体育祭の前日、私は普段通りの時間に買い物にでかけた。
だけど彼は現れなかった。
ホッとする反面、不安が募る。
私が見ていない所で何をしているのだろう、明日の事を考えているのだろうか。
それとも、明日の事は気にも留めず次の犯行を計画しているのだろうか……。
一緒に居ても不安で、傍に居なくても不安で複雑な気分だ。
母は仕事で今日は帰ってこない、それは正直安心していた。
母に隠し事をしている事を感じずに済むからだ。
彼に出会う前は一人で居る時間が寂しくて仕方なかったのに、
それが今では、一人で居る時間が一番自分に正直に居られる時間で、可笑しい気分だった。
晴れた日の午後、今より少し背が低く髪の長い私は、セーラー服を着て通学路を歩いていた。
しばらく歩いてると、公園の一角で小学生が泣いていて、その子の視線の先を見上げた。
そこには大きな木の枝に引っ掛かって落ちてこないゴムボール。
その子はボールが取れなくて泣いていた。
小さい頃から遊ぶとしたら外だったから、木登り自体は苦手じゃなかった。
だから私は、
「お姉ちゃんが取ってきてあげるね」
そう声をかけた。
登るのは簡単だ。
そしてボールの引っ掛かっている所についたら、その子に声をかけてボールを落す。
泣いてた子が笑ってくれて、私も嬉しくなる。
だけど私は、いつも後の事を考えていないんだ。
「お姉ちゃん、もしかして降りれなくなっちゃった?」
その子は私にそう声をかけた。
登る時は下を見ていないから気付かなかったけど、結構高い。
心配をかけまいと、「大丈夫」と笑って見せたけど、正直降りれない。
二人揃って動くに動けなくて、その子はまた泣きだしてしまった。
良かれと思ってやった事でまた泣かせてしまって、自分が情けない。
そんな時、偶然通りかかった人がその子の泣き声に気付いて近付いてきた。
それは私と同じく少し背の低い彼―朝霧 律。
だけどこの中の私は彼をまだ知らなくて、公立校に通う自分と違い、
偏差値の高さで有名な中学の制服を着ている彼に見られるのは恥かしかった。
頭の良い人から見て、この状況はバカだと思われるのではと、そう思ったから……。
だけど彼は、バカにする様子もなくただ不思議そうに首を傾げた。
「君、そんな所で一体どうしたの?」
そう口にすると、彼は泣いてるその子を見た。
ボールをギュウッと抱いているのを見て察しがついたようだった。
彼は鞄を置き、上着を脱ぐとその子に「持っててくれる?」と渡した。
泣きながらもコクンと頷き上着を受け取ると、その子の頭を軽く撫で木にそっと触れる。
「今助けるから、ジッとしててね」
彼は木の上にいる私にそう微笑みかけた。
助けられた後もお礼こそ言ったもののお互い名乗る事すらなかった。
その微笑みが今も忘れられなくてすごくドキドキして、また会えたらいいなとか、そんな事を考えてた。
思えばこの時から、私は彼の事好きだったんだ。
十月十日月曜日、目が覚めると恐ろしい現実に引き戻された。
中学の時に初めて彼と出会った日の事を夢に見る度、
私達はまだ出会って間もなくて、お互いの名前も知らない、今ある現実が私の中の夢であったような感覚に襲われる。
思えば彼との出会い自体夢みたいだったかもしれない。
カッコいい男の子に助けられ、再会して、愛し合う。
その時間の流れはまるで少女漫画みたいで、それでも私達には創られていない真白の道は続いてた。
だけどそこに突如付け加えられた殺人劇、それは真白だった道を黒く赤く塗りつぶしてしまったんだ。
覚醒しきらないが時間もなく仕方なくお弁当を作り始めた。
だけど目が覚めても夢の続きを求めていて、中学の頃を思い返す。
「二度目に会ったの、いつだったっけ……」
そう誰に言うでもなく呟いた。
二度目もやっぱり偶然で、私はその偶然に顔を真赤に染めてた。
彼は少し頬を染めながら微笑みかけてくれて、やっぱりドキドキした。
『今頃だけど、君の名前聞いてもいい?』
そう聞いたのは彼の方だった。
仲良くなるきっかけを作ってくれたのも彼、
告白してくれたのも彼、私はいつも彼に全てを与えられてたんだ。
そう感じた瞬間、目の前が涙で揺らいでそれを拭った。
二人分詰ったお弁当と、こっそりと一人分のお弁当を用意した。
二人分は私と彼、そしてその一人分は夜観之君の分。
自分にできるのはこのぐらいで、この程度じゃ恩返しにもならないけど、何故か作ってしまった。
それを包み終えたら今度は朝食。
残ったオカズを朝ご飯にしようと少しお皿に盛った。
それでも余った物はラップをかけて置いておいた、もうすぐ母が帰ってくる時間だからだ。
だけど朝ご飯を口に運んでいた時、異変が起こった。
唐突に吐気がして、口を抑えて流しに立つ。
やっと落ち着いてきても、口を抑えたまま動揺を隠せなかった。
毒の所為とも考えたけど、これはそうじゃないと思う。
そういえば最近、母は度々調子を聞いてきてはカレンダーを見てた。
私は他の事に気を取られて気付かなかったけど、最後に生理が来たのはいつだっただろう。
八月と九月はなかったように思う。
よく考えれば私の調子は彼も気にしていた。
私の事なのに、私自身はまるで気付かなかったなんて……。
言い様のない不安に私は思わず軽くお腹に触れた。
触れても何もわからない。
戸惑いに身体が震え、どうしたらいいのかわからなかった。
そんな時に玄関がカチャカチャと音を立て私はビクッと振り返り、咄嗟に手を放した。
「ただいまー……って、どうしたの?るん」
私は蛇口を捻り水を流した。
「……何でもないよ?あ、ご飯そこに置いてあるから、それじゃ行ってきます」
前もって準備してあった鞄の中にお弁当を入れて、私は急いで家をでた。
アパートの階段を駆け下り少しだけ駆け足。
そして家が見えなくなると足を止めた。
「……まさか、ね」
学校では体育着に着替えてくるように言われ、ジャージを羽織って校庭にでた。
来週まで来られないという事になっていた間野さんが、身を縮めて二年の陣地に座っている。
顔色もあまりよくないような、そんな印象だ。
そのすぐ横では彼が先生と出場種目について話しているようだった。
笑顔で受け答えしていながら、夢にでてきた中学生の彼とは違い目が笑っていない。
それがすごく恐ろしく思えた。
話が終わり先生が踵を反すと、すぐ彼の表情は冷たいものにかわる。
それに私は身体が震えた。
だけど彼は、目が合うなりすぐ表情を和らげ、
「おはよう、のる」
そう言って微笑んだ。
私はそれにホッとするのと同時に少し戸惑った。
「う、うん、おはよう律君」
そのやり取りを聞いていた間野さんはビクビクと震えながらその場を離れた。
私がどんなに怯えていても、彼が私に優しくする事は周囲の目から見ても明らかで、
私自体が被害者から見れば恐怖の対象である事は間違いなかった。
それからしばらく経って、開会式まであと数分という所で夜観之君はやってきた。
私はと言えば、彼とパッと見は他愛のない、実際は中身のない会話をしていた。
ふと夜観之君と目があって、不安や疑問を言おうとしたが言葉にならない。
でもそれを判ってくれたのか夜観之君は、
「待ってろ」
とだけ言って、頭をポンと叩いた。
だけど私の不安は夜観之君が考えている事以外にもあって、
叩かれた頭を抑えながら、複雑な顔をしてしまった。
そして彼がそんな私の様子を面白くは思うはずはなく、
引き寄せられるまま頬に軽く口付けられる。
真赤になりながら彼を引き剥がすと彼はクスクスと笑う。
その様子に私はすぐ平静を取り戻したが、彼は少し違和感を感じているようだった。
開会式の後、放送委員のアナウンスに沿って競技が始まった。
それと同時に先生が出場種目を書いたプリントを配った。
「のるは借物競争?なんか懐かしいね」
高校にしては幼い種目に彼はプリントを見ながらクスクスと笑った。
私は彼の言う通り借物競争だけだけど、彼や夜観之君は割と色々な競技に割り振られていた。
だけどこの学校は一学年一クラスしかないから、必然的に学年対抗で争う事になる。
だから彼と夜観之君が被る種目は、百メートル走以外にはなかった。
むしろ被る種目があるだけ良かったかもしれない。
「午前の部の最後か、結構先だね」
「……そうだね」
私は紙を見ながらそう相槌をうった。
「次のハードル走に僕入れられてるね……行ってくる」
彼はそういうと羽織っていた上着を置くと行ってしまった。
今の種目にも次のハードル走にも夜観之君の名前はない。
だから私はキョロキョロとクラスの陣地を見回した。
黒が並ぶ中にあるピンクの髪は目立つからすぐにどこにいるのかわかった。
私は鞄の中から小さい方のお弁当を取り出すと、コソコソと夜観之君の元へ向かった。
「夜観之君?」
「んあ?なんだのろ子か、何?」
眠たそうに首を傾げる夜観之君を見て、いつも通りだと何だか安心した。
「お昼って用意してる?お弁当作ってきたんだけど、これ」
それを言い切らぬうちに私は夜観之君にお弁当を差し出した。
「お前、傍から見たら浮気だぞ?」
ジトーッと私を眺めながら夜観之君はそう言ってきて、
「そ、そうかな?」
と、私は不安げな声をあげた。
それが面白かったのか夜観之君は声を押し殺すように笑う。
私は何が何だか判らず戸惑ったが、差し出したお弁当を受け取ってくれた瞬間からかわれた事に気付いた。
恥かしくて思わず赤面してしまう。
「ま、弁当一つで癇癪起こしたらあいつ相当器ちっちぇーよな、サンキュ」
夜観之君はそう言ってもうクククッと笑うと、お弁当を自分の鞄の中へしまう。
受け取ってもらえた事が嬉しくて私は「どういたしまして」と笑顔で答える。
そしてハードル走が始まる前に、私は自分の座っていた所に戻った。
ハードル走は一学年につき男子四人、女子二人が参加していた。
一回につき六人で合計三回しかない、次の種目までそれほど時間はかからないだろう。
だけど選手がグラウンドに集まれば、それなりの声援もあって盛り上がる。
それに彼は先生方からも注目されていたから、結構な賑わいだった。
最終レースで彼は一年生や三年生に挟まれてスタート地点に並んた。
特に緊張した様子もない。
むしろ彼と当ってしまった人達の方が、諦めたように元気がなかった。
「朝霧!朝霧!」
二年生の体育会系な人達がそう応援しだせば、今までまるで無関心だった千草先生も応援に加わる始末。
クラスメイトが二人でていても、みんな応援するのは彼だけだった。
彼は微笑みながら「頑張ります」と返していたが、
彼が一瞬冷たく見下したのを私は見逃さなかった。
彼が一着でゴールすると、歓声が湧き上がって彼は微笑みながら声援を送る人達に手を振り返した。
それが本当の笑みではないと気付いているのは、恐らく私と夜観之君、そして被害者だけなのだろう。
しばらくして彼が二年の陣地に戻ってくると、駆けつける人達に軽く笑顔を向けて、すぐ私の元へ来る。
正直周囲の視線が痛いが、彼が振り返るとその人達はすぐ視線を外した。
一瞬、邪魔者がいなくなったと言うような表情を浮かべ、すぐ私の横に座った。
「のる見てた?」
去年はお昼の時間以外まともに話もできなかったのに、今年隠す素振りもなく楽しそうに聞いてくる。
「うん一位だったね、私あんな高さのハードル飛べないよ」
私もできる限りの笑顔でそう答える。
「飛ばなくていいよ、怪我したら大変だよ?」
彼は私の肩を抱いて耳元で囁くようにそう答えた。
その距離に私は恥かしくなって頬を染める。
だけど突然の歓声が湧き上がり、私も彼もグラウンドに注目した。
今一着でゴールしたのは夜観之君だ。
千草先生も期待はしていなかったのか、すごく驚いているようだった。
「……ふーん?」
彼はそう小さく呟くと夜観之君をジィッと眺める。
そして目が合えばしばらく睨みあいが続いた。
その後もずっと、彼や夜観之君のでる種目はすごい盛り上がりを見せた。
一年生も三年生も、同じ学年の応援をせずに彼らに注目するほどだ。
午前の部もいよいよ最後で、日も高く眩しい。
同時に少し暑くて、私は少し意識が朦朧としていた。
でも保健室に行こうとは思わなかった。
夜観之君が私の為にわざわざ走ってくれようとしているのに、
それを見ずに休む気にはなれない。
百メートル走は他の種目より選手が多めで中々終らない。
しかも二人は最終レースだ。
順番を待っている間も二人はずっと睨み合う。
もちろん彼の方は皮肉めいた微笑みを絶やさずに……。
そして最終レースの選手が並ぶと、グラウンドは歓声に包まれる。
さきほどまでの流れと同じだ。
それに注目される二人が同じレースにでている、それで更に盛り上がりは増していた。
『パンッ!』とレース開始の合図が響けば、一斉に走り出す。
しかし他の四人は完全に周りの空気に飲まれて出遅れ、二人の勝負と言う感じだった。
優勢なのは彼の方で、夜観之君も負けじと距離を詰める。
二人共余裕は無さそうだったが、彼の方が勝っているという面で余裕を持っていたと思う。
だけど私は五十メートルを越えたくらいで意識を失った。
驚いたクラスメイトがザワザワと騒ぎを大きくする。
その騒ぎに気付いたのは、その余裕を持っていた彼の方だ。
「……のるっ!!」
彼は一瞬足を止めると大きくコースから外れ、グラウンドを横切って二年の陣地まで駆けつける。
夜観之君も一瞬躊躇したがこちらに来る事はせず、一着ゴールを決めた。
私の頭の中に『ごめん・・・』と彼の震えた声が何度も何度も響いてきて目が覚めた。
彼が遅れて学校に来た日と同じ、また保健室のベッドの上だ。
そしていつも通り先生はここにはいない。
左手が温かくて、フと横を見れば彼が両手で祈るように私の手を包み込んでいる。
項垂れていて表情は読み取れないけどひどく苦しそうで、久々に見る弱々しい彼の姿だった。
「……っ目、覚めた?」
彼は私の顔を覗き込むとそう言った。
目が覚めた事に安堵している顔ではなく、
申し訳無さを含んだ表情。
「心配かけて……ごめんね?」
私はそう言うと苦しいながらも微笑んで見せた。
「……僕負けたからっもう無理しなくて、いいんだ……」
彼は手は握ったまま、俯いてそう言った。
保健室には今回も私達以外誰もいなかった。
外も静かだ、もしかしたらまた放課後になってしまったのかもしれない。
「もう、体育祭終っちゃった……?」
私は恐る恐る聞いた。
「うん……借物競争は七瀬が、代わりにでたみたいだよ」
彼はそう微笑んだ。
以前の再現のような作ったような微笑みじゃなく、ごく自然に……。
だから私も思わず笑みが零れた。
「夜観之君が?ちょっと想像付かない……」
「それは僕もだよ」
彼はそう言って苦笑いを浮かべる。
私は一瞬首を傾げ、だけど聞くまでもなく自体を把握した。
「もしかして、ずっとここにいたの?」
「うん……」
きっと彼が欠けた事で二年は惨敗したのだろう、
それに千草先生はすごい怒っただろうとも……。
だけど私が申し訳なさそうな顔をしていると、気持ちが判ったのか彼は握った手に力を込めた。
「そんな事は、のるが気にする事じゃない、僕が悪いんだ……」
彼はそう自分に言い聞かせるように呟いた。
それからしばらく二人の間には沈黙が流れた。
自分を責める彼を慰める事はできない、確かに原因は全て彼にあるから……。
だけどその空気に耐えかねて私は話を替え様と口を開いた。
「……あはは、一緒に食べれるようにお弁当……作ってきたのになぁ」
私がそう笑うと彼は悲しげに微笑んで「そうなんだ、食べたかったな」と言うだけで、すぐ黙り込んでしまった。
対処しようがなくて私も思わず黙り込む。
でもしばらくすると今度は彼が何かを言いたそうに私の顔を覗きこんだ。
それを察して私は軽く首を傾げる。
「間違ってたら……ごめん」
彼は最初にそう謝罪するとまた間を置いた。
よほど言い難い事なのだろうか、私は彼が口を開くのを待った。
彼は密かに震えていて、強く握られた手にその震えは伝わってきた。
そして考えていた事を言葉にまとめた彼は、私をまっすぐに見つめて言った。
「のる、ここ数ヶ月……生理来てないんじゃない……?」
彼はそこまで言うとすぐ顔を伏せる。
私も自分の不安を彼の口から言われ、驚いて言葉がでなかった。
...2008.08.02