用で痺れているのか、
とにかくその場を動く事ができなかった。
だけどいつまでもそこに居るわけにもいかない。
気持ちがドンドン滅入るだけ、そう思った夜観之君が私の手を引いて家まで送ってくれた。
あれだけの事が起っているのに、私を気遣える夜観之君には本当頭があがらない。
そして何よりこんな状態の独りは怖い、そう思っていたから心強かった。
家に着いても、私はその手を放す事ができなかった。
今日も母は帰れないと言っていた。
この手を放したら独りになってしまう。
それが怖かった。
「心配すんな、アイツのあれはただの脅しだ」
夜観之君は慰めるように言った。
違う、そういう意味じゃない。
私は思わず首を振った。
言葉がでない、でも理解して欲しかった。
だけど気持ちとは裏腹に顔すら見せられなくて私は俯いた。
「……外、冷えるだろ?早く家帰れよ」
夜観之君は軽く溜息を付いた。
どうしていいかわからないという様子だ。
言葉どころか表情すら読み取れないのだから当り前だろう。
「ほら手、放すぞ?」
そう言って放された手を私はまた掴んだ。
ギュッと目を瞑って、俯いたまま、夜観之君が何か言うのを待つ。
少しでも独りでいる時間を減らしたかった。
夜観之君は目を見開くと、戸惑った表情を浮かべた。
だけどすぐ悲しげな表情が浮かぶ。
「俺は一緒にはいられねえよ……」
そう言ってまた手を放した。
「……どうして?」
私は夜観之君を見上げて聞き返した。
意味がないとわかってても涙が枯れる事はなくて私の頬を伝う。
私は弱くてそしてとても愚かだ。
自分の事ばかりで、こうしてまた夜観之君を傷付けている。
わかっていてもやめれない、それが酷い事だとわかってるのに。
「……全部俺が存在した所為だから」
青褪めた表情で夜観之君は言った。
自分を生んだ事で現場復帰の遅れた母親を狂気に向かわせてしまった。
そしてその狂気は身寄りのなくなった「朝霧 律」にまで向かったのだと……。
夜観之君はずっとそうやって自分の存在を責めていた。
「そんなの絶対違う!」
私は思わず声を荒げた。
夜観之君が生まれた事が罪なら、私はどうすればいい。
ずっと一緒にいたのに彼の事を何もしらなかった。
それどころか、彼とリツを見極める事すらできてなかった。
あの夏休みのあの日に、彼が何を求めて自分の元を訪れたのかも……。
そんな私だって罪じゃないだろうか。
だけど私がどんなに罵られても、夜観之君の存在が罪だなんて認められない。
この優しい人の存在が罪なら、世の中どれだけの罪が存在してしまうのか……。
「ちょ……!」
急に声を荒げた私に驚いた夜観之君は、私の家に飛び込み鍵をかけた。
「おまっ馬鹿か少しは時間考える余裕くらいあったろ!あんなでかい声で近所迷惑だろ!?」
夜観之君は私に指を突きつけて一気にそう説教をすると、ゼーゼーと肩で息をした。
私は目をパチクリさせ、真赤になった夜観之君の顔を見つめた。
さっきまでの自分を責める夜観之君じゃない、普段の夜観之君だ。
その変わりように嬉しくて思わず笑いが込み上げてきた。
「てめっ何笑って、反省してんのか?」
夜観之君は口元を歪ませて私の頭をグリグリとした。
男の子の手だからゴツゴツしていてちょっと痛いけど、
普段通りの夜観之君が嬉しくてどうしても笑いが堪えられなかった。
「ったく、付き合ってらんねー」
夜観之君は呆れ顔でそう言うと、玄関のドアに背を預けた。
「でも……サンキュ」
最後の言葉は小さい声で聞き取りづらかったけど、それでも私の耳にも届いた。
顔を見合わせて少し笑った。
十月三十日日曜日、
目が覚めた私はコソッとした動作で自分の布団を片した。
そして制服が乾いたのを確認して取り込んだ。
血はついていなかったが埃まみれの制服をそのままにはしておけなかった。
家の洗濯機で洗っていいものかは悩んだが、こればかりは仕方ない。
「んー……」
隣の布団で寝ていた夜観之君が寝返りをうつ、起こしてしまったかと思ったがそれはないようだ。
夜観之君が眠っている所までのいきさつは少し長い。
昨日私も夜観之君も全身埃まみれだった。
当然制服をそのままにはしておけない、だから彼の服を押し付けて夜観之君を脱衣所に押し込んだ。
夜観之君は渋っていたが、今にも脱がす勢いな私に根負けし、
更には脅迫じみた私の形相に耐え切れずお風呂にまで入らされた。
それでも制服が乾き次第帰ると夜観之君は口酸っぱく言っていた。
私が泊まっていけばと言っても「軽々しく男を家に泊めるな!」と呆れ顔で言うばかりだ。
だけどよほど疲れが溜まっていったのか、それとも眠れていなかったのか、
私が少し席を離れてるうちに夜観之君は眠っていた。
起こさなかったら怒られるだろうとは思ったが、ぐっすり眠るその姿に申し訳なさを感じて起こす事ができなかった。
唯一私がした事は十月末は冷えるからと夜観之君を布団に運んだ事ぐらいだ。
自分の制服は後回しにして、夜観之君の制服にアイロンをかけた。
たまに夜観之君を見ても起きる気配はなく、やはり眠れていなかったのだろうと思う。
私は夜観之君の制服にアイロンをかけ終えると、夜観之君の顔を覗きこんだ。
こんな間近で見たのは初めてだからか、少しドキッとした。
彼もだが、夜観之君も整った顔立ちをしていて、睫毛も私なんかよりずっと……。
理不尽だけど、その睫毛は少しずるい。
「……うーん?」
眠っている顔を見つめながら私が軽く頬を膨らませている。
すると妙な視線に気付いたのか夜観之君は薄らと目を開け、同時に驚愕した。
夜観之君は急いで身体を起こすと目を擦った。
「……おまえ、いる?ゆめ〜……続く?おれ……ねちゃってる?」
しかし夜観之君の放った言葉は意味不明で私は首を傾げた。
「だから〜……夢が続くのかって……あ、れ……」
そこまで言ってやっと何かに気付いたのか、夜観之君は顔を赤くして布団で顔を隠した。
私はその動きもよくわからずとりあえず「おはよう」と声をかけてみる。
「なんか見た?なんか聞いた?っていうか俺いつの間に寝てた!?」
全ての状況を飲み込んだ夜観之君は、これまでにないくらい慌てふためいていた。
「えっと、とりあえず今"おれ……ねちゃってる?"って言ってたよ?」
「んなのわかってんだよ!」
夜観之君はよほどショックだったのか更に顔を真赤に染めた。
私は慌てる夜観之君に何を言っても逆効果なのを察し、落ち着くのを待った。
「まあ、何もなかったならいい……いやよくない!」
だけど夜観之君は思い返せば思い返すほど慌てていくようで、
何かを自問自答したあとまたそう言って頭を抑えた。
私はというと、叫ばれる度心臓が跳ねた。
普段どれだけ夜観之君が叫ばないかがよくわかる。
「終いにゃ"ねちゃってる?"だ……?俺、俺が……カッコ悪すぎる……!」
夜観之君は色んな意味で青褪めた表情でそう呟くと顔を再び隠した。
さすがに私もここまでショックを受けているのを見ると可哀相になってきた。
「そんな事ないよ?なんていうか、可愛かったよ?」
「可愛いとか言うなー……!!」
夜観之君は更に大きな声で反論した。
確かに私も男の子に可愛いはどうなのだろうとは思う。
だけど可愛いくらいしか浮かばなかった。
「え、じゃあ……面白かったよ?」
「もういいから何も言うな……」
夜観之君はそう言って頭を抱えると大きい溜息を付いた。
起きた事は仕方ないよと私は朝食を二人分用意してテーブルに並べる。
しかし夜観之君は自分で言った事を曲げてしまった事が相当ショックなようで、
再び頭を抱えていた。
それは少し申し訳ない。
「最近お母さんいないから、久々の二人がちょっと嬉しい」
だけど私は最近ずっと独りだった所為か二人なのが嬉しくて、
二コ二コとしながらトーストの耳を少し千切って口に運んだ。
「二人ねー……」
夜観之君はジトーとした表情でコーヒーをすする。
まだ起こさなかった事を根に持っているようだ。
「わざとじゃないんだよ?あんまり気持ち良さそうに寝てたから……」
「わざとだったらただじゃ済まさないっての」
私が少し苦笑いで言い訳をすると、夜観之君も少し苦笑しながらそう返してくる。
「ただじゃ済まさないというと……?」
首を傾げながら私がそう聞くと、夜観之君は一瞬ピタリと硬直した。
「ものの例えだ!分かれ!」
夜観之君はしばらく考えた後にそう叫ぶと、トーストとコーヒーを一気に口の中へ流しこんだ。
まるで自棄食いだ。
「ふう……ごちそうさま」
私は呆気に取られた。
だけど夜観之君はそれを気にせず「台所借りるから」と言って食器を洗い、食器立てに並べた。
「別にそこまでしなくていいのに」
私は食事を続けながら言った。
「そういうわけにもいかないだろ」
夜観之君は再び椅子に腰かけると頬杖を付いてそう言った。
どうやら母の事を気にしているらしい。
「お母さんなら、事件の捜査で最近ほとんど帰ってこないよ」
私はそう軽く微笑んだ。
「へぇ〜、でも刑事だって二十四時間勤務じゃねえだろ?」
夜観之君は少し首を傾げた。
「星垣さんの事件がお父さんの事と繋がってる、お母さんが刑事になった動機だから……」
私はそのまま「しょうがない」と続けるつもりだったが、
夜観之君は私の強がりがわかったのか「えらいえらい〜」と頭を撫でた。
なんだかそれが少し恥かしくて、照れてしまう。
「事件、解決すればいいな」
夜観之君は頭を撫でたまま、そう言って微笑んだ。
それが少し嬉しくもあり、悲しくもあった。
「でも、事件が解決したら、夜観之君のお母さんが……」
私は思わずその話題を口にした。
「どうなるかなー……証拠を残してるとは思えねぇが」
夜観之君は自分の母親が捕まるかもしれない事をあまり真剣には考えていないのか、
まるで捕まえて欲しいというような言い方だった。
私は戸惑ったように「そうじゃなくて……」と口にしていた。
私の言わんとしている事がわかったのか、夜観之君は軽く溜息を付く。
「捕まるべきなんだよ、これは好き嫌いの問題じゃない、お前もそうだったろ?」
そして無表情でそう私に問い返した。
確かにそうだ。
彼が人を殺してから初めてまともに会話ができた夜に、
私はただ責めるだけじゃなくて自首するよう言った。
嫌いになれないからこそ、自首して欲しかった。
どんな事があっても、彼が捕まるべきなんだという気持ちは変わらない。
変わるはずがない。
つまりそういう事なのだろう。
「まあお前と俺じゃちょっと違うけどな」
夜観之君は足を組むとそう皮肉めいた笑みを浮かべた。
「俺は嫌いだ、全部人の所為にして、律の人生までめちゃくちゃにしたあのババアが」
途中まで悲しい事を聞いている気がする。
だけどその台詞を理解した時に私は首を傾げた。
「律?」
私は思わず聞き返した。
夜観之君が彼を名前で呼んだ所は見た事がない。
彼が「嫌い」だと言っても、ずっと苗字で呼び続けていたのにと、疑問だった。
「たまたまだ!」
だけど夜観之君は目敏いというようにそうツッコミを入れると、少し顔を背けた。
「……なあ、やっぱ今の朝霧は嫌いか?」
唐突な質問に私は意味がわからなかった。
今のという事は、あのリツの事なのだろう。
あの人のどこに好きになれる要素があるだろうか。
「嫌い……」
私は少し表情を曇らせて言った。
「だよ、な」
答えはわかっていただろう。
だけど夜観之君は少し残念とは違うが、複雑な表情を浮かべていた。
「どうして、酷い人だよ?好きにはなれないよ……」
私は思わずそう返した。
夜観之君はリツに同情している、そう言う風に思えたからだ。
「判ってる、それが普通だ」
夜観之君はそう苦笑すると、立ち上がった。
私は何か間違った事を言っているだろうか、思わず口を開きかけた。
だけど言葉はでない。
「俺もう帰るから、制服持ってくぞ?朝霧の服で帰りたくないしな」
夜観之君はそう言うと脱衣所の扉を閉めた。
...2009.05.01