体育祭の日の夜、今日は母がいるから少しは孤独が和らぐかと思った。
だけど他愛もないお喋りをしてても、打明けられない事が多すぎる。
孤独が和らぐどころかかえって負担でしかなかった。
当然、彼との間で交わされた事も黙ったままだ。
気付けば私の目は自分のお腹に見ている。
触ってみても、実際どうなのかはわからない。
ただ生理不純なだけかもしれない。
これだけの事があったんだ、ストレスを溜め込んでいたのかも……。
お風呂で自分の体型を確認しても、今までとそう変わらない。
むしろよくない痩せ方をしたように感じる。
食事を取るようにはしているものの、量はやっぱり減っている。
殺された二人の姿がちらついてとても飲み込めなかった。
結局病院に行ってみない事には何もわからないのだ。
でも毒を盛っている私に、彼は病院に行く事を許可するのだろうか、
だけど目に判る変化が起きてからでは手遅れだ……。
そこまで考えて、私はフと思った。
病院で検査して、もし妊娠しているなら中絶するのだろうか?
もし私のお腹に新しい命が宿ってるなら、その命はどちらを望むだろう。
父親は犯罪者、母親である私は巻き込まれたとはいえ加担者だ。
どんな理由があってもその事実は変わらない。
産まれてきても不幸なだけかもしれない、
私の人生すらどんな道なのかわからないのだから……。
大体、彼もこんな犯罪を犯しておいて、一児の父になる事を望むのだろうか?
『のる、ここ数ヶ月……生理来てないんじゃない……?』
彼は私にこれだけしか言わなかった。
そして私も『来てない気がする』と曖昧な答えしか返せていない。
もっと、きちんと相談しなければいけない事なのに……。
寝ようとしても考え事がとめどなく溢れてきて、完全に目が冴えてしまった。
とにかく、彼に話をしてみよう。
病院に行く事を許可してくれるのかどうか、
そしてもし妊娠しているなら、どうするのかも……。
「(中絶しろって言われるのかな……それとも……でも……)」
自分がどうしたいのか決められなくて、意味もなく苦しかった。
母にも相談しなければいけない事だけど、
話してはいけない事まで話してしまいそうで、後回しにせざる得ない。
布団に潜ってかたく目を瞑ると、枕元に置いていた携帯が音をたてた。
短い着信音、メールだ。
朝にしようかとも思ったが、どうせ寝付けない。
そう思ったら、私は携帯を手に取っていた。
「(話たい事があるから、明日、家に来てくれないかな……?)」
きっと同じ事を考えているのだろうと思った。
何だかそれだけで少し不安が和らいだ気がする、私だけの問題ではないのだと……。
私はうつ伏せになって枕に軽く顔を埋めながらメールを打ち始めた。
「(わかりました……何時に行けばいい?……と)」
簡単すぎるかと思いつつ、そのメールを送る。
それほど間を置く事もなく、すぐ返事が届いた。
「(来る時に電話をくれればいいよ……か……)」
返事を返すべきか少し悩んだけど、一応「わかりました」とだけ打って返す。
そして枕元に再び携帯を置くと、また着信音が鳴り響いた。
彼は私と同じで割と返事を返す方だったから、変わらないなっと少し笑えた。
「(ごめん、ありがとう……。何で謝るんだろう……?)」
色んな事が浮かんできて、どれに謝られてるのかわからなかった。
だけどこのやり取りがあったからか、少しだけ安心した自分が居た。
本当に、少しだけれど……。
十月十一日火曜日、今日は振替休日で学校は休みだった。
だから彼は、私を家に呼んだ。
大事な話をする為に……。
いつも通りに起きて身支度を整えていると、先に起きていた母が私の分の朝ご飯を片手に口を開いた。
「るん、休みなのに今日出かけるの?」
私は「うん」っとだけ答えたのだが、母は楽しそうにニヤニヤしていた。
「例の子とデート?るんもそういう年頃なのね〜……」
例の子はもちろん彼の事だ。
男物の衣服が家にあって気付かないはずもない、
何より、以前は彼の事をよく母に話していたようなそんな記憶がある。
だけど今日はデートなどではないし、こんな状態の私達がどこかに遊びに行く事はありえない。
「そんなんじゃないってば……っ」
思わず私は頬が熱くなるのを感じながらもそう返した。
だけど本心が伝わる事はなく、母は楽しそうに「はいはい」と返すだけだった。
母が出勤するのと同時に私も家をでた。
目的地が正反対だからすぐ分かれたが、私は途中足を止めて携帯を開く。
それほど登録されてない電話帳を開くと真っ先に『朝霧 律』が表示される。
前はそれが便利だったが、今は少し間が欲しいと思えてならなかった。
『プルルルル……』という音を二度聞いたくらいで彼は電話にでた。
早すぎるだろうかと少し思っていたのだが、心配しすぎだったようだ。
『おはよう、早いね』
普段通りの口調で彼はそう切り出した。
「うん、いつも通り起きたから……」
当り障りのない返事、だけどそのくらいしか返しようもない。
『そうなんだ。あ、普段通りのルートで来るなら迎えに行こうか?』
そう質問して私が「うん」と答えないのは知っているだろうに……。
「大丈夫だよ、そんなに遠くないし」
私がどう答えても、きっと途中まで迎えにくるのだろう。
今は少し違う理由だけど、以前は甘えてるように見られるのが嫌で「うん」とは答えなかった。
『そう、わかった』
彼はそう答えると電話を切る。
私が中々電話を切れないのを知っているから、彼が先に切るよう気を使ってくれていた。
そういう所は以前と何も変わっていない。
少し安心するのと同時に、全てが変わっていればどんなに救われるか……。
私はそう考えずにはいられなかった。
彼の家と私の家の中間地点にある公園を通りすぎる時、こっちに向かって彼が来る。
「大丈夫」と言っても迎えに来る彼に知らず知らずのうちに甘えていた事を自覚した。
「……おはよう」
彼は微笑みながら言った。
目の下にはくまができていて、もしかしたら私以上に眠れなかったのかもしれない。
責任を感じているのかと思ったら何か申し訳ない気持ちになった。
「おはよう……私早すぎた?」
「いや、もう眠れそうにはなかったから……」
彼は歯切れ悪く呟く、それに顔色もどことなく悪い。
だけど私は「そう……」としか答えられなかった。
彼の家に着くとリビングに通された。
ソファーをすすめられて腰をかけたけど、何か落ち着かなくて妙に緊張する。
彼はその様子に気付きながらも何も言わず、台所へ行ってしまった。
時間が経てば経つほど、私の緊張は高まるばかりだ。
しばらくして彼はトレイに二つのカップとティーポットを乗せて戻って来た。
そして今度は手際よくカップに紅茶を注ぎはじめる。
そういう光景を見る度本当何でもできるんだと感心してしまう。
「どうぞ、ミルクティーにしてみた」
「うん、ありがとう」
私はそれを手に取った。
カップからミルクと茶葉の混じった甘い香りがする。
その香りに少し気持ちが落ち着くような気がした。
彼は紅茶を少しだけ口に運ぶと、すぐにカップ置く。
喉を通らない、そういう風に見えた。
話し合う事は沢山あるのに、簡単には切り出せなかった。
私達は高校生、それだけでも簡単な話ではなかった。
更に今の彼は犯罪者……。
悩む必要はない、もしも妊娠しているなら中絶する、それが普通の人の答えだろう。
だけど、私は彼を見限る事ができなかったように、その簡単な判断すらできなかった。
ただ、私が恐れている死を私の判断で宿った命に与える、それが酷な話だった。
考えが巡れば巡る程恐ろしくて仕方なかった。
自分がカタカタと震えている事すら気付かない程に……。
「のる」
その声に驚いて肩を掴む彼の手を見た。
そこから少しずつ彼へ視線を移していくと、酷く悲しそうな彼の顔が目に映る。
私の恐怖より、彼の方は何倍も辛いのかもしれない。
何故かそんな風に思えてならなかった。
気持ちを整理するために私は紅茶を口に運ぶ。
気付かぬうちに大分時間が経っていたのか少し冷めていたけど、
フワフワとした味わいに少しだけ気持ちが和らいだ気がした。
その時、彼は突然立ち上がった。
私は驚いて彼を見上げると、窓の外を見て歯を軋ませる。
「のる、僕の部屋に行っててくれる、紅茶はそのままでいいから……」
彼は私にそう言うとそのまま玄関の方へ向かっていった。
階段を昇る時少しだけ振り返ると、靴をしまっているのが見えた。
むしろ隠すという表現が正しいのかもしれないが・・・私は言われるまま彼の部屋へ向かった。
私が部屋に入って数分も経たないうちに、誰かがこの家に入ってきたようだった。
二階からでは一階の様子はよくわからない。
ただ物音と会話だけ、しかもすぐに音はなくなり来客人は家を後にしたようだった。
窓の外に目を向ければ、道路には高そうな車に乗り込む男性と女性。
その男性の髪の色が彼とそっくりで、彼のご両親なのだろうと思った。
車はすぐどこかへ行ってしまったが、彼は二階には来ない。
窓の外を見ている意味もなくなり、私はその場に座りこんだ。
彼はいつここから出ていいと言ってくれるだろう。
それに、今一人で何をしているのだろう。
窪谷さんを殺してきたあの日のように、実はいなかったりするのだろうか……。
そう不安ばかり溢れてきた時、『ガシャンッ!』と一階からすごく鈍い音がした。
思わず身体が震える、一体何が起ったのだろう。
耳をすませてみると、彼の叫び声も聞こえてきた。
何を言っているかまではわからなかったけど、尋常ではない様子だ。
私はただ全てが落ち着くのを待ちたかった。
だけど、段々彼のその叫びが泣いているようにさえ聞こえてきて、放っておく事はできなかった。
私は恐る恐る彼の部屋をでて、一階へ繋がる階段を静かにゆっくりと下りていく。
リビングにはいない、それに叫び声もまだ篭っている。
だからどこかの部屋にいるのはわかった。
音はかなり大きくて、すぐどの部屋で暴れているかわかった。
彼の母の部屋だ。
ノブに手をかけようとすると、内側から扉に何かがぶつかり酷い音と衝撃を感じた。
驚いて後退った私は壁にぶつかってそのままズルズルと座りこんだ。
怖い。
こんなに激しく暴れているなら、正気ではないと思う。
そして狂気の赴くままに暴れているなら、彼は私にも攻撃するのではないだろうか……。
そう考え出すと怖くて耳を抑えて身を縮めてしまった。
だけど二階ではよく聞き取れなかった声がここでは聞き取れる。
彼の叫びに混じった泣き声、さっき何かあったんだと思う。
だから彼を止めてあげなきゃいけないとそう自分に言い聞かせた。
ノブに手をかけ少しずつ扉を開いた。
物は飛んでこない。
代わりに『ビリビリビリッ!』と紙裂ける音が聞こえてきた。
同時に叫び声は止んで、私は思い切って部屋に入る。
すると以前より更に酷い状態になっていた。
本棚は倒され本が散乱し、更にいくつかの本棚は圧し折れているし、
机は刃物で傷付けられていて、もう机としては使えそうにない。
そして辺りには紙屑の雨が降り注いでいた。
紙屑の中には赤みを帯びたものまである。
それの発生源は机の裏。
そこには叫び疲れて力無く泣いている彼がいた。
「律君……」
私が恐る恐る声をかけると、彼は紙を裂くのをやめて肩を震わせた。
千切られた本を涙がポタポタと濡らしている。
彼が本に触れた部分が赤く染まる、良く見れば彼の手は切り傷だらけだ。
紙で切ったのかもしれない。
私の顔を見ないままだったが、彼は少しずつ落ち着きを取り戻した。
だけど髪の合間から覗く目は酷く虚ろだった。
そんな彼が口をパクパクと動かしているのに気付いて、その場に膝をついた。
「……聞いてみたんだ」
かすれた声で言った彼の言葉に私は首を傾げる。
一体何を聞いてみたのだろう?
私は言葉の続きを待った。
「……僕の知った事、全部、事実だった」
「え?」
何の事か私にはわからなかった。
ただわかるのは、それが彼にとって重要な事で、間違っていて欲しかったという事だけだ。
「何もかも……あいつらの所為で……っ!」
そう言って彼は頭を抱えて蹲りそのまま何かを呟いていた。
かすれてしまっている彼の声が聞き取り辛い。
ただ、相当な恨み憎しみが篭っている事だけは彼の様子からすぐにわかった。
そして枯れたはずの涙が再び溢れ出てる事も。
だから私は彼を抱きしめた。
まるで子供をあやすように……。
再びリビングに今度は私が彼の手を引いて向かった。
彼の足取りは覚束なかったけど、いつまでもここにいたら彼の気持ちも休まらないと思った。
彼を椅子に座らせると、テーブルに置きっぱなしになっていたカップやポットをトレイに乗せる。
「台所に借りるね?」
私は項垂れた彼の顔を覗き込むようにして許可を求めた。
彼は何も言わなかったが、それでも私の言葉に力無く頷いてくれた。
だから私は少し強張ってたけど、微笑み返した。
家で紅茶を入れる事はあまりなく、ぎこちない手付きだし、彼のように美味しくは淹れられないだろう。
だけど冷めてる紅茶ではなく、暖かい紅茶を飲ませてあげたかった。
「はい、口に合うかはわからないけど」
目の前に紅茶を差し出すと、彼は顔をあげた。
真赤になった目で私が淹れた紅茶を見つめると、震える手でそれを掴みあげる。
だけど心もとないのか、それを左手で抑えながら口に運んだ。
「……美味しい」
彼はそう呟いた。
私も飲んでみたけど、彼のほど美味しいとは思えず何か物足りない。
それに複雑な気分になって彼をジトっと見つめると、彼は小さく微笑んでくれた。
彼が完全に落ち着いたのは日の落ちかけた夕方だった。
もうポットの中も空だ。
「呼び出したの、僕なのに……こんな事に付き合わせてごめん」
彼は唐突にそう言った。
私は首を横に振って苦笑する。
「本当にごめん……これ渡す為に呼んだのに……」
私が首を傾げると、彼は複雑そうな顔をしながら薬局の紙袋を差し出した。
それを見れば大体の察しはつく。
あけてみれば、やはり中には妊娠検査薬が入っていた。
私が昨日躊躇って買う事ができなかった物だ。
「買ってきたの?」
「僕の責任だからね……」
彼はそう言うと顔を伏せた。
実際は彼だけの責任ではないのに、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになりそうだ。
「あと病院も行かなきゃ……」
「いいの?」
私は驚いた。
正直ダメって言われると思われていたからだ。
そしてそう思う理由を彼は判っているはず、いや、判っていなければいけない。
「毒の事でしょ、でもニヶ月も待ってたら手遅れになる……」
手遅れ、この言葉が何を意味するか、私でも判った。
なんだかモヤモヤして、苦しくて、悲しくて、色々な感情が渦巻いてしまう。
「中絶するのに……って事?」
だから私は聞いた。
どんな答えが返ってきても、きっと私は納得しないのに聞いてしまった。
「そうだよ」
彼が目を伏せながらも簡単にそう返してくるのが嫌だった。
どうして簡単にそんな事が言えるの、
どうして産ませてはいけないって思えるの、
理由なんて判りきってるのに、そんな疑問がグルグルと頭の中を駆け巡った。
「どうして……っ」
当たり前の事を言われただけ、なのに涙が溢れてきた。
普通の人には簡単すぎる問題。
だけど私には難しくて仕方ない問題だったから……。
「ゲームがどう終っても僕は裁かれる、これがどういう事かわかるでしょ?」
彼の言葉が当たり前すぎて、何も返せなかった。
辛くて苦しくて、罪悪感にも似た気持ちが私の心をズタズタにする。
なのに私は意味のない涙を流す事しかできない。
どうしようもない事を涙に込めて流す、その為に私は泣いた。
このゲームの終りに私の望むエンディングは、一つも用意されていないから……。
...2008.09.01